2010年10月
トップを守ることは、すべてを守ること
一方私は、2005年から、会員制のクリニックの経営に携わっている。
2004年2月、謂われなき罪で22日間、身柄を拘束された。夜を日に継ぐ取り調べが続き、心身ともに憔悴したギリギリの攻防戦の中で、胸中に風を送り光を与えていただいたのが、田渕先生の絵画であった。
権力との戦いに勝利したものの、身体に与えられたストレスは並大抵のものではなくて、食道ガンが発生していた。幸い水町重範先生(水町クリニック院長)のおかげで早期発見し、食道外科の第一人者である幕内博康東海大学医学部附属病院病院長(当時)の執刀によって、九死に一生を得ることができた。紙面を借りて、心から感謝申し上げるものである。
このことと相前後して私の無二の親友、山中孝市氏は、
「竹岡さん、実は前々から考えていたことなのだが、会員制の健康管理の病院をこれからスタートするので一緒にやりませんか。一つの会社、一つのグループのトップの健康管理は、すべての構成員に影響します。トップを守ることは、すべての人を守ることに通じます」と、誘ってくれた。
こうして、会員制クリニック、メディカル・サーバントがスタートした。
「医療における執事(=サーバント)」
「何でもわがままがいえるクリニック」
「絶対に異常を見逃さないドックと世界一流の医師のネットワーク」
「一切待たせず、院内では他の人に顔を合わせないですむプライベート・クリニック」
「年中無休のコールセンターと世界どこからでも英語対応」と、考えられる最高の対応が特徴である。
幸いにも、慈恵医大の関連クリニックが入手でき、今日までこの提携は続いている。
山中孝市氏にもまた、この紙面を借りて御礼申し上げるものである。不起訴とはいえ、逮捕時にはマスコミに誇大に取り上げられ、騒がれて、潮が引くように多くの人々が去っていった中で、何ら私を疑うこともなく、温かい友情で今日まで支えて下さっている。有難いことである。
エベレスト街道へ
このクリニックに、メタボ担当としておいで下さったのが、順天堂大学大学院医学研究科、加齢制御医学講座教授の白澤卓二先生である。
私も検診を受けた途端、すべてに納得。ただちに先生の主催する「10才若返るアンチエイジングキャンプ」(長野・斑尾高原)に参加。
白澤先生の持論は、百歳まで元気に活動するためのアンチエイジング。基本は、
1、食事→カロリーを70〜80パーセントに抑える。
2、運動→しっかりしたリーダーのもとに自分に合った運動を続ける。
3、生きがい→常にときめきをもつ。
このうちの運動担当が、冒険家の三浦豪太氏であった。
会った途端に、惚れ込んでしまった。ナイスガイ、おおらか、前向き、配慮の人、謙虚……。
すぐに、田渕先生と引き合わせた。
ヒマラヤのカンチェンジュンガの山をインドのダージリンから描いた先生の絵を見るなり、「素晴らしい。こんな山の空気まで描ける人はいません。僕の父(三浦雄一郎氏、75歳でエベレスト登頂。世界最高齢登頂者としてギネス記録保持者〔当時〕)と一緒に行ったエベレストを描いて下さい。ネパールにエベレスト街道という、それはそれは美しいトレッキングの道があるんですよ。日本人の宮原巍(たかし)さんという方の建てたホテル・エベレストビュー(標高3880メートル)というのがあって、そこから見る景色は世界一ですよ」と、話し始めた。
「えーっ、私は、いつも座って絵を描いているだけで、運動もしていないし、メタボだし、もう67歳(当時)ですよ。無理ですよ」と、田渕先生。
「僕が責任をもって訓練してお連れします。竹岡さんと一緒に行きましょう」と、三浦氏。
かくして、三浦豪太氏を隊長とする田渕画伯をエベレストに連れて行くプロジェクトが始まった。
2009年4月、ホテル・エベレストビューに立った画伯は、
「竹岡さん、フランスのモネが全長90メートルの睡蓮をテーマにしたライフワークを完成させたように、私はエベレストをテーマに90メートルのライフワークを決意しました。ぜひ協力して下さい」と心情を告げられた。
「素晴らしいことです。これまで田渕先生に世界の美を見せていただいた御礼に、できるかぎりのサポートをいたします」と、答える私。
二人でがっちりと握手をしたことを、昨日のように思い出す。
帰国後、三浦雄一郎氏に報告すると、
「私も八十歳で再びエベレストに挑戦します。田渕先生の90メートルのライフワークと私のライフワーク、共に手をたずさえていきましょう」との言葉をいただき、
「ネパール側で、素人でも行ける場所として最高地点にカラパタール(標高5545メートル)というところがあります。エベレストに登頂するためのベースキャンプのすぐ手前で、そこから先は、氷河で専門の訓練を積んだ人しか入れません。最高のパノラマですよ。ぜひ、そこも90メートルに加えて下さい」との提案があった。
「わかりました。一番元気なうちに行きましょう。来年、登ります」
