2008年3月5日
世界紀行・インド編「ヒマラヤの風」より
「竹岡さん、釈尊の仏法が世界に広まったのは、何故かわかりますか?」
田渕先生は、私にそう聞いた。
「……」
「それは、釈尊がヒマラヤを見て育ったからですよ。世界一の気宇広大なヒマラヤの生命が釈尊に乗り移り、世界の人類の道を指し示す仏法となって結実したのですよ」と、熱く語り出した。
「だから、一緒にヒマラヤを見に行きましょう。ヒマラヤには、人々の信仰を集めていて、どの国の登山隊も敬意を払って、登山はしても絶対に頂上には立たないという聖なる山、カンチェンジュンガがあります。その素晴らしい山が見られる、ダージリンに行きましょう。熱帯で温められた水蒸気は、上昇し、北上し、ヒマラヤ連峰にあたって、東に向かうのです。日本を砂漠化から防いで、さまざまな自然の潤いをもたらすのも、実はヒマラヤなのですよ」
「日本がどれだけヒマラヤからの風の恩恵を受けて来たか、日本の人々はあまり知りません。そのことを知らせるためにも、一緒に本を、『ヒマラヤの風』を作りましょう」
この言葉に一も二もなく、「行きます」と、答えた私は、2007年12月も押し迫った頃、既に絵を制作中の田渕先生を追って、インドへと旅立った。
成田からデリーへ。1泊。デリーからインドの国内線でバグドグラまでは、2時間半。ジープに乗り換える。デコボコの道路の穴をよけながら、ジープは走り続ける。樹木が際立って精気を持ち、その下にお茶畑が広がり、野生のゾウが時に出没するというポンカバリという村からジープは山道に差しかかり、右に左に切り立った道を上っていく。
ヒル・カート・ロードを三時間も走っただろうか、途中の茶店で休憩を取り、淡く薄い色ながら、香りの素晴らしい紅茶をいただく。ところが、ここを出発して間もなく、見たこともないような激しい霧が立ち込め、4〜5メートル先も見えなくなった。それでもジープは、ひたすら坂道を上り続ける。すると、音だけが頼りの世界に突然、シュッポッ、シュポッ、シュポッと、力強い蒸気を吐き出す音が聞こえる。
世界遺産になっている、ダージリン・ヒマラヤ鉄道のトイトレインといわれる機関車が、小さい身体をいっぱいにふるわせ、立ち込めた霧を吸い込みながら走っている。その横をジープは駆け抜け、ダージリンを目指す。どこが山で、どこが谷か、まったくわからないまま、ダージリンの手前の町(グーム)を通り抜けると、急に視界が開けた。田渕先生が、制作に励むゴディカン村に着いたのは、空港を出て4時間半経った頃であった。
田渕先生は、さまざまな色の絵具があたりかまわずこびり付いたまっ赤なカッパ兼前掛けを着て、毛糸の帽子を耳までかぶり、村の子供達に囲まれながら、ひたすらに絵を描いていた。その絵は、直ぐ前の村の人々の生活の息づかいを写し取って、ホノボノとしたまことに温かいものであった。
「いやー、竹岡さん、よくいらっしゃいました。ここは、私のふるさとのようです。牛がいて、鶏がいて、洗濯物が干してあって、お母さんと子供が仲良く暮らしているんですよ。安らぎを覚えますよ」
「ところで、先生。カンチェンジュンガは、どこにあるのですか。まったく見えませんが」
こう、私が話すと、「今は、ガスが出て、見えなくなっていますが、昼まではここからも見えていました。陽が昇ると、すぐにガスが出て山が見えなくなることが多いんです。山はいつも見えるわけではないから、村の人も、『見えると皆、嬉しい』と言っていますよ」
「そうなんですか」
「明日、夜明け前にタイガーヒルという日の出が素晴らしい丘がありますから、そこに行きましょう。カンチェンジュンガが、見えるように祈りましょう」と、田渕先生は、にっこりと微笑んだ。
ゴディカン村の人々は、心から田渕先生一行を受け入れ、歓迎していた。朝から晩まで1週間近くも同じところで絵を描いていると、世界中どこでも、言葉は通じなくても、田渕先生の絵の素晴らしさがわかるのであろう。
ダージリンは、イギリスが、紅茶栽培と避暑の為に、約150年前に開いた高原都市である。我々の宿は、そのイギリスのよき伝統を今日に伝える重厚で落ち着いたウィンダメーア・ホテルであった。そこのホテルは、支配人のシプラ・ネイル女史をはじめ、スタッフが皆、田渕先生のファンになっていた。
