2008年7月21日 6.光をおさめる漢 田渕 漢の時代にも、生きているものがありますね。 7.無限の大きさ 田渕 仏教が入ってきた六朝の、北側の作品です。すっきりとした空気を感じます。小さくても生きています。何か楽器を吹いているから、戦争の馬ではありませんね。 [『青瓷四系罐』(晋 二六五〜三一六)、『青瓷天鶏首壺』(東晋 三一七〜四二〇)を見て] 田渕 群を抜いています。宇宙のような大きさを感じます。これまでの時代の壺とは全然違う。これが韓国に渡って、韓国も仏教を信じるようになったのですが、それだけの、皆が納得する力があります。この作者は、仏法を体得しているに違いありません。すごい境涯です。見れば見るほど広がりをもっていて、新鮮な果物のようです。有限の形に、無限の大きさがあります。 竹岡 写真じゃ出せませんね。 田渕 ふつう、壺だけでこんなに感動できませんよ。一番清新な息吹にあふれています。 [『黄釉牛』(唐 六五七)を見て] 田渕 一気につやが出てきました。土は生きてないけど、生きてないものが生きています。釘付けになってしまいます。誰が見ても一目で分かる。ただ生きているだけじゃなくて、うねっています。しかも絢爛豪華です。 8.龍との出会い 田渕 偶然にも「龍」の前で会いましたね。 汪 やっぱり先生とは何か不思議な縁がありますね。この壺は龍が水を吸って天に飛ばす……すなわち雨を降らせるという意味があります。中国は農耕民族ですから、雨がないと生きられません。その願いが込められています。 [『三彩載楽駝』(初唐 八世紀 七人もの楽人を載せた駱駝の唐三彩)を見て] 田渕 これは大変な作品です。宗教を超えた芸術のすごさ、人間のすごさまで到達しています。こうした人間が作ったものから学ばないといけません。古典につながらないのは、師匠がないのと同じ。遺産を自分のものにすることをしなくてはなりません。 9.星落五丈原 五丈原の北端、諸葛亮廟に入り、建物や衣冠塚、落星石を見る。衣冠塚とは、孔明の衣類や冠を埋納したという場所に立てられた碑。落星石は、孔明が最期を迎えた時、赤い星が東北から西南に流れ、三度、陣中に落ちたという、その隕石をはめ込んだとされるもの。また、廟には「一詩二表三分鼎、萬古千秋五丈原」と掲げられていた。 「一詩二表三分鼎」とは、孔明の業績を端的に表した言葉。 田渕 ここはすばらしい場所です。はるか遠くを見渡せ、品があって、孔明の人徳が染み込んでいるようです。ここなら、いい絵が描けます。土地にも、生命の境涯がありますね。ここは、すーっとしてきます。霊気を感じます。 竹岡 孔明像の上に「忠貫雲雷」という言葉がありましたが、誠実な生き方が今も土地に残っていて感動しました。 汪 孔明はなくなる時は余るお金がなかったそうです。清廉潔白で今も人々の心に残っています。関羽も信義を貫いたとして尊敬されています。 10.芸術の役割 田渕 ここに唐の魂、大中国の魂があります。これを現代に蘇らせないと、本当の意味で中国が偉大だということに誰も納得しません。たくさんの俑がありますが、顔が一つ一つ違うこと自体がすごい。動物の俑もいいですね。見る人すべてを、高い境地に引き上げてくれます。仏教で成仏といいますが、これは、死んだ人のことをいうのではなくて、正しくは絶対的な幸福の境涯をいいます。 この旅で、その成仏が、姿・形に現れていると思いました。個別の成仏を、形にして永続化・普遍化するのが芸術の役割です。永泰公主は、若くして不幸な死を遂げましたが、副葬品群は、まさに成仏そのものです。これらによって、永泰公主は癒されたに違いありません。また、その形をもっているが故に唐が世界一なんです。『モナリザ』はきれいだけれども見る人の心(生命)によって、悲しくも見える。インドや中国のいい作品は、見る人がどうであれ、人を明るくし、満足させます。 汪 西洋の物質文明は、行き詰まりを見せています。大切なのは調和です。田渕先生が黄鶴楼の仙人の譬えのように鶴に乗って、世界中に魂を入れに行って欲しいと思います。長くなくて構いません。画竜点睛の眼を入れるように、急所を入れてください。 田渕 短くて単純じゃないと民衆に入っていかないですね。みんなに効くものは、シンプルです。この旅で得たものを必ず生かしていきます。 |