こうして、2010年5月、再び豪太氏を隊長とし、雄一郎氏の後方支援の責任者を務めた貫田宗男氏(自身も二度エベレスト登頂)をサポート・リーダーとしてプロジェクトが行われたのであった。
雄一郎氏の声掛かりがあったために、現地のスタッフはすべて氏のエベレスト登山隊の最高メンバーであった(本文参照)。
特に、シェルパ頭のラクパ・テンジン氏の振る舞いは、チームやリーダーはかくあれとの模範で、私にとって、これからの人生に多くの示唆を与えていただいた。
遺伝子をめぐる冒険の旅
話は前後するが、田渕先生のライフワーク制作の旅は、宣言の半年後、2009年10月から、前回と同じコースで始まっており、それに合流するエベレスト街道の旅に、広島の修道中学・高校時代の同級生、大歳卓麻氏等が加わった。
大歳氏は、日本IBMの会長で、ちょうどこの年、激務の社長職から解放されて現職に就任したばかりで、対外活動に軸足を移したところであったため、時間に余裕ができ、豪太氏率いる旅に同行できたのであった。
IBMではちょうどそのころ、アメリカのナショナルジオグラフィック協会と共同で、人類発祥の地はどこか、人類はどこから来たのか、今のあなたの祖先はどういう経路をたどってそこにいるのか、唾液をもとにコンピュータで遺伝子解析をして、世界地図上に表示するというプロジェクトを始動していた。
話を聞いてさっそく、三浦豪太氏が検査した。この方法には父系と母系の二種類で可能であったが、最初、父系の調査の結果、アフリカで発生し、サウジアラビアを経由してヒマラヤ山脈の北方すぐのところを通過して中国に入り、日本に渡ったと出た(後に母系も調べたところ、それは、インドネシア方面の南方海洋から日本に渡来したことが判明した)。
やはり、三浦家が、ヒマラヤのエベレストを目指すのも、祖先の血が騒ぐせいかもしれない。
三浦豪太氏の持論は、人類の中で、争うことが嫌いな人々が、それを避けたいがために冒険の旅に出たというもので、日本経済新聞夕刊、毎週土曜日に、「探検学校」とのタイトルで、人の冒険心と探求心を語るコラムを連載している。
その後、大歳氏、豪太氏を中心に、「遺伝子をめぐる冒険の旅」というプロジェクトを立ち上げようということになった。参加者それぞれの遺伝子を調べ、どういう経路かによってグループ分けし、各コースを実地にたどって旅をしようというものである。
先の白澤教授の第三項目、「生きがい」を求める一つの実践として、また、第二項目、「運動」とも関連して、大人の冒険の旅がこれから始まる。「冒険」と題したのは、山を越え、谷を越え、海を越えなければ、たどり着かないからである。人生の旅路も同じであろう。
なお、「サンロータス」のテーマに関連して、人類の起源は、ほぼアフリカ東部、古代エジプト文明を成立させたナイル川の源流(赤道直下でありながら万年雪を冠するルウェンゾリ山のふもと)周辺が通説になってきた。事実、IBMとナショナルジオグラフィックの解析でも、源は100パーセント、アフリカのナイル上流を示している。
私たちは、ロータスとともにナイルを下り、メソポタミアを渡り、アジアを横切り、海を渡って日本にいるのではないだろうか。
さらなるサンロータスの旅へ
また私は、出口の見えない世界の現実、混迷する日本の政治、経済、教育に対して、このままではいけない。何かしなければとの思いで、さまざまなボランティアや勉強会に参加している。
たとえば、
・地雷の被害で苦しむカンボジアに小学校を造り運営している緒方由美子氏が主宰する国際人権ネットワーク。
・アジア最西端トルコとの交流を図り、児童フェスティバルを支援している唐木比子氏の日本トルコ友好協会。
・三分間スピーチで「徳育」を身に付け「人生学」を普及して日本を起ち上がらせようとしている青木清氏主宰の徳育と人間力育成研究所。
・日本の食文化の素晴らしさを世界に発信されている青木弓夫先生の和食文化とおもてなし促進機構。
・深澤中斎先生主宰の論語をベースとして研鑽を重ねる中斎塾。
・藤岡政博氏が後援する安岡正篤先生の言論や論語を学ぶ安岡活学塾、等々。
また、日本文化の中に、これからの道を開くカギがあるとの思いから、この本には茶道、香道に関するエッセー等も収録させていただいた。
さあ、これから一緒に、あなたも「サンロータスの旅」へ出発しませんか。
きっとその旅は、あなたの胸中に明るい光を投げかけ、少々いやなこともうしろにぶら下げながら、前向きで健康的な旅になるでしょう。
私たちの祖先に感謝し、日本文化の素晴らしさを再発見し、多くの友人が得られる旅になることでしょう。
月日は
百代の過客にして、
行かふ年も又旅人也。(松尾芭蕉)
われわれは
万代の旅人にして、
行きかう人もまた、友どちなり。
2010年10月 竹岡誠治
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