2010年11月 私は小学校に上がるまで丸坊主で、頭に髪の毛が一本もなかった。他の子どもには黒い髪がいっぱい生えているのに、自分だけツルツルなのはどうしてだろうと思っていた。また、私は妹の真里子と二人兄妹で、自分は長男だとずっと思っていたが、じつは次男だった。 この二つのことのわけが判明したのは、祖母によってだった。「おまえはピカドンのせいで頭に髪が生えないんだよ」「おまえには、じつは兄がいて生後ほどなくして亡くなったのよ。真っ黒になって、かわいそうでならなかったよ」と祖母から伝えられたのは、いつだったか。そのとき初めて「ピカドン」という言葉を聞き、それが「原子爆弾」というアメリカが日本に落とした新型爆弾だと知ったときの驚愕は、今でも鮮明に覚えている。 私の祖母・國貞リョウ(一九〇三~一九六七)は陸軍病院の看護師長だった。一九四五年(昭和二十)八月六日午前八時十五分、米軍爆撃機エノラ・ゲイが広島に原爆を投下した時、祖母は何日も病院に泊まり込んで任務にあたっており、爆心地から少し南の舟入で被爆した。爆風で片目を失い、身体の約二〇〇か所にガラスの破片が刺さった。命だけはとり止め、一週間もうろうと、被爆者が収容されていた学校の教室で生死の境を行き来していた。 母・智佐子はその時十七歳。女子挺身隊の奉仕中で、たまたま友人と宮島に行く予定で、己斐上町(爆心地より西に約三キロメートル)の家から出かける寸前に被爆し、後ろの畑まで吹き飛ばされ意識を失った。しばらくして意識が戻り、母親を探して爆心地をさまよい歩いた。その時、十七歳の乙女が目の当たりにした惨状は、筆舌に尽くしがたかったものに違いない。 直接には原爆による損傷を受けていなかったものの、直後の一週間、広島市内を歩き回ったことで、母の身体は肺から、皮膚から、血脈の深部まで、後々まで強いダメージとなる影響を受けていた。いわゆる「間接被爆」であった。一週間の後、奇跡的に祖母を見つけ出した母は、大八車に祖母を乗せて自宅に連れ帰り、寝たきりの被爆病人を献身的に介護した。 敗戦後の混乱の時代に、縁あって結婚、出産。希望を見いだしかけた人生が再び挫折したのは、生まれ出でた最愛の男の子に「原爆症」が表われたからだ。急に黒い斑点が出て、体が真っ黒となり、とても人間の子とは思われない。それでも懸命に子育てに取り組んだ母の、その子が落命したときの、哀しさ、辛さは想像に余りあるものがある。寝たきりで治療を続ける母親を抱え、結婚生活が軌道に乗り始めた矢先の長男の死である。 こうした不幸の連続のなかで、いつしか夫は酒に溺れるようになり、時には暴力を振るうようになる。一九四八年(昭和二十三)十二月十四日、次男が誕生。名前は誠治。私は小さいころ「セイボークン」と呼ばれていた。「誠坊君」である。 私は祖母に育てられた。寝るときは両親は一階、私はやっと歩けるようになった祖母と一緒に二階に寝ていた。もの心がついたころは、家の中は夫婦喧嘩の連続で、病身の祖母はいつの間にか二階の部屋に仏壇を安置し「南無妙法蓮華経」と題目をあげるようになっていた。聞いてみると、日蓮正宗創価学会(のちに日蓮正宗から独立した創価学会)に入会したという。一九五四年(昭和二十九)のことである。 私は日蓮宗というのは身延と聞いていたから、ウチのオバアチャンは変な新興宗教に入信してしまったのだと思っていた。そのうちに、わが家の二階は座談会場となって、夜になるとミニ集会が行われるようになった。集会にみえる人々は、みんな貧乏で、病人で、悲惨な人が多かった。でも、いい人たちばかりだった。 ある夜、玄関先でバタッ! と大きな音がした。覗いてみると中年の男の人が倒れている。「どうしたんねー」と聞くと、バス代がなくて座談会場のウチまで遠くから歩いてきた。おナカがすいて、倒れてしまったという。オバアチャンが「チイチャン(母のこと)、おにぎりつくって食べさせてあげんさい」。すると父が「ウチはどこの馬の骨か分からん奴に喰わせるメシはない!」と怒鳴りだし、一階のステレオのボリュームをいっぱいに上げて、座談会の妨害を始める。そんな日々が続いていた。 私はオバアチャンを助けようと思い、邪宗教に入信するつもりで「オバアチャン、ワシが入信したら幸福か」と聞いた。「そりゃー、セイボークンが入信してくれたら、こんなうれしいことはない」。こうして私は「南無妙法蓮華経」と題目を唱えはじめた。その後、父と母も信心をはじめることとなり、一九五九年(昭和三十四)十一月七日に創価学会に入会した。私は一九六〇年(昭和三十五)三月五日、春休みを利用して富士宮(静岡県)の総本山大石寺に参詣登山しようということになり、その際に御授戒を受け正式に創価学会の会員となった。 |