2009年9月2日 久しぶりに、一目惚れをした。ドキドキするこの感覚、やはり、いくつになっても青春でいたい。チャレンジ魂そのもので、75歳で世界最高峰のエベレストに登頂した、三浦雄一郎氏の次男で、三浦豪太さんがいる。2回のオリンピックに出場し、スキーの才能は抜群だ。根っからの前向きで、ナイスガイ。 私は、エグゼクティブ向けの、会員医療サービスを運営して3年になる。会員のアンチエイジング担当で、順天堂大学の白沢教授に、アンチエイジングの秘訣を尋ねると、「食事」と「運動」と「生きがい」だと3つのキーワードを教えていただいた。生涯青春でいるためには、「生きがい」は大事なポイントのようだ。 去年の夏に、白沢教授が主催する、斑尾高原でのアンチエイジングツアーに参加した。そこで、豪太さんと、初めて出会った。トレッキングの指導をしていただいた。お爺ちゃんの三浦敬三さん、お父さんの三浦雄一郎さんの良き遺伝子を受け継ぎ、自然に対する畏敬の念、そして友人に対する心配り、何よりも前向きな性格に、一目惚れをした。 田渕先生と一緒に編んだ、田渕隆三作品集「ヒマラヤの風」を差し上げた。豪太さんは、「素晴らしい絵だ」と感動され、一度、この実物の絵を見てみたい、ということになり、八重洲で開かれた田渕先生の個展に招待申し上げた。 手始めに、冬のアンチエイジングセミナー斑尾高原2泊3日ツアーに全員で参加した。10歳若返るアンチエイジングツアーだった。 スノーシューを履き、自然溢れる雪山の中を自由に歩き回ったり、凍った湖の上を滑るように歩いたり、とてもこんなところ降りられない、と思うところをお尻から飛び降たり、転げまわった。一番心配した田渕先生は、10歳若返るどころか、よく見ると、10歳の少年になっていた。心とは不思議なものだ。運動と心の繋がりが生む素晴らしさを肌身に感じた。 10歳の少年の目をした田渕先生は、エベレスト登山を決意し、豪太さんの指導のもと、「石井スポーツ」で登山靴、リュック、ストック、懐中電灯、水筒、速乾性下着などなどを買い揃えて準備に入った。本格的な登山指導が始まった。1回目は標高599mの高尾山に登った。京王線高尾駅から約3時間半かけて、ふうふういいながら、登り切った。そこから見える富士山は素晴らしく、田渕先生は早速、絵筆を出して描き始めていた。 2回目は日の出山、3回目は陣馬山に登った。さらに代々木に、「ミウラドルフィンズ」という、三浦雄一郎さんのベースキャンプがあり、そこの低酸素室で、低酸素に慣れる訓練を、1泊を含め計3回行い、万全を期した。 斑尾高原のツアーのとき、1泊延泊して、豪太さんにスキーを教わった。この歳にして、スキーの虜になってしまった。豪太さんに惚れ、今また、スキーに惚れてしまった。その思いを、豪太さんに話した。 北海道札幌のテイネハイランドというところに、三浦家のスキーのホームゲレンデがあって、そこにスキースクールもあるから、特訓しましょうか、と。私は一にも二もなく、そこから2泊3日の土日の練習コース日程を4回入れた。5月の八甲田での、ツアースキーを目標にした。そして第1回目のテイネでのレッスンを2/27〜3/1に行った。足をハの字にして、体重を右に左に乗せ、面白いように上達していった。それは楽しかった。2回目のレッスンを3/19〜21で入れた。ところが、その2日目の20日の夕刻にアクシデントが襲った。エベレストまで、あと2週間で本番だ。いよいよだ、と思っていたときだった。 順調に特訓は進み、足をそろえてターンするレベルに入ったときだった。その日は、霧が深く垂れ込め、滑りながら「そろそろ帰ろう」とロッジを見た瞬間だった。夕方のゲレンデでコブができていた。そのコブに躓いた。真っ正面に倒れて転んだ。その瞬間、左足のふくらはぎから、「プチン」という音が聞こえた。「いたっ」 もう、痛くてたまらない。転んではずれたスキーを、なんとか履きなおした。指導員に横を抱えてもらい、レストハウスまでようやくたどり着いた。「とにかく冷やせ」という指導で、ビニール袋いっぱいに、レストハウスの氷を詰めて足に巻き付けた。あわせて札幌にいた豪太さんに連絡を取ったところ、お父さんの三浦雄一郎さんが、1ヶ月前に、テイネで大会のため特設された雪の塊に気がつかず、下の道路に勢い余って転落して骨盤骨折して入院している。お父さんの主治医に頼んであげるから、すぐに札幌市内のNTTの病院に向えという指示をしてくれた。タクシーを飛ばして病院に向かうと、その主治医の先生が待っていてくれた。すぐに処置をしてくれた。しかし、3週間は急性期なので足を動かさず、安静にしてくださいとの診断だった。私が言い出したエベレスト行きまで、あと2週間しかない、との思いが込み上げてきた。 そのあと、足をまっすぐに伸ばしたままの姿勢にされて、車いすに乗り、入院中の三浦雄一郎さんのところにお見舞いにあがった。すでに豪太さんから連絡が入っていたらしく、部屋に入るなり、「やあ、竹岡さん。大変でしたね」 東京に帰ってすぐ、自分のクリニックでMRIを撮ったところ、かなり白く出血の跡が残って見えていた。まずは松葉杖のまま、代々木の三浦ドルフィンズを訪ね、ヤス先生にお会いした。針とテーピングと、高酸素チェンバーを駆使してもらい、歩く練習をした。正直、一時はエベレスト行きをあきらめかけた。しかし、言い出しっぺの私が行かないわけにはいかない、と悩んでいた。すると豪太さんから、「竹岡さん、馬を使いましょう。馬を」と、思ってもみなかった話しがあり、これなら、とエベレスト行きを決行することに決めた。それからというもの、毎夜、家の周りを、登山靴を履いて練習に励んだ。 2009年4月3日、いよいよ出発の日が来た。豪太さんが、田渕先生の山の絵を見て言った、今まで見た景色の中で、全世界で一番だという、息をのむ景色。想像しただけでもワクワクしてきた。成田よりタイ航空で、バンコク経由ネパールの首都カトマンズに飛んだ。田渕先生と川北氏は、絵を描くために先にカトマンズに入っていた。しかし、カトマンズから次の目的地ルクラへの飛行機が、視界不良のため3日間足止めを食らっていた。ホテルで田渕先生一行と合流すると、世界遺産に登録されているカトマンズの古い寺院などを散策した。あのアソカ大王が建てた塔、世界最大級の仏塔をもつチベット仏教の聖地ボダナート、シヴァを祀ったヒンズー教寺院パシュパティナート、ヒマラヤ最古の仏教寺院スワヤンブナートなど、いろいろな宗教や民族と文化が融合した街ならではの空気に浸った。いろいろな宗教や民族と文化の融合は、これからの時代の大きなテーマだと思っている。その意味では、とても有意義な時間と空間だった。 |