2009年春 エベレスト街道トレッキングツアーの後
山―――エベレストが呼んでいる
[近くのイタリア料理レストラン、トラットリア・タンタ・ボッカに移って、夕食・懇談。雄一郎氏の娘の恵美里さん、○○トレーナーも同席] 豪太 今回は、先に入るはずが、飛行機が飛ばなかったりで最初、大変でしたね。カトマンズに着いて、田渕先生がまだいらっしゃったので、凍りつきましたよ。
田渕 毎朝一番に空港に出向くんだけど、飛ばないんだから、どうしようもない。これはダメだと思って、ポカラに目的地を変えようと言っていたんですよ。
恵美里 そういえば、昨年のエベレストからの帰りの便なんか、十日間足止めだったわね。ちょうど六月の雨季に入る境目で、豪太とお父さんはヘリで先に降りて、その後、テントたたんでなんてしているうちに、雨季が始まってしまって、いつになっても日本に帰れないという騒ぎになってしまったのよね。
豪太 でも、今回は、いろいろあって、結局は良かったと思います。
田渕 そうです。山に入る日と出る日は、晴れ渡りました。やはり、山が呼んでくれたんですね。おかげで豪太さんと一緒に歩けましたし。
豪太 田渕先生は、われわれより早く宿を出て、絵を描いてから、追い越した皆に追いつく、それをやり続けられた。その追いつくのが、意外に早かったのにびっくりしました。
田渕 そうですか。いや、歩いたのは、良かったと思います。
恵美里 高度順化になりますね。
豪太 それと、田渕先生の絵を描くときの集中力がすごい。見ていると、一時間ずっと止まっている。もしかして、息が止まってしまうんじゃないかと思って、一緒に歩きませんかと、さそったんですよ。夢中になるのはいいけれど、息をするのをお忘れなくと。しかし、一緒に歩いてみて、感じ方が山屋さんと似ているなあと、思いました。それに命をかけているというか、そんなところです。
雄一郎 高所では、酸素ボンベを使うと、気分が冴えます。
恵美里 ちょうどモヤがかかっているように思えていたのが、ぱっと晴れ渡る感じです。
豪太 そうですね。今度は、ボンベを三本持っていくようにしましょう。
恵美里 それがいいわ。あれだと一本で六時間保つから。
田渕 あのエベレスト・ビューで描いていたときは、けっこう、自分では順応していたと思いますよ。
竹岡 低酸素室の訓練が効果があったということでしょう。あれを受けていない、他の同行の方たちは、豪太さんが一生懸命笑わせようとしてくれても、ぐったりしておられたから。結局、四二〇〇メートルのクンデピークまで行ったのは、二人だけでしたからね。
雄一郎 高所では、かえって、動いた方がいいのだけれど。
田渕 今後は、あの四二〇〇メートルは、全員の課題にした方がいいですよ。充実感が違います。
豪太 たしかに、登ったお二方は、満足されているようでしたね。
竹岡 こんど、限定十五人で十一月に行きますが、参加者は全員、低酸素室訓練からクンデピークまでセットで決めましょう。低酸素室は一泊と二回分の運動訓練、それと日本の山に一度は登っておくこと。これを強制しましょう。
雄一郎 厳しいようだけれど、その方が大事です。
田渕 この次が本番だから、油断なく行きましょう。団に一人でもけが人が出たら、そこで止めなくてはなりませんから。
豪太 それにしても田渕先生は強い。おそらく絵を描くのに、普通の人より二倍のエネルギーを使っているはずなのに、ずっと、感動しまくっているんだから。
恵美里 山に愛されているのかもしれませんね。
豪太 お父さんと同じです。やると決めて、そこからエネルギーを得ているのは。
雄一郎 それ、物事の原点です。
田渕 とにかく、チャンスを逃せないと思うから、描き出すとやめられません。でも、うしろで護ってくれている人がいるから、集中できるんです。今回は、馬にまで助けてもらいました。シェルパのリンジさんも的確に判断して、私の荷物をさっと持ってくれて、十六歳の少年(オムレッカジ)が重い荷物を担ぎ上げてくれました。
太陽と共に
[竹岡氏が、かつてあらぬ容疑をかけられ、二十二日間留置された際、差し入れられた印象派のモネの絵に風の流れを感じて呼吸が楽になったという話をされたのを受けて]
田渕 モネのような、光を取り込むような絵は、西洋の絵では驚くべきことでした。しかし、エジプトほどにはできていません。エジプトは、太陽の生命そのものに触れるような感じです。人間も、太陽を取り込むことができたら、もっと元気になれます。
恵美里 たしかに人は、太陽にあたれば元気になるといいます。免疫力が上がるといいます。お父さんも入院中、朝四時からカーテン開けて、太陽を取り込んでいましたね。元気のない人は、太陽を浴びることですね。
田渕 今、その太陽を感じられる絵はありません。そんな絵は、画期的なことです。
豪太 田渕先生の絵は、雲も、太陽も動いています。
恵美里 瞬間があるんですね。
田渕 おじい様の敬三さんが、「雪は毎日違う」と、それで、毎日、スキーのワックスを変えておられた。そして、「毎日が最良の日」と言われていたと聞きましたが、それに通じます。もっといい、違う日を待っても、いい日は来やしません。太陽は、なんであんなに速く動くのかと思うくらい、次の瞬間には変わっています。瞬間、瞬間をものにするしかないんです。それにしても敬三さんも、雄一郎さんも謙虚です。雄一郎さんは、もっと威圧感のある方だと思っていました。豪太さんも、好青年ですし、釈尊がヒマラヤの山が乗り移って、あの人格が生まれたように、山に触れておられるから、謙虚になられるんでしょう。山では、謙虚でないと、肩書きは何も通用しませんしね。
