2010年5月 広島県広島市で生まれて高校まで広島で育った私が、お隣の岡山県備中松山藩(現在の高梁市)で画期的な財政改革を成し遂げた指導者山田方谷先生(1805〜1877)の実績を知ったのは、つい最近のことであった。 私が毎月勉強会に参加している中斎塾フォーラムを指導している、深澤賢治先生から『陽明学のすすめIII 山田方谷「擬対策」』(明徳出版社刊)との本をいただき、目の覚める思いで通読したのが今年2月のことであった。そこには5万石の小藩ながら、藩主の殿様を幕府の筆頭老中(今でいえば首相)におしあげ、10万両の借金を7〜8年で返済し、なおかつ10万両の預金を残した幕末の人物とその方策が鮮やかに描かれていた。 深澤賢治先生は号を中斎と名乗り、群馬と東京で人材育成の為に中斎塾フォーラムを主宰する日本の思想的リーダーである。1947年東京生まれ。69年に二松学舎大学を卒業。75年群馬県太田市に利根警備保障会社(現・株式会社シムックス)を設立。現在会長。論語を訓個注釈で机上で論ずる人はたくさんいるが、中斎先生のように自らの事業に論語の精神を生かし、尚且つ事業の実績を着実に伸ばしている人は皆無と言ってよい。それが実は陽明学の肝要なのである。心から尊敬申し上げている方である。 中斎塾フォーラムの基本哲学は「知足」足るを知るを広める為、東京では月1回湯島聖堂で開催されている。中斎塾事務局長で、機関紙「知足」の編集長である関根茂世さんから「竹岡さん、今度山田方谷先生の足跡をたどる旅を企画しているのですよ」とお声掛けをいただいた時、全ての予定をキャンセルして参加する旨を伝えた。 5月22日8時10分、東京駅銀の鈴前に集合した私たちは、中斎先生の同級生・吉良敦子さんを団長として一行12人。8:30発のぞみ17号で岡山へ。特急八雲11号に乗換えて12:41分備中高梁駅に到着。事前に関根さんから緊密な地元への連携作業が行われており、地元山田方谷の研究について第一人者の方々にお出迎えやご案内を頂いた。さっそく岡山県の総務広報課長片山純一氏の案内によって、専用のバスにて御茶屋(通称水車)跡(備中松山藩主の別荘で方谷先生が長瀬から城下に来た際に宿泊した家屋がそのまま残っている。長岡藩の川井継之助が方谷先生に弟子入りした際、ここに宿泊している)を視察した後、日本三大山城のひとつ、備中松山城に登った。 中斎塾フォーラム常任理事の猪瀬貞雄さんや東京フォーラム代表幹事の比田井芳武さんも年齢をものともせず、標高430mの臥牛山の山頂(天守の現存する山城としては随一の高さを誇る)まで用意してあった竹杖をつきながら皆で登った。天守閣から望む高梁の町は、中央に高梁川が流れ歴史と文化の街を彷彿とさせる面影があった。 備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことにはじまるという。その後の歴史の変転があるが、戦国時代は毛利氏の東方進出の拠点として、また徳川時代は幕府直轄地となり備中国奉行として小堀遠州が赴任するなど中国地方の要衝として名高い城であった。また、忠臣蔵で有名な大石蔵之助が、後継ぎがなく断絶となった水谷家から城明け渡しの為に備中松山城に出向いて1年半も滞在したこともあり、12月14日生まれの私としては特別な興味を感じた。 その後、天保9年(1838)に開かれた方谷先生の家塾で、進鴻渓、三島中州(二松学舎大学の創立者)等が入門した牛麓舎跡をバスの車窓から拝観し、現在は県立高梁高校となっている藩の政庁跡(通称:尾根小屋)を高梁高校の卒業生で山田方谷に学ぶ会会長・前岡山県立美術館副館長、渡辺道夫氏にご案内いただいた。当時の石垣が残り、小堀遠州作の池と庭が残り、それはハッと襟を正すような厳粛な空気が流れていた。その中に素朴で元気な高校生が明るい挨拶を返してきて「しっかりした教育がなされているなあ。やっぱりこれも方谷先生の影響大なりだなあ」と感動をおぼえた。 志士・熊田恰の顕彰碑や方谷先生の石碑がある)を経て、「頼むこと久しき寺の林泉に なびくいみじき秋の露かな」と与謝野晶子が詠んだ備中の安国寺として足利尊氏が再興した頼久寺に向かった。そこでは、本堂横の部屋から小堀遠州作の庭園を全員畳に座って拝観した。後ろの愛宕山を借景に枯山水の庭園で心落ち着くしばしの時間をいただいた。この頼久寺の横には、慶応元年(1865)から山田方谷先生が松山城下に赴いた時に住んでいた旧宅跡もある。一行は郷土資料館の前で方谷先生の銅像を拝観したのち、ホテル高梁国際ホテルに到着し当日の研修を終えた。 夕刻には、ご案内を頂いた片山課長・渡辺会長も同席をいただき、方谷先生をめぐる懇談夕食が行われた。その席で中斎先生は、今日の日本における政治経済の状況を鑑み以下のようなお話があった。「山田方谷先生は命がけで藩の財政を立て直した。それに比べて今の日本には命がけの政治家いない。日本の財政を立て直すとすれば"入るを図りて出るを制す"国に収入が37兆円しかないのに44兆円の借金をして、92兆円の予算を組む等はとんでもない。思い切って身を削るべきである。極端に言えば戦前の生活に戻る以外にないとも言える。このままいくとハイパーインフレの恐れもある。今こそ山田方谷先生の視点と行動が大事な時はない。人類は今ふるいにかけられているのかもしれない。 その後、山田方谷先生お手植えの松が今でも残っている藩校有終館の跡(現在は幼稚園)や八重籬神社(藩主板倉家の祖霊を祀る神社。本物の人間、本物の会社、本物の国家が問われている。方谷先生のような本物の先生であれば、次の世代への架け橋になれる。今の政治家には本物を目指している人がいない。先日も経済同友会の代表幹事が自分の会社を良くしなければならないと、みんなまがい物ばかりだ。自分だけ良ければいい、自分の内に属する人だけ良ければいいというわけにはいかない。これからのキーワードは命がけという事と足るを知るということだ。そうすれば必ず殻を破って行けるんだ。少しずつ一歩ずつ進んで行こう、弛まず進んで行こう(趣意)」 |