2009年12月15日 早いものでヒマラヤの山々と別れるときがきてしまった。シャンボチェのどこに滑走路があるかわからないような小さな飛行場で、迎えの飛行機を待っているあいだ、山を見つめながらこの田渕先生とのライフワークをなんとしても完成させねば、と思いを巡らしていた。田渕先生はその横で思いをただひたすら絵筆に託していた。
この小さな飛行場の自然の中の待合所で一緒になった、大阪からきたヒマラヤトレッキングの方も描かれていた。 三日かけて登ってきたエベレスト街道を小型飛行機はひとっ飛びに我々をカトマンズに、娑婆世界へと運んでくれた。 飛行機の中でも筆を走らせる田渕先生の姿にライフワークへの熱を感じた。もうカトマンズの街はそこに見えている。
みんなでカトマンズ郊外の高台に登って、再びヒマラヤの山々をみた。エベレスト街道のトレッキング、ホテルエベレストビューから見たエベレスト、ローツェの姿。クンデピークへの登山、クムジュン村の子供たちとの日本の歌の交流、ホテルライフとそれぞれの心に思い描かれたのは何であったろうか。ただ打たれるかのような山の神々しさだけは皆が思ったに違いない。 釈尊生誕の地ルンビニに向かう飛行機を待つ間、田渕先生は日蓮大聖人の御書をひもとき、仏法の生命哲学の観点から芸術と平和をみんなに論じていった。ピカソが世に認められるのが1930年前後であったと思う。「このときから破壊が始まった」と田渕先生はニューヨーク近代美術館でピカソの絵を見ながら憤怒の言葉を発した。ピカソと時を同じくして原子爆弾が、科学者たちの研究として数式の発明などが世に出てくる。たとえば、レオ・シラードがロンドン・サザンプトン通りの交差点で信号待ちをしている間に、前年発見された素粒子、中性子による核分裂の連鎖反応の理論的可能性を不意に思いつき、原子爆弾の発想をしたのも1933年だ。人類の、生あるもののすべての生命を無差別に奪う魔物が世の中に出てきたとき、芸術も文化も、暗黒の影響を受け魔物が魔物としてではなく絶賛され受け入れられてしまう社会になった、これは日蓮大聖人の依正不二の哲理に通じるところがある。 魔物は魔物、悪は悪として否定できる世の中、文化があり、民衆がいなければいけない。アメリカ初の黒人大統領オバマは、今年チェコで核無き世界を訴えノーベル平和賞を受賞した。創価学会第2代会長の戸田城聖先生が原水爆禁止宣言をされたのは1957年9月8日だった。その意志を一人受け継いだ弟子が池田先生だ。その池田先生の思想・哲学を今このとき、原子爆弾につながる全てのものを否定して、平和の砦を民衆、人類の根底から築き上げるための文化運動、芸術、美術が必要だと実感している。その芸術の復興を日蓮大聖人の人類の幸福と世界の平和の哲理がつまった御書を通して、田渕先生は熱く語った。 釈尊生誕の地、ルンビニに太陽が昇り始めた、朝だ。太陽が昇ればその光によって、すべての闇は消え去る。釈尊から始まった仏法、法華経の教えはまさしく世の中の、民衆の闇を照らす朝の太陽と同じだ。その陽の光を釈尊生誕の地で受け始めた朝の瞬間、えも言われぬ喜びをわたしは感じていた。 蕾だけのロータスが太陽の陽を受けると開いていくさまを田渕先生はただちに絵に留めていた。 四門出遊の城の西門、東の門の跡地。ここから仏法が始まり永遠となっていった地に、いま自分が立っているかと思うと言葉にはいいあらわせないものがあった。 われわれが東門あたりを見、歩いていると地元の子供たちが集まってきた。田渕先生は東門を描き始めていた。
「あっ」
いまの時期は稲の収穫時期にあたっていた。村人たちが脱穀した稲を集めていた。なにか懐かしさとほのぼのとしたものを感じた風景だった。 四門出遊の遺跡を歩いてみた、釈尊の生まれた地点を示すマーカーストーンには多くの人が礼拝の列を作っていた。聖なる場所をあらためて意識した。
蓮池で身を清めたマヤ夫人が24歩北へ歩き、ある木の垂れ下がった枝につかまり、その木の下で釈尊が生まれた、という伝説を思いだしながら蓮池のほとりに立っていた。不思議と心の原風景というものを感じていた。そして釈尊が生まれたとされる木、プラクシャ樹の下まで歩いて葉を一つ掌にのせてみた。葉を念珠の変わりにして南無妙法蓮華経の題目を唱え、国の行く末と田渕先生の芸術復興のライフワークの成功を祈った。
釈尊生誕の地で三浦豪太さんを描く田渕先生。 アショカ大王の石柱を見る。その碑文には、 「即位20年を記念してデーヴァに愛される者ピヤダシ王(アショカ王)は、この地を訪れた。釈迦牟尼仏陀がここで誕生したことを記すため、石垣が作られ石柱が立てられた。バグワンがここで誕生したことを記念に、ルンビニ村は減税を受け、1/8の納税を収めることになった。」(バサンダ・ビダリ著 救済の聖地ルンビニより) 長いあいだ謎であった釈尊生誕の地に一つの答えを出したのは、アショカ大王の訪問と誕生の地に対する税を1/8にするという碑文であった。ルンビニには玄奘三蔵も訪れている。アショカ大王と仏教は切っても切れない関係があるのは周知の事実だ。偉大で強力な王が仏教を保護したために、仏教の伝播に大きく影響したといわれている。またアショカ大王は芸術を通して仏教を弘め教えることを主眼においた芸術学校の建築、運営まで行ったそうである。王の思想、行動はそのご代々の王に受け継がれ、仏教史はそのまま仏教芸術史と深い関わりが残っている。。 宗教、哲学はそのものだけではなかなか広まらない。そこにはその宗教、哲学を庇護し国を良くしようとする人間が出てこないと、広まっていかない。その根本にある教えを元に、民衆を幸せにするという人間が出てきて始めて広まっていくものだと思う。このアショカ大王の話はその象徴のように思えてならない。今、創価学会SGI会長の池田先生が民衆文化興隆のために民主音楽協会を作り、大衆を幸福にする政治のために公明党を作ったことなどを考えると、心の底から納得し共感を得ることが出来た。それが釈尊生誕の地、ルンビニであり、アショカ大王の石柱の碑文を実際にこの目で見、読むことによる縁ということに不思議さを感じた。 その深い考えと共にルンビニの門を一歩あとにすると、なんともいえない暖かさをもって夕日が我々を照らし見守っていてくれた。人生の東の門から一歩、いで始めたと感じた。 |