豪太 武蔵も同じことを言っていますね。たしか「山が師匠、山に育てられた」と言う言葉が残っていると思います。
田渕 芸術も同じです。
豪太 仏教の源は、ヒマラヤというのは、わかるような気がします。
山―――エベレストの声 谷の声
田渕 雄一郎さんも、山が乗り移っている。恐いというより、すごいなという感じです。今の人は、みんな、思う通り描いている、私は、見える通りです。
恵美里 それ、ちょっと、深いですね。
田渕 自分ではなく、山に従うんです。山が待てと言ったら、待たなくてはならない。
恵美里 それは、ありますね。日本人は、マッキンレー(アラスカの山、北米最高峰、六一九四メートル)からは呼ばれないようです。
雄一郎 マッキンレーでは、何人も日本人が死んでいます。
恵美里 呼ばれていない山に行ってはいけないんですね。登るのが大変なのは、エベレストの方なのだけれど。
雄一郎 エベレストは、受けとめてくれている。許してくれている。
豪太 田渕先生は、写す人だから、お父さんと通じるものがありますね。
田渕 二十三くらいからやっていて、写すのが習性のようになっていますが、見える通り写すのは、そう簡単じゃありません。無名の師匠が教えてくれました。ちょうど、敬三さん豪太さんまで三代続いているように、私も三代目です。青山熊治、中島祥行といて、私があります。なかなか、流れが流れるように描けないのを、師匠のおかげで、できるようになりました。
豪太 たしかに、流れは、見た瞬間に過去になりますからね。
田渕 瞬間、瞬間、如、如、にしか生命はありません。それにしても、こうして今お会いできているのは、過去に会っていたということでしょうね。
恵美里 これから一緒に、いろんな形で世界を動かすことになると思います。今、お父さんは七十六、田渕先生は六十七、九歳違いですね。
雄一郎 まだまだこれからですよ。
田渕 私も、これから全力上げます。
竹岡 雄一郎さんは、八十でチョモランマを目指す……。
恵美里 チベット側からです。
雄一郎 全貌が見えるのはチベットの方だから。
竹岡 では、ネパール側のカラパタールが先で、次がチベットと。
豪太 それぞれ、絵を描くにも、一ヵ月取った方がいいですね。
田渕 山は、一つひとつ、楽しみがありますね。
雄一郎 山という旅です。旅の中の風景を、一つずつ描いていってください。
田渕 急いでも、たいしたことありませんからね。
竹岡 一生歩き続けられるようなペースですね。
雄一郎 「急ぐこともない、焦ることもない、ただひたすら歩き続ける」と、父・敬三の言葉です。
田渕 「山に助けられている」、その言葉もびっくりしました。これ、現代人が忘れている声です。お嬢さんが、今日はいてくださって、話がよく伝わりました。
雄一郎 通訳です。
田渕 絵も、山も、黙っています。それを世の中につなぐ人がいないといけませんね。今日は、旅の総仕上げになりました。
雄一郎 いや、いい出会いです。
田渕 日本を動かす集団になります。瞬間をとどめる旅をしていきます。いのちの世界を提供する集団になりたいと思います。
恵美里 秋が楽しみです。
雄一郎 秋はいいですよ。お天気も続くし。
いのちの世界を提供する
恵美里 そして、一歩一歩ですね。
田渕 それを外すと、死んでしまいますからね。現代文明は、急いで急いで、結局は、どこかで止まらざるを得ません。今の、ミツバチがいなくなっているというのも、現代文明の警告でしょう。
恵美里 ハチは、敏感に感じているんでしょうね。
田渕 まず小動物に出ますね。
豪太 ちょうど、三日前に、同じ話をしていました。ハチが死んだら、人類も死ぬと。
田渕 植物の生態学者・宮脇昭さんと山田養蜂場の社長が、新聞で対談しています。山田養蜂場は、私の故郷の会社で、そこの「いのちの森」に彫刻を作らせていただきましたから、社長とはよく知っているんです。
恵美里 人間は急ぎすぎていますね。それは、経済主義がそうさせるのでしょうが。
豪太 営利の裏に、ものすごいコストがかかっていることを知らないといけません。たとえば、干拓をすると、干潟の水の浄化作用が消えて、赤潮が発生します。それは、漁業に大変な被害を及ぼしています。結局、人間が問題なんでしょうが。
田渕 依正不二というのですが、人間と環境は、生命の次元では表裏一体です。人間が正、依が環境です。環境に人間が映っているんです。人間を正さないと、いけません。「山に三種類の人がいる。山に入ってはいけない人がいる」というのは、大きな声です。芸術は、時代の鏡です。今、芸術は無茶苦茶です。人間が無茶苦茶だからです。山は、それで行ったら、一発で死にますね。ハチはちっとも悪くない。悪いのは、人間です。
雄一郎 そう、ハチはむしろ被害者です。
竹岡 子供たちのために、将来の人類のために、今日は、いい出会いになったと思います。
雄一郎 そういえば、ヒラリー卿(エベレスト初登頂者)も養蜂家でした。ニュージーランドの人です。
豪太 山田養蜂場の社長とも、話してみたいと思います。現場に携わっている方の話が、聞きたいのです。
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