夜は大変冷え込むので、部屋の中の暖炉で石炭を直接燃やしてしのぐ方式で、ホテルができてから、まったく変えることなく続いているという。翌朝4時にモーニングコールをお願いしていたら、ドアのノックと共に、温かいダージリン紅茶がたっぷり入ったポットがお盆に載って運ばれてきた。5時前に、ホテルを出発して、タイガーヒルに向かった。大きな満月が、車窓の右に写り、左に現れながら、標高2600メートルの頂きに立った。寒さに震えながら待つこと1時間。左手の空中に、真っ暗闇の中に、真っ白い雪山が浮かび上がってきた。
最初は、ボーッと、そして、はっきりと、闇の中に浮かび上がってきたのである。初めて見る、カンチェンジュンガである。それまでは、寒い、寒いと、身体をふるわせながら、真っ暗な闇の中で、日本での仕事のことや、多くの人々とのしがらみや、さまざまな悩みや苦しみが、いつの間にか胸中に去来していたのだが、闇の中に浮かび上がるカンチェンジュンガの頂上の崇高さ、気高さに、全てのものが吹っ飛んだ。
何ものも寄せ付けない孤高さの中に、全てをゆるし、勇気づけるような、すそ野の広がり。
私は思わず法華経の題目を唱え、祈った。どうか、釈尊のように、万分の一でもいいから、この山の志と高さを自分のものとできますように、たくさんの人々の闇を開けますように。これからの人生が、大きな意味を持ちますように、と。襟を正さずにはいられない、これからの人生を正さずにはいられない、荘厳な山が、そこにあった。
田渕先生は、その山頂に、ピンクの絵具を入れた。
世界最高峰エヴェレスト8848メートル、第二位K2、8611メートル、カンチェンジュンガは8586メートルで、三番目であるが、最も東に位置する為、ヒマラヤ連峰では、最も早く日の出の太陽を受ける山なのである。
この素晴らしい気高さを生命に留めたいと願い、思い切り深呼吸をしながら、この感動を長男の光城にも伝えたいと携帯から電話したら、日本につながった。
その時、右手から、八走り、十走りの光が走り、グイグイ、ゴンゴンと太陽が昇ってきた。
全ての人が、田渕先生が描く実際の現場に立つことは、不可能に近い。しかし、田渕先生が描く絵画には、その場に立ち合った以上の強い感動のメッセージが込められている。タイガーヒルにしても、駐車場は車であふれ、遅く来た人は、下の遠いところに車を止めて、10分、20分歩いて頂上まで登ってくる。そして、太陽が昇ると、しばらくして、全員が帰ってしまう。しかし、田渕先生は、皆がいなくなったタイガーヒルで黙々とカンチェンジュンガを描く。日の出前に輝くカンチェンジュンガの発光を、筆の先でまことに素早くキャンバスに留める。
さらに、紙を代えて、まさに昇らんとする直前の光を1〜2分で水彩で写し取り、さらに紙を代え、右から昇ってくる瞬間の太陽をとらえる。
そして、誰もいなくなったタイガーヒルでは、何時間も油絵に精魂を込めるのである。
その作品は、カンチェンジュンガが持つ魂と光を万人に伝える。全世界、どの場所にあっても、誰よりも長く、誰よりも丁寧に、誰よりも真剣に、誰よりも祈りを込めて、そして、誰よりも深く、対境を写し取る。
だから、田渕先生の作品には、一人ひとりの精神の闇を開く力があるのだ。
それが、真正の芸術であり、美である。
子育てができない親が増え、親を平気で殺す子供が増え、精神の闇は、ますます深く広くひろがっているように見える。
しかし、「冬来たりなば、春遠からじ」の原理がある。
今は、大きく変化する潮目ではないかと思う。
カンチェンジュンガの輝きも、闇と寒さに耐えてこそ見られるのである。同じように人生も、苦しさ、つらさ、情けなさ、やるせなさなどの、あらゆる闇に耐えてこそ、一人ひとりが持つカンチェンジュンガが輝くのではないだろうか。
そのカギを、田渕先生の芸術が持っているのだと、より確信をした旅であった。
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