2010年11月
今にして思えば私が十八歳の時、宮本氏の「月一回、池田先生に会わせてあげる」との言葉はウソではなかった。それは、毎月一回行われる本部幹部会(創価学会のメイン行事。今でも行われている)の整理担当役員に就くことであった。直接言葉を交わす訳ではないが、あるときは場内から、あるときは場外から、池田先生の勇姿を見られることは限りなき幸せであった。
その後、創価班全国委員長となり、一時期は毎日のように池田先生と会話することができる黄金の日々を味わった。これも、私が会っているのではなく、「行けー!」と言った祖母が、「兵隊にやったと思っています」と言った母が、池田先生にお会いしているのだという思いでお仕えしてきた。
今回、この母の手記を読んで、一九六七年(昭和四十二)春、母親を亡くし同時に希望を託した息子を手離さなければならなかった母の心境を、あらためて知った。海よりも深い両親の恩を感ぜざるをえない。これまで「自分のことより創価学会のこと、自分の立場より池田先生の心情を」との思いで生きてくることができた。おかげで多くの人々に守られてきた。もうだめだと、社会的死と、精神的死と、身体的死に直面しながらも、乗り越えることができた。財産などなにもないが、素晴らしい先輩や友人に恵まれている。
この場をかりて、父に感謝したい。今は脳梗塞を患って療養中で、かろうじて杖を使って歩ける状態であるが、幸いなことに頭はしっかりとしている。この言葉をきいてほしい。
「今の誠治があるのは、お父さんのおかげです。たくさんの友人に恵まれているのは、お父さん、あなたのおかげです。あなたはあらゆる人に差別なく、分け隔てなく、誰にたいしても親切にしてきた。困った人がいれば、世間体など気にしないで助けてあげてきた。私は、そのお父さんの姿を見て育ってきたのです。おかげで私もたくさんの人と友達になれました。ありがとう」
母にもきいてほしい。
「お母さん。お母さんのおかげで、私は先に行くべきか、避けるべきか、人生の岐路に立った時、迷わず、困難かもしれないが、自分を捨てて創価学会のために、会員のために、池田先生のために、これまで人生を全うする道を歩むことができました。お母さん、誠治は、これからもこの道を歩みます」
この母の手記は、原爆が惹き起こした、二度とこの地上に起こしてはならない悲惨を、後世に伝えるために、そして、その逃げようのない泥沼の地獄をさ迷っていた一家に、光を与えていただいた創価学会への、なかんずく池田大作先生への報恩感謝の思いから纏められました。
私からの最後のメッセージは、こうです。
「どんな人であれ、年齢や地位や身体や、出自に関係なく、確信をもってこのSGI(創価学会インタナショナル)の仏法を勧めてください。わが広島の竹岡家は、今にも死んでしまいそうな小柄な重度の原爆症に苦しんでいた祖母に、信心を勧めてくださった一人の方のおかげで救われたのです」
今年(二〇一〇年)の三月十六日、孫が誕生した。池田先生の香峰子奥様の「香」の字をいただき香織と名づけられた。これで私の家族の信心は、五世代目となったのである。
祖母・國貞リョウ
両親・竹岡清、智佐子
本人・竹岡誠治、妻・茂子
妹・東野真里子、夫・ 東野幸二
長女・北林伸子、長男・竹岡光城
孫・北林香織
私が華であるとは言わないが、一人のリョウの入信によって、清、智佐子、誠治、茂子、伸子、光城、香織と五代にわたるロータスが花開いたのである。
どうか、私の後輩の皆様、目の前のどんな人にも、この信心を確信をもって勧めてください。その人が、その次の世代が、あるいはさらにその次が、二千年前のハスの実が時が来たれば華を咲かせるように、必ずあなたの折伏弘教の努力は実るのです。
第二次世界大戦の一国をあげた国家神道による統制の下で、日蓮正宗さえも国家に迎合し、日蓮大聖人の精神を踏みにじり、神札を祀った。この大圧力のなかでも筋を曲げず、立正安国の精神を貫き通し、殉教した初代会長牧口常三郎先生。「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」と戦後の荒野に一人立たれた戸田城聖第二代会長。そして「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」のテーマのもと、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」と断言された池田大作第三代会長。
──この太陽と蓮華(サンロータス)を信じて。
竹岡智佐子著『ヒロシマの宿命を使命にかえて──原爆の語り部として生きる』
スピークマン書店、2010年11月)所収〉
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