2003年11月3日 「お客様のなかにお医者様か看護師の方はいらっしゃいませんか。いらっしゃいましたら乗務員にお知らせ下さい」 今年(平成15年)5月31日21時30分、ほぼ満席でミラノを飛び立ったJAL便に緊急アナウンスが流れたのは、離陸してから約4時間たったシベリア上空であった。大半の乗客が食事をとり、眠りに付いた頃であった。 緊張した客室乗務員が通路を慌ただしく走り、ドクターと思われる乗客が2、3人前方に向かった。しばらくして、「この便の機長です。私どもの乗員の1人が心臓の発作を起こしました。同乗のドクターに診察いただいた結果、近くの空港に引き返す事と致しました。誠に申し訳ありませんが、何とぞご了解ください」ざわめく機内。私も成田着後の仕事が頭をよぎった。今回の旅は、私の尊敬する3人の芸術家とルネサンスの源流を訪ねて、ギリシャ・イタリア8日間の予定であった。各地の博物館や美術館を訪ねて、3人の鼎談集を出版するためであった。 田渕隆三先生とは、長女・伸子、長男・光城がともに創価学園に学んだ縁で知己を得た。ひたむきな美に対する努力と誠実な人柄、そして何よりも、あたかもさわやかな風の吹き抜けるがごとき絵画に、初対面から強く惹きつけられ、深い縁を感じた。渡辺節夫氏は20数年にわたる友人であり、桃山の備前に挑戦するすばらしい陶芸家である。岡山県倉敷市玉島の地で、地域の多くの皆から慕われる若き美のリーダーである。松下雄介氏は、これまた人柄の溢れ出るほのぼのとした作品を造る陶芸家であり、料理を作らせたら天下一品、私の永年の友人である。 いつの日か、この御三方とルネサンスの源流を訪ね、この目この手で芸術を語り、人生を語り、後世のために記録に残したいものだと念じていた。この度、田渕先生の胸をお借りする形で、出版にこぎつけられたことは深い意義があるものと確信している。この旅の最中に予期せぬ出来事が2度起こった。 一度は最も重点においたローマ・ヴァチカンの美術館がすべて休館であったこと。事前の旅行代理店との打合せ、前日のガイドとの打合せでもチェックできず、入口の前に立って呆然とした。特にミケランジェロの『最後の審判』や古代ギリシャの彫刻『ベルヴェデーレのトルソ』が見られず、みんな臍(ほぞ)を噛む思いであった。おまけに、急遽予定を変えて地下鉄で移動した為に渡辺節夫さんがスリに財布を盗まれてしまった。 それでも私たちはフィレンツェ、ミラノと旅を続け『最後の晩餐』(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)に感動の涙を流した。ミラノ出発に際し、「次はエジプトだ。そしてガンダーラだ。近代ではゴッホだ」と語り合いながらJALの機中の人となった。 「この便はオランダのアムステルダムの空港に引き返しております。あと3時間のフライトです」このアナウンスに、私たちは耳を疑った。 後に聞いたのだが、病院の体制と地上のJALのスタッフの関係を総合的に判断して、アムステルダムに決定したとの事。JALのオランダ職員の総出の手配で乗客は2つのホテルに分宿し、出発は成田空港の受け入れの関係もあって10時間後と決定した。 約1時間にわたって小さな手帳にゴッホの絵をスケッチされた。美術館の警備員や職員が自然と集まり、田渕先生の姿とそのスケッチを見て、「ゴッホだ!」と拍手していた。そのなかの一人が私に、「この人とこの人の絵を大事にしてください」と語った。美術館を出るまでその人たちは私たちを歓迎してくれ、最後まで見送り手を振ってくれた。忘れられない、心に深く残る光景となった。 丸一日遅れて成田空港に着いた。私は名刺にメモして機長に残した。 「あなたのメッセージに感動した。この仕事について30年。初めての出来事でした。悩みましたが、お蔭様で病人は回復に向かっております」 ゴッホは生前は1枚しか絵が売れず、ほとんど評価されなかったという。世界のキリスト教の最高権威であるヴァチカン美術館には拒否され、庶民のゴッホ美術館には歓迎された。この2つの予期せぬ出来事の旅。松下氏と渡辺氏が質問し、田渕先生が熱っぽく語り、先生の教え子の2人、川北茂氏、吉村弘志氏が記録したこの本のテーマを象徴する出来事であった。 |