2009年5月22日 4.永遠不死と再生の哲学 すべてはアクト(物質・肉体)とバー(霊魂)とカー(永遠不変の実体)が結合した存在と考え、肉体もしくはそれにかわるものが存続するかぎり、それをよりどころに霊魂は生きつづけると考えた。これが「カーの哲学」である。カーは人間とともに生まれ、ともに行動する分身である。人間が死んでもカーは生きつづける。しかしアクトを離れては生きてはいけない。人間が死ねば、カーはしばらく活動を休む。そしてアクトをミイラとして存続させ、それが蘇るとき、カーは再び活動を開始すると考えた。 彫刻は、朽ちやすいミイラにかわって、カーの宿る場所として永遠と安定を求めて造られた。これが現代に通じるリアリティーを誕生させたエジプトである。死を忌み嫌い、死(生命の法則)を見ようとしない現代。人生の三分の一を、来世のための準備にあてたエジプト。 無限なるものは形の束縛のなかに、 オリエントの光は、つながっている。 天と地の合流 すべての流れは大洋にいたる。いまやナイルの流れは極東の太平洋の岸辺にたどりついている。東洋の最高の英知である法華経は、すべての生命は相(物質=アクト・仮)、性(精神=バー・空)、体(本質=カー・中)が一体のものであり、相に即して永遠・普遍の本質があるとする。見えるところに本質がある。その奥でも手前でもない。 5.大陽の道 縁起という哲学の根から 現在の一瞬一瞬が、生命の実相であって、その連続がいのちである。人間は、発する声といっしょになることができる。形といっしょになることができる。その場の空気といっしょになることができる。 一瞬の連続の中にしか生命はない。一瞬(一筆)の中に、一瞬をとらえることによって、永遠の生を得ることができる。見える一瞬一瞬の形を通して、永遠・普遍とひとつになる。 一瞬(相・姿)のない表現は、いのちがない。いつしか、太陽にのぼる階段に着いていた。有情(生)と非情(死)の境界がとれていた。天(精神)と地(物質)が合流していた。眼に見えるピラミッドとスフィンクス。 |