ダージリン タイガーヒルにて ●幸運に感謝して 田渕 今日は見事に晴れ渡りました。カンチェンジュンガの全貌、そこから続くヒマラヤの峰々、それに、ほんの指先程度の大きさですが、遠くエベレストまで見えました。こんな、天気に恵まれる日は、そうないそうですよ。「晴れ男」と言われる、竹岡さんの面目躍如ですね(笑)。 竹岡 ありがたいことです。夜明け前の満月と星々の競演から始まって、だんだんと山が静かに姿を見せ、日の出とともにそれがバラ色に染まる。これまでも、一緒にいろいろな景勝の地に立たせていただきましたが、ここは、何か、大宇宙を身近に感じる、世界でも屈指の場所といえますね。手を広げると、飛んで行けそうです(笑)。 ●初光はヒマラヤを照らす 田渕 今回で、ダージリンヘの旅は3度目で、今回も、この丘に登るのは、3回目になりますが、何度も見ていると、面白いことがわかりました。夜明けは、カンチェンジュンガが先で、太陽が顔を見せるのはその後なんです。まず、山の頂上がぽっと灯りがともるように紅くなって、その後で、太陽がわれわれのところに顔を出すんです。 竹岡 それは、富士山の日の出と同じですね。山の方が高い分、光を受けるのが早いということですね。 田渕 まあ、当たり前と言えばそれまでですが、カンチェンジュンガは、ヒマラヤの8000メートル峰の中では一番東にあります。ということは、全インドの中でも、一番早く太陽を迎える場所が、カンチェンジュンガであるということです。 竹岡 なるほど。ヒマラヤの峰々の中でも、別格ということですね。 ●5つの宝を持つカンチェンジュンガ 田渕 昔から、カンチェンジュンガは、聖なる信仰の山でした。その名も、「5つの宝を持つ雪の山」という意味だと聞きました。現在でも、頂上に立つことは、なんびとたりとも禁じられているそうです。 竹岡 それは、神々しい山の姿を実際に見ればわかります。見ているうちに、私ははからずも、涙しました。田渕先生が以前、「釈尊の人格は、ヒマラヤが乗り移って出来上がったと思った」と言われましたが、それも納得できます。 田渕 カンチェンジュンガに向かうと、この見えている山こそ、偉大な法の当体だと思えてきます。森羅万象、山川草木こそが、法の当体であると教える仏教の最高峰である『法華経』の教えが、真実だと思えてきます。『法華経』では、相・性・体がそろっているものが、現実に生命の働きをなすと説かれます。相(姿・形)が、体(不変なる生命)を表しているんです。「法は見えないもの」と、普通はいわれますが、それは誤りです。法は、見えています。 竹岡 この地に立った実感が、それを確信させてくれますね。 ●法に則って見える通りに描く 田渕 そうしてみると、現地で対象を見て、見える通りに絵を描いているということは、法に則って、法を画面に留めているということになります。 竹岡 その「法に則って」の「法」とは、生命の法であり、宇宙の根源を貫く法ということですね。そこが、新しい観点だと思います。 田渕 そして、その法を捉えることができるのが人間の感性であり、この目です。 竹岡 写真より、いかに絵が凄いか、それを、なるほどと思ったのが、一緒にアショーカ王柱の獅子の像(サールナート博物館)を見た時でした。実は、写真で見ていた時は、それほどのものとは思えず、むしろ陳腐な作品としか思えませんでした。しかし、実際に見ると、大違いでしたし、田渕先生によって絵となった時、まさに驚きとなりました。 田渕 あの王柱の獅子像は、まさに宇宙の法をつかんだ作品だと思います。実際に描いてみて、自然さがそこにあるのを感じました。法を、感性の目で捉えた作品であり、われわれの描く絵も、感性に訴える絵でなくてはならないと思います。それこそが、万人を納得させる絵です。ロゴス(言葉・理性)だけだと不十分で、不変なる生命(体)を表現することは困難です。今は、理性信仰の世の中です。そして、理性と理性がぶつかって、出口がみつからない状態が、現代です。そこに、理性を説得する、感性の絵が生まれる必要性があると思っています。 竹岡 法を、人間の目で捉えたものが、そのような感性の美であり、そんな美が示されれば、現代の複雑な論争に終止符を打つ端緒が示されるということですね。 田渕 ここから望むヒマラヤの山ほど、説得力のあるものはありません。やはり、決定打は、形を見せることだと思います。アレキサンダー大王も、アショーカ大王も、歴史上の偉大な指導者の時代には、それぞれ、目に見える形(美術)を伴っていました。それが、多くの人々を惹き付け、偉大な時代を拓く要因の一つとなりました。 |