田渕 隆三 「人間の港」第34号 巻頭エッセイより
経験ほど尊いものはない。無眼の力と説得力をもっている。一人の体験であっても万人の共有となる。『流れる星は生きている』(藤原てい〔新田次郎の妻〕の終戦直後の引揚げ体験記)にまさる、心ふるわす真実があった。原爆の恐ろしさが、はじめていのちを通して伝わってきた。
『ヒロシマの宿命を使命にかえて 原爆の語り部として生きる』(スピークマン書店)、私どもを支援下さっている竹岡誠治氏の母上、竹岡智佐子さんの体験手記である。
被爆当時、智佐子さんは十七歳、そのお母さん(國貞リョウ)は四十二歳で、市中心部の陸軍病院の看護婦長であった。市の西はずれにいて軽傷ですんだ智佐子さんは、翌日から母を捜して、廃墟と化した爆心地付近を何日も歩きまわった末、市の南部、江波の国民学校で再会する。
大勢の死人と死にそうな人々の中で、虫の鳴くようなか細い声で、「ちいちゃん」と、智佐子さんの名を呼ぶ声がした。母であった。母は、生きていた。かすかに頭を動かしたその人からは、何百匹ものウジ虫がこぼれ落ちた。背筋が凍りつくような悲惨な姿。顔中にガラスの破片が突き刺さっていて、右の眼球が爆風ではじけて飛び出している。
飛び出した目は、摘出しなければ、正常な左目も見えなくなってしまう恐れがあった。 ところが、外科医は全滅しており、しかも、麻酔薬もない。四人の衛生兵が母の体を押さえつけ、獣医によって摘出手術が行われた。苦痛であばれ、叫び声をあげる母に、智佐子さんは目を伏せて、じっと堪えるほかなかった。
数年後、結婚した智佐子さんは長男を授かり、ようやくささやかな幸せが訪れたのも束の間であった。
「その日は寒い一月七日、朝から雪が降っていました。生まれて間もない弘訓(長男)が、ぎゅーっと手も足も縮めて苦しみはじめました。二時間前にはおっぱいもよく飲んでいたのに、まだ息をしているのにもう、口もこわばっておっぱいを飲むこともできません。(中略) 生まれて十八日目のことで、ほどなくして亡くなりました。病名は『原爆症』、哀しい哀しい病名でした」
(体験手記より抜粋)
国土も人間も地獄そのものであった。しかし、その地獄を見た一人の中に、新しい芽が生まれていた。この深い闇を通じて、非情な世界にまで心寄せる一人の人間が生まれていた。智佐子さんの次男として生を受けた人、竹岡誠治氏である。率直で天真爛漫たる行動を支える氏のルーツは、ここにあった。そして、この体験をもった民族の中に、世界最高の美が、闇を照らす光が誕生しない訳がないと、心に誓うものである。
建設と破壊、光と闇の究極のせめぎ合いの中で、「人間」が踏みとどまった証しがある。爆心地近くに残る原爆ドーム。その設計者は、ヤン・レツル、東欧チェコ(当時オーストリア=ハンガリー帝国)からやってきた建築家であった。
「今、私はミュージアム(博物館・美術館)を造っています」
今からほぼ百年前、彼は、故国の母に手紙を送っている。美の殿堂を手掛けられるなど、滅多にあるものではない。非常な名誉を感じて、持てる限りを尽くしてそれに応えた。残念ながら完成した「ドーム」は、一時を除き、意に反した軌跡をたどった末、被爆。普通なら、レンガ造りの鉄筋も脆弱なその建物は、これで万事休すである。
今、ドームを頂点にピラミッドの如く三角形を構成するその姿は世界遺産に登録され、レツルをはじめとする建設当時の人々の清らかな真心の結晶として我々の前に建っている。不思議にも、永久にその形を留めることとなった。
平和の旗手
暴力に対する非暴力の戦い、野蛮に対する人間性の戦い
芸術は非暴力の先頭を走る
生命の旗をかざして、寸鉄持たぬ我らの戦いがはじまった
銃口が銃口を呼び、憎悪と怨念が闇を深める
光と闇との戦いだ
生命の旗のもとに、
慈愛と智慧の結晶を、美の銃弾として闘わん
新春にあたり、『人間の港』を購読・応援していただいている皆様に衷心より厚く御礼申し上げますとともに、今後ともよろしくお願い申し上げます。
|