三浦雄一郎氏の3度目のエベレスト挑戦に同行して
中編
●支援隊の行程
さて私達の組織した支援隊に話を移します。
支援隊は、7名で行きました。内訳は、私の友人であり、以前にもトレッキングをご一緒して、豪太さんを隊長として活動する大人の探検倶楽部『豪太会』の会長も務めていただいているピー・パートナーズ会長、牧野頴一さん、NPO法人東京コミュニティスクールの理事長で子どもの教育問題に取り組む久保一之さん、2011年1月の雄一郎さんを隊長とする南極の探検旅行にもご一緒した原書房の原秀昇さん、2005年と2007年に雄一郎さんのチョモランマ・アドバンスベースキャンプ(チベット側、標高6400m)への遠征経験をもつ、福岡から参加の宮原美恵子さん、それに、旅行社の女性スタッフ、稲村道子さんと秋本博子さんの2名が付いて、私を含め計7名となりました。〈*写真2:支援隊と、タンボチェにて〉
4月24日夜に羽田空港を発ってバンコクで乗り換えて、ネパールの首都カトマンズに翌日着いて1泊。そこまではタイ航空の定期便です。
4月26日に標高2827mのルクラへ向かいました。これはローカル航空会社の12~3人乗りの有視界飛行の小型機です。シーズンには数社の機が頻繁に飛んでおり、おおむね安全ですが、年に数回、天候や気流の急変で事故が起きる路線です。また、天候の回復を待って、何日も飛ぶのを待たされることもあります。
ルクラの飛行場は恐ろしく、山の斜面に造られており、飛行機は傾斜している滑走路を登りながら減速して止まります。離陸のときは、逆に滑走路を下りながら加速して飛び立ちます。駐機場のみ平らで、飛行場の片隅には、事故を起こして壊れた飛行機が2~3機放置されています。
このルクラからは、エベレスト街道といわれるトッレキング路になります。ヘリを使って、さらに先に行くことはできないわけではありませんが、いっきに高所に入ると体へのダメージが大きいため、歩いて徐々に順応させることがお薦めです。
歩きの1日目は、ゆるやかな下り道で、約3時間で標高2652mのパクディンに到着します。2日目は、ヒマラヤの氷河から流れ出たドゥードコシという乳白色の川の渓谷に沿って、その川に架かるいくつかの吊り橋を何度も右に左に渡りながら高度を上げ、約7時間かけて標高3500mのナムチェバザールに到着します。標高3500mを越えると、高山病の危険性が高まりますから、ここで2泊して、体を高度に馴らします。
●シャンボチェとクムジュン
ナムチェから数百m登ったところに、商業飛行場としては最高地点(標高3750m)にあるシャンボチェ飛行場があります。この飛行場は、40年ほど前(1971年)に日本人の手によって造られました。それは、宮原巍(たかし)さんという明年80歳になられる男性で、長野県出身、ネパール国籍を取得されて長くヒマラヤの観光開発に尽くしてこられた方です。チョモランマの頂上が見える、シャンボチェの標高3880m地点からのヒマラヤの眺望に感動して、その名もエベレストビューという本格的ホテルをそこに建設し、そのホテルのために造った飛行場がそれです。
シャンボチェの奥に、クムジュンという村があります。そこには、チョモランマの初登頂で知られるヒラリー卿の寄贈による学校があります。
学校は、シェルパの子どもたちに教育の機会を与える目的で1960年に創立されて、今もたくさんの子どもたちが周囲の村から通っています。
私が初めてこの地を訪れた2009年の秋には、日本から声楽家の大野一道先生をお連れして、日本の歌のコンサートをここで開きました。現地の子どもたちは地元の踊りで応え、日本とネパールとの交流のひとときを持つことができました。
●シャクナゲ街道を行く
春のエベレスト街道は、現地名ラリグラスですが、シャクナゲが見事に咲き誇ります。(写真3:シャクナゲのエベレスト街道)
ナムチェからそのシャクナゲ街道を登り降りを繰り返して、標高3867mの大寺院のあるタンボチェを横に見て、少し下って標高3710mのデウチェに1泊。そこから川沿いに高度を上げて、標高4343mのディンボチェに2泊して、近くの5000m級のピークを往復するなどして高度順化。その後、標高4930mのロブジェ、さらに標高5100mのゴラクシェプに各1泊しました。
ゴラクシェプでは、馬も死ぬというホースデッドポイントを通過して標高5545mのカラパタールに登頂しました。このように途中、登り降りを入れるのは、一度数百m程度登って、降りてくると、高度順化して楽になって、よく寝られるということからです。
そして、やっと標高5350mのベースキャンプです。ここまでルクラより9泊の行程で、歩き始めて10日目、5月5日に到着しました。(写真4:支援隊の到着を迎える三浦親子)
●ベースキャンプの仕様
ベースキャンプは、細長い氷河の河原に沿って、1シーズン毎に氷河がせり出すぎりぎりのところに造られます。そこからすぐのところからは、危険なクレバスが行く手をさえぎる氷の世界です。
岩の部分もありますが、基本的には下は氷で、そこを石を積み上げるなどして整地して、テントを設置して寝泊まりします。
私が確認したところでは、今シーズンは、30隊の登頂を目指すBCが造られていました。
三浦隊の場合、2月に場所取りをして、大きな食堂や通信施設までも造られて、3ヶ月間、設置されます。
水は、氷を溶かして作ります。トイレは、氷に穴を掘ってポリバケツを埋めて中にビニールを張って、そこに大小をするようにします。環境への配慮から、けっして外に漏らさないようにして、それがいっぱいになると、ポーターがポリバケツを担いで2日かけてロブチェまで降ろして、そこで処理するようになっています。1樽日本円換算で、4000円程度かかるとのことでした。
われわれ支援隊は、ここで2泊して、5月7日朝にBCを発って帰りました。激励のつもりが、激励されて帰ってまいりました。
●人としての振舞いに感動
実は、支援隊を組んだ、本当の目的は、山への興味も当然ありましたが、雄一郎さんに惹かれたからというのが、正直なところです。雄一郎さん、豪太さんに会いたくて、押しかけたということです。
