2009年7月2日 今年(2009年)の4月、ヒマラヤへの旅をして来た。 今までと違って、ヒマラヤの街道は車の道ではない。自分の力ない足を頼りに、はたしてこの歳で高度順応ができるか、酸素の少ないリスクを越えての旅である。いよいよ生涯の願業ともいえる「思う通りに描かない、見える通りに描く」、この生命主義運動(ルネサンス)の決着をつける戦いが始まった。 眼にする山の道は、起点のルクラに着くと真っ赤なシャクナゲが咲いて、黄色の花と雪山が眼にしみる。モンジョ、ジョサレの澤に沿って登る大陸の渓谷に桜が咲いていた。360度絵になるシェルパの里ナムチェの頂、そしてシャンボチェの3880mのエベレストの見える丘。上空の偏西風は東に雲を流して、天空の中央に最高峰が見える。四十数億年にものぼる山の生成は無駄をはぶいて、生命の尊さと峻厳さが現れている。拙い技でも、モチーフは世界一である。ヒマラヤをテーマとした90mの大壁面を目指して、残された十年、二十年の仕事の口火が切られた。 この発端は、竹岡誠治さんであった。ところが氏は、登山の二週間前、足の肉離れで全治三週間との診断、医師の眼には絶対山行きは不可能であった。足は横に動けても、前には歩けない。高低差のある山道は、歩行するには困難であった。 氏は、ルクラからシャンボチェへの高低差1000mを、馬で乗り切った。 私も少しばかり馬の助けを借りたが、馬の習性か、千尋の谷のへりを歩くので、たまったものではない。当人は「馬に命をあずけて行けば、どうってことない、素晴らしい景色ですよ」と、すずしい顔。山の道は、人智を超えて天にまかせていくようなことが何度もある。 それにしても、前世の約束事でもないかぎり、できるものではない。志を共にする同行者の存在は大きい。そして、何にもまして、三浦豪太さんという、よき先達を得たことは、さらに有難い。 多くの人の助けを借りて、最高峰のヒマラヤを眼に収めるところまで押し上げてもらった。 豪太さんは「じいちゃん(敬三さん、百一歳の死の年まで現役)から教わった」と、酸素の少ない世界、「ゆっくり、ゆっくりと、呼吸と歩みを合わせること。呼吸が乱れれば人生は危うい」「歩くことは自分のペースで、どこまでも、いつまでも、永遠に歩けるのが、理想のペース」「歩くことで無駄が削られ、無駄な考えはなくなっていく」と、三浦家三代の知恵を教わった。 この秋には、いよいよ絵を描くための再度のヒマラヤの旅が始まる。誇り高きシェルパ族の一人、今回守って随行してもらったリンジさんとの再会が楽しみだ。ネパールには、いくつも民族がいるが、彼らは先祖が東(チベット)からやって来て、この高地で暮らしている人達である。人を助けることを旨としている。お金でもない、名誉でもない、山の仕事。その人が、二日、三日と日数を経るにしたがって、わくわくと胸をおどらせて、長い時間かかる絵のできるのを心待ちしてくれていた。 山から降りて、お父さんの雄一郎さんにお会いして、絵を見てもらった。「素人でも行ける5600mのところに、エベレストの全貌が見えるところがある」と、希望の声があった。また、チベット側からのエベレスト。「それは、女性の横顔のように美しい」と、幾重にも最高峰への希望がふくらんでくる。「山が呼んでいる、エベレストが私を呼んでいる」、「山は、しばし待てと、促す場合もある。入ってはならぬと、諭す場合もある」とも。もの言わぬ山の声を聞きとる人。声なき声を見る人。タゴールは「宇宙も言葉を話す。それは、絵と踊りの声で語る」(趣意)と言った。 人間の意志と宇宙の意志の合流する芸術のような視点を、山の巨人との話の中に見た。「急ぐことはない。焦ることもない。ただひたすら歩くことだ」、「山に育てられた。山に助けられた」と。あくまで謙虚であられる。 ヒマラヤの秋の透明な空気のように、写真で見ていたいかつい山男ではなかった、そんな雄一郎さんとの出会いであった。 |