2010年5月 翌23日は篠つく雨の中、石井保先生のご案内で方谷先生の生まれ故郷に向かった。石井保先生は高梁方谷会副会長で人格円満。説明も要所要所を的確にとらえて山田方谷に関する生き字引のような方である。まず向かったのはJR方谷駅。全国でも珍しい人名のついた駅である。もちろん山田方谷先生の名前である。この伯備線は明治24年(1891)の山陰山陽線開通に伴い、山陰と山陽を結ぶ鉄道の敷設が必要であるという事で三島中州等が努力して完成された鉄道である。 伯備線は、大正9年(1920)に工事に着手し、8年の歳月を費やして昭和3年(1928)10月25日に全線開通した。人家もまばらなところに駅は必要ないと鉄道省も思っていたとみえて、初めは信号所をおくつもりだったが、中井、豊永、法曽、北房などの村が協力して運動を進めた結果、駅を設置することになった。 さて駅名だが、鉄道側では地名をとって西方あるいは長瀬とするつもりだった。ここは方谷が住宅を構えたところで、長瀬塾もここにあった。地元の人々は、なんとかして方谷の名を残したいと「方谷というのは西方の谷のことで人名ではない」などと苦しい弁明をしながら陳情を重ね、とうとう全国でも唯一の『方谷』という人名のついた駅名となった。(『郷土の偉人 山田方谷』/田井章夫監修) 上記監修者である田井先生は山田方谷研究の第一人者で、今は高齢の為に自宅で研鑽に励んでおられるのであるが、中斎先生はぜひとも田井先生にご挨拶をしたいとの事で、中井町「方谷の里ふれあいセンター」に向かう途中、田井先生のご自宅の前でバスを降りられ群馬から持参されたお菓子をお届に上がろうとした。すると道路に奥様と二人、雨の中を我々が到着するのを待たれておられた。私は車窓から中斎先生が丁寧にご挨拶される姿とご夫婦二人で路上にてお待ちになっていた姿にジーンときて思わず涙がこぼれた。 方谷の里ふれあいセンターでは、現館長と前館長のお二人のお出迎えをいただき、津々敬一郎先生より丁寧な解説をいただいた。そして方谷先生の生家(現在は民家。他の方が住まわれている)を拝観し、最後に方谷園に向かった。方谷先生のお墓があるところである。私はこの方谷の里ふれあいセンターから生家そして川を渡って方谷園に入る約100mの道程は、今でも一歩一歩が鮮明に蘇る程の感銘を受けた。朝からの雨で水量の増した津々川は勢いよく流れ、川の中の水藻は青く、両岸の木々はみずみずしさをたたえている。彼方に煙る山の端は、高くもなく低くもなく我々を包んでいる。日本の故里の原型を見る思いがした。同行の石井保先生に「何故方谷という号になったのでしょうか?」とバスの中でお尋ねしたら、「きっと"西方の谷川のほとり"という意味でしょう」と答えて下さったが、私は方谷先生はこの生まれ故郷の山水が何ものにもかえがたく大事であったに違いないと確信した。 お墓では関根さんが代表して般若心経を読経した。私は法華経方便品と寿量品お題目を心の中で唱えながら、ここに来て良かった、方谷先生の万分の一でもわが身にそなわって世の中の為に役立ちたいものだと祈念した。この墓所で感動したものが二つある。一つはこの墓地の中ほどに山田方谷先生の父・五郎吉と母・西谷梶の墓があり、その中間に幅60p高さ1.5m位の碑が立っている。 先程の田井先生の本から引用すると もう一つは山田方谷自身の墓石を、かつての藩主・板倉勝静が書いている点である。「方谷山田先生墓」と端正な文字である。山田先生と"先生"の名前を入れてかつてのパートナーに最大の敬意を表しているのである。この文字を見て、「ああ、方谷先生の人生は勝利の人生だったにちがいない」と確信をした。1877年(明治10年)6月26日午前8時永眠。73歳であった。 また、石井保先生から伺って強く興味をもったのは、長州藩との関わりである。方谷先生は里正隊を造った。これは当時の庄家の子弟を集めて(約1200名)農兵部隊を組織したもので、近代兵器とくに洋式砲術や大砲の訓練を取り入れたものであった。この里正隊の視察に高梁まで訪れたのが、長州の久坂玄瑞である。そしてこの時の報告が高杉晋作へと伝わり、長州奇兵隊結成の契機ともなったのである。 安政5年4月(1858)井伊直弼が大老となりまた、長州の精神的なリーダーである吉田松蔭が安政の大獄で処刑された。藩主の板倉勝静はこの重い刑罰には反対で意見具申したところ寺社奉行を辞めさせられた。しかし万延元年(1860)桜田門外で井伊直弼が暗殺された後、勝静は再び寺社奉行に返り咲いた。吉田松蔭は江戸小塚原の刑場で処刑され遺骸はその場に葬られていたが、長州の久坂玄瑞・伊藤博文・高杉晋作三名連名で、山田方谷経由板倉勝静宛に松蔭の亡骸を毛利家の墓所に移したいので是非とも尽力してほしい旨の嘆願書が出され、方谷の建策によって松蔭は現在の松蔭神社(世田谷区)に手厚く葬られたのであった。 今回の研修旅行の悼尾を飾ったのは、高梁市歴史美術館で行われていた「山田方谷とゆかりの人物展」を加古一朗学芸員のご案内を頂いての参観であった。主君の板倉勝静や弟子の三島中洲・川田甕江・進鴻渓などの代表的扁額や書幅が出品されており、わずか2日であったが方谷先生の足跡を訪ねた直後であるだけに、幕末の備中松山藩と方谷先生の動乱と業績を目の当たりにする思いであった。 実りの多い研修であった。心から中斎先生始め皆々様に御礼を申し上げます。これから山田方谷研究を人生の取り組むべきテーマの1つにすることを誓って御礼の言葉とさせていただきます。 |