2009年9月2日 4月5日、4時に起床し朝食を取り、5時15分にはロッジを出発した。飛行場に着くと、足止めを食った田渕先生と川北氏を、私の枠で1便、先に乗せて差し上げた。 クンブー川の谷沿いに、チョルン、カートをへて、まずバクディンへと向かった。道には桜の花が咲き、我々一行を迎えてくれていた。谷の下を白濁した渓流が右に左に現れる。頂上に雪をかぶったヒマラヤの神々しい連山を眺めながら、4時間半ほど歩いてバクラに到着した。私には足のハンディがまだ残っていた。不安もあり、豪太さんが勧めてくれた、馬を使った。 4月6日、朝食をすますとロッジを出発。ドゥードコシ川(乳の川)沿いの道をジョサレへと向かい、サガルマータ国立公園入園手続きを終え、標高600メートルの坂をゆっくりと登り切ると、シェルパの里、ナムチェバザールに到着。約6時間のトレッキングだった。私はこの日、3時間ほど山道を歩くことに挑戦してみた。歩いていて合うのは、人とヤクと馬しかいない。人間と動物だけだ。自転車、バイクも1台もいない、まして車は当然いない。この自然だけの道を歩き、何ともいえない充実感を覚えた。 一番心配していた田渕先生が、一行の中で一番元気で、豪太さんの指導で一皮も二皮もむけた感じがした。田渕先生はみんなより先に出発して、ここぞと思うところで絵を描き、一番最後に到着するという行程をこなしていた。昼食後、念のため私は馬に換え、2時にシェルパの里ナムチェに無事到着した。 4月7日、まだ暗いナムチェバザールを出発し、豪太さんの提案で当初予定になかったゾリカンの丘に向かった。そこはエベレスト街道でエベレストそのものが見える丘だった。日の出の中に、感動の絵巻が広がって見えた。 右手から太陽が昇り始め、エベレスト、ローツェを照らしていく。一生忘れられない。いや忘れることなど出来ない山の姿。田渕先生は魅入られたように絵筆を走らせていた。私は6時半より、方便品、自我偈、題目を唱えて祈った。 祈り終わって目を開けると、エベレストを描く、真剣な田渕先生の姿が、目に入った。うしろにそびえ立つ、白雪の山の厳しさにも増す、田渕先生の気迫と真剣さに、思わず無心でシャッターを切っていた。この一枚は、私が撮影した、これまでの最高作だ。 ナムチェバザールはシェルパの聖地とされるところだ。「ここに住んで絵を描きたいよ、竹岡さん」と、田渕先生はつぶやいた。ゾリカンの丘をあとにして、シャンボチェの丘へと向かった。川のすぐ側の渓流を登ったりして、3時間ほど歩いた。シャンボチェの小さな飛行場を横切ると、ホテルエベレストビューに到着した。このホテルエベレストビューは1968年始めてこの地に来た、日本人の宮原さんが、神の啓示に打たれて建てたホテルだ。 それは、宮原さんの「ヒマラヤの灯」の中にこうある。「次の日は予定を変更して、もう一日ナムチェ・バザールに滞在することにした。もっとよくシャンボチェの丘を見ておきたかったからである。シャンボチェの丘の東端がオム・ラッサである。ナムチェ・バザールからちょうど一時間の上りである。もしホテルを建てるとしたら、どの辺りがよいだろうかと、あちこち歩きまわってみた。ここ数日来、朝は快晴である。オム・ラッサの周辺は、数センチの雪が積もっていたが、表面が凍って堅くなっており、その上を歩くと、キュッキュッと締まった快い音をたてた。林をぬけて、突然ヒマラヤを目のあたりにするときは、その美しさに思わず嘆声が出た。キラキラと輝く朝の陽光を浴びて丘の上に立つと、なぜか胸の底からわきたつような喜びがこみあげてきた。想像していたとおり、オム・ラッサからの展望は、タンボチェに劣らず素晴らしかった。改めて、世界中にこんなにも美しく、雄大な景色の場所は、他にないのではなかろうかと思った。 北東の方向に見えるエベレストは、ローツェとヌプツェを結ぶ稜線のかなたに、八〇〇〇メートルのサウス・コルから上の部分しか姿を見せていないが、王者の貫禄じゅうぶんである。この山だけはいつも東の空に雪煙をたなびかせている。エベレストの右手にローツェが、標高差四〇〇〇メートルの氷壁を聳えさせている。さらに右手にかけて、真白なピーク38、そして、あやしくも美しい山容のアマダブラムへと連なる。アマダブラムは「母の胸を飾る宝石」の意味だという。アマダブラムの右手にカンテガ、タムセルク、そして南に流れるドゥドゥ・コシ峡谷をはさんでコングデ連峰へとつづく。タムセルクは、そこから谷ひとつへだてた近さにあり、仰ぎ見る頂は、槍の穂先のように鋭く、空を突いて聳えている。この他に名もない山も含めて十ばかりのヒマラヤの峰々が四方をとりまいている。 ヒマラヤの美しさとは、一体何なのであろうか。よく見れば、ただ青空を背景とした白と黒の陰影であるに過ぎない。しかし、じっと見入っていると、その美しさに圧倒され、心をうたれる。それはスケールの雄大さにあるのであろうか。あるいは、氷雪をまとった山の険しさにあるのだろうか。大地と大気の何十億年ものながいながい葛藤のすえ生まれた山々の風貌は、それゆえに限りない美しさを秘めている。私はこの場所こそ、ホテルを建てるのに唯一無二の天恵の場所ではあるまいかと思った。」(宮原巌「ヒマラヤの灯」より引用) 同じ地に立った私は、宮原さんが別の本「還暦のエベレスト」で言われていた、 4月8日、4時起床、外にはポルツェとタンボチェの村の灯がほのかに輝いていた。4時半に田渕先生と一緒に勤行、唱題した。丁度5時ころ部屋の窓から、エベレスト、ローツェの上に、金色(こんじき)の雲がかかっていくのが見えた。釈尊の誕生日に、生誕の地で、宇宙の荘厳なるリズムを感じた。 どう生きるか。 田渕先生はフランスの印象派の巨匠モネが、水蓮をテーマに90メートルの大作を描き、ライフワークとしたように、「拙い技でもモチーフは世界一である。ヒマラヤをテーマとした90メートルの大壁面を目指して、残された10年、20年の仕事の口火が切られた。この発端は、竹岡誠治さんであった」(「人間の港 第27号 山の声」より)と宣言をしてくださった。エジプトから始まった我々のロータスロードの旅も目標が明確になった。来る9月15日〜25日までアメリカ東海岸の旅が組まれている。田渕先生、川北茂氏、田渕先生の弟子の亀田潔氏、渡辺節夫氏、松下雄介氏、それに私を加えた6人の一行である。 シカゴ美術館、ワシントンDCのスミソニアン博物館、ナショナルギャラリー、フーリア美術館、ボストン美術館、ハーバード大学美術館、フォッグ美術館、サックラー美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館の視察が予定されている。そして10月15日〜17日は、これまでの集大成として、田渕先生の個展が新宿中央公園美術館で予定されている。さらに11月初旬からエベレストビューのライフワークの旅が始まる。 国家と国家の対立、民族と民族の対立、宗教と宗教の対立。あらゆる対立と断絶を埋めて、すべての人々が「存在すること自体が美しい。そこにあること自体が素晴らしい」と実感できる社会を作りたい。いよいよ最終章の旅と夢の実現が始まった。 |