2009年6月1日
2008年10月ごろだった。ちょうど100年に一度といわれる経済不況が、世界を同時にのみ込もうとしていた。
「竹岡さん。もう1回、エジプトに行こう」
いつも熱く語る田渕先生だが、その日、会って最初の言葉は少し違っていた。
田渕先生とはすでにエジプトに一緒に行っている。
「アメリカに代表される、経済の行き詰まりの源はギリシアにある」
「頭で測ってしまう合理主義にあるんだよ、竹岡さん」
とどまるところをしらない田渕先生の芸術哲学。
「ギリシアの彫刻は、頭で測って作っている」
「エジプトは人間そのものだ」
「だからエジプトにもう一度行って、確かめよう。真の偉大な芸術の根源を」
還暦をもうすぐ迎えようとしていた私の心に、雷鳴がとどろき稲妻が光ったのを覚えている。このようにして、田渕先生と往く2回目のエジプトの旅が始まった。
年も押し迫った12月26日の出発で、私は先にカイロに入っている田渕先生を追うことになった。節約のためマイレージで飛行機の予約を取ったのだが、直行便がなく、成田10:35発→北京13:40着、7時間待機の後、北京20:30発でドバイへ。さらにはエジプト航空のトラブルによりドバイの空港では10時間も待たされることになった。結局カイロに着いたのは27日の夕刻であり、心身ともにかなり消耗して、くたびれはてていた。そこに加え、カイロ空港で大変なことが起きた。荷物が出てこないのだ。
失敗した。
大変なことをしてしまった。なぜならば、とても大事なものをその荷物の中に入れていたのだった。それは、私が還暦を迎えたときの、素直な気持ちを話さなければいけない。
私は昭和42年、故郷広島から大学に入るために上京。46年に卒業して創価学会本部職員になった。本来であれば、2008年12月14日の還暦を迎えて定年退職となる予定であった。しかし、10年前の50歳の時、子ども2人が創価学会職員になるであろうということになり、一家4人の内3人が禄をはむのは申し訳ないと思い、またその世の事情もあり本部職員を辞した。
その後、循環社会研究所という企業を設立して事業を始めた。本来であれば、還暦を迎えて職員としての定年退職を迎えるという気持ちが心に強くあった。その報恩感謝の思いを、私の人生の師匠である池田先生にお届けしたく、お手紙を書いて先生にさしあげた。その私の、池田先生への報恩感謝の思いというのは、10年前に創価学会本部職員は辞しましたが、心、精神は本部職員という強い一念で、今日まで生き続けてきたこと。それを60の齢を迎える私の気持ちとして、田渕先生と旅して出版した「黄鶴楼と壷」のあとがきに、その思いを書きとどめた。「報恩と知足の人生」というタイトルであり、「一詩二表三分鼎 萬古千秋五丈原」と両脇に記された孔明の霊廟で、強く霊気に打たれて感じた思いを込めて。
孔明は54歳のとき、8歳の息子に「誡子書」を贈り、「淡白以明志 寧静以致遠」と残している。それは、利益をあくどく追求しないで、淡白であることによって自分の心を明るくし、理想に生きることができる。また、常に心安らかに本質を見ることによって、遠大な目標も達成することができる、との意である。つまり孔明のこの言葉の持つ重みは、孔明の生き方そのものである、死をとしても、主君の劉備への恩を返すために、忠誠に徹しきって戦いぬく、という生き方なのだ。
私は孔明の霊廟で、人生の師匠である池田先生に対する「報恩感謝」の人生と、足るを知る、「知足」の人生を生きることを誓った。そこで法華経の方便品、寿量品の自我偈と題目を三百遍唱えた。そして、2つのことを深く念じたのだ。
一つは、「孔明よ、御安心下さい。あなたの理念、哲学は時を超え、日本で池田大作という巨人にしっかり受け継がれ、多くの青年に伝えられています。そしてその青年はしっかりと受けとめています。これからも池田先生と連なる弟子を世界の平和のために、どうか守って下さい」。
そしてもう一つ、「自分も孔明のような、生き方をしたい。死をとしても、師匠の池田先生への報恩感謝のために、忠誠に徹しきって戦いぬく、という生き方をしたい。その為にも是非とも孔明の知恵を、万分の一でも涌現させていただきたい」と願った。
孔明の理念は、池田先生という巨人の、行動の哲学となって実現されている。ある意味これは、法華経の理の一念三千と事の一念三千にも通ずるところがあるかもしれない。孔明の願った、万人の幸福と平和な国土を作るための理念。その理念を現実の社会、生活の中で、人間一人一人が、そして社会が、どのように行動していけば良いのかを具体的に方法を現した行動の哲学。そしてその行動の哲学を、そのままに実践する偉大な一人の人間を思わざるをえない。
この師匠への誓いを、あとがきに記した「黄鶴楼と壷」の本と、諸葛孔明の終焉の地、五丈原で、田渕先生が孔明の顔を描いた原画を、池田先生にお届けした。すると池田先生から、24日の日に激励のご返事をいただいた。「ありがとう。しっかり頑張りなさい」という激励と、「厳然と 富士の如く 君よ立て」というお歌を添えた富士の写真をいただいたのだ。さらに『師弟の光』と題する本を一緒に頂戴した。「師弟の光」の中身は、池田先生が戸田先生にお仕えした、若き闘争の記録であった。
26日の出発間際の慌ただしい時間であったため、私は仏壇の前に置いていた師匠からいただいた大切な「師弟の光」の本をエジプトで読もうと、スーツケースの中に入れて家を出た。
髭剃りや着替えなどはどうにでもなるが、師匠・池田先生からいただいた、大切な大切な師弟の証をなくしてしまったのだ。とても辛かった。カイロに着いてからというもの、失意のどん底に陥り、地獄のような自身に対する悲しみのあまり、無為に時間を過ごしていた。
28日。到着翌日、ピラミッドを見に行った。そこで私に転機が訪れる。
山のようにそびえ立つギザのピラミッド。天に登るピラミッドが、さらに空に、ぐーっと伸びて、そのまま宇宙を包み込むかのような姿に私は圧巻された。ピラミッドの先の天とは、太陽だ。「ピラミッドの頂点に太陽の力が宿る」と、田渕先生がピラミッドを描きながら語り始めた。
「頂上の持つ力なんです。頂点が人を引き上げるんですよ。アルプスで山を描いている時も、まず頂点を探してしまう。頂点を見るだけで崇高な気分になる。それがピラミッドの力であり、山の力なんです」
私はもう一度、ギザのピラミッドを見つめ直した。太陽の力が宿る頂点をしばらく見つめていた。すると不思議なことに、「失敗した。大変なことをしてしまった」との辛い思いが消え去り、一切気にならなくなっていた。これはピラミッドが、私の視点を天上へと向けさせたのだ、と実感し始めていた。
後編へつづく
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