2010年8月 28日にベツレヘムに行った。そこにはキリストが生まれた馬小屋がある。パレスチナ自治区の中だ。エルサレムから車で30分くらいのところだ。途中に検問があり30分の距離とは思えない行程だった。 死海の北西岸のクムランは、死海文書と言われる一番古い聖書が発見されたところだ。 理想をどのようにして、2000年かけて成し得たのか、そのカギをどうしても知りたかった。カギを知るためにマサダの丘に登った。そして土の上を歩いた。イスラエルは皆兵制の国だが、イスラエルの軍隊の入隊式はこのマサダの丘で行われる。 私が信奉する創価学会の初代会長牧口先生は、戦時中、軍部によって投獄、殉教された。2度と殉教はさせない、という強い一念が、後を継いだ戸田先生から池田先生へと受け継がれていると思う。その強い思いを池田先生は父子相伝のように、われわれ弟子に伝えているのではと、マサダの丘に登って確信した。 この国の半分は砂漠だそうだ。しかし智慧をしぼり農作物の自給率は、なんと100%以上に達成している。国を造る、維持する、守るといったようなことに何が大事かということを肌というより、体の芯で解っているのかも知れない。キリスト教的な見方をする人たちからは、シオニズムはお金を掴むためだけのものではないかとか、キリストを殺すからホロコーストのような残虐なことが起きたということを言われているのも事実のようだ。 パレスチナの地は、今も難しい問題が横たわっている。 「マサダの丘」 悲劇の村マサダは、視界に向かって突き出た天然のテラスのような岩山の頂上に位置しています。ここは伝説的なマサダ城塞があった所で、毎年ここで行われる若きイスラエル兵士達の演習では「マサダは2度陥落しまい。」と歌われるのです。ここでA.D.66年に起こったユダヤ人の反乱は神殿破壊とユダヤ人の離散を招くことになりました。そしてマサダの悲劇は、諸国に離散したユダヤ人達にとって民族の矜持のシンボルとなったのでした。 73年のイエルサレム陥落後、生き残った愛国者達は城塞に集まってたて籠もり、フラヴィオ・シルヴァ率いるローマ軍の包囲にあって最後まで抵抗したのでした。包囲は3年に及びましたが、ローマ軍が山岳地帯の西側に巨大な階段を設置して城塞に入り火を放てるようにした時、全ては終わりました。城外でこの大工事がおこなわれたとき、城内では人類史上最も痛ましい悲劇が起こりました。ローマ軍の報復をお恐れ、また彼らの奴隷になることを何よりも恐れたマサダの人々は、生け捕りになることよりも自殺することを選んだのです。同時代の歴史家フラヴィオ・ジュゼッペは生き残った一人の女が語ったマサダの、生々しい最後の瞬間をこう伝えています。《こうして最後にもう一度妻を愛撫して抱きしめたり涙と共に子供たちを抱き抱えて接吻しながら、敵の手に落ちたときの苦しみを想起して死へとお互いを鼓舞し合ったが、結局誰一人として愛するものを殺す気にはなれなかった。そこでまず彼らの財産を急いで焼却し、仲間の中から10人ほど、他の全員を殺す役目に選んだ。そして皆、妻子を抱きしめながら床に横たわり、ためらうことなく喉元を差し出した。 この悲しい役目を担った10名は一人残さず殺害した後、お互いの間で籤を引き、そして選ばれた一人に向かって残りの9人が喉を差し出したのだった。この役目を果たした最後の一人は、横たわる死骸の群に誰かまだ、彼の手を必要とする者がいるかどうか確かめた後、王宮に火を放ち、残った力を振り絞り、妻子の側で刀を柄まで体に刺して自殺し果てたのだった》(フラヴィオ・ジュゼッペ、ユダヤ戦記7巻) こうしてユダヤ反乱の最後の砦は陥ちました。しかしローマ軍が道を拓いてまだ煙る城内に入った時、彼らを待っていたのは960名の遺骸だけだったのです。 1963〜65年の考古学調査では城塞の2/3が発掘され、優雅な形をした建造物や装飾が数多く発見されました。事実マサダは元々、ヘロデ大王がB.C.42年に異民族の侵入から逃れてきて城塞化した館だったのです。王はこの折に、野心家クレオパトラに先導された隷属民に備えて王の難攻不落の避難所を造り上げたのです。今日でもそのモザイクで美しく飾られた宮殿と、籠城に備えて岩を掘って造られた巨大な貯水槽を見ることができます。 |