2010年11月 ある日、オバアチャンが片目しかない眼からポロポロと涙を流し、新聞を揺らしながら「ガォー、ガォー」と叫んでいた。ついに気がふれたのかと思った私は「オバアチャン、どうしたんねん」と聞くと、「これで大丈夫!これでええんじゃ、これでええんじゃ」と喜び勇んでいるではないか。ゆっくりと聞きほどくと、それは、池田大作先生が創価学会の第三代会長に就任したことを報じた聖教新聞の記事のためであった。 当時は、一九五八年(昭和三十三)四月に第二代会長戸田城聖先生が亡くなり、これで創価学会も空中分解するだろうと、マスコミが書き立てていた時代である。オバアチャンも多くの人々にこの信心を勧めていたこともあり、どうなるのかと不安を抱いていた最中であった。「池田先生が会長に就任してくれた。もうこれで創価学会は誰からも後ろ指さされんどー。これで創価学会は大丈夫なんじゃ」と歓喜の涙を流していたのであった。 「そんなにこの池田先生というのはえらいんか」と私は聞いた。 その後、父・清、母・智佐子は、支部長、婦人部長という役職もいただき、東に西に、学会活動に日々奔走をはじめた。私も高等部(現未来部のうちの高校生の組織)に所属して活動をはじめた。 一九六六年(昭和四十一)の暮れ、私の通う私立修道高等学校の畠眞實先生から「おい竹岡! お前に手紙が届いているぞ」と言われ、一通の封書を受け取った。封書には「修道高校三年竹岡誠治様」と宛名があり、差出人には「宮本孝史」とあった。私には、まったく心当たりがなかった。わけの分からないまま封をきると、そこには「文集を読んで君に手紙を出した。大学進学にあたっては、是非とも東京の大学を受けよ。その時には下記に連絡せよ。学生部第十四部部長宮本孝史」(趣意)とあった。 私の家は父は中国電力の社員で、ごく普通のサラリーマン(後に電産組合の委員長までやるが)。父母からは「大学に行くんなら、国立だけよ。広島大学に行きんしゃい。それならええけんね。国立ならええよ」と常々言われていたので、仕送りが発生する東京の大学に行こうとは、これっぽっちも考えていなかった。祖母から「池田先生にひと目会いたい、ひと目会いたい」と聞いていた私は、手紙を受け取ってからムラムラと、東京に行ってもいいか、との思いが頭をもたげてきた。しかし、苦労して育ててもらった両親にわがままも言えず、悩んでいた。 年が明けて、私は意を決して「私立は国立の前に受験があるけえ、予行演習のつもりで中央大学の法学部を受けたいけん、東京に行ってみたい」と父に頼んだ。父は「まあ、一回慣れてみるのもええけん、行ってこい」と応じた。 「申し訳ありませんが、私は予行演習で中大に受験に来たんで、第一志望は広大法学部なんです。家は貧乏なので、とても東京には来れません」と応えた。「でも竹岡君、東京に来たら、月に一回、池田先生に会わせてあげるよ」と宮本氏。 翌朝、仲野長寿氏の奥様から「これを持って試験に行きなさい」とおにぎりをいただいた。これまでの人生で、けっして忘れてはならない思いのつまったおにぎりであった。涙ながらいただいたおにぎりのおかげで、試験に全力を傾注することができた。 いざ東京へ、出発の日。母は私に「誠治君、私はあなたを池田先生のところに兵隊としてさしあげると思って東京にやります。もう帰ってこんでええから、思う存分、池田先生の下で働いておいで」と告げた。目に涙をいっぱいにためながら、送り出してくれた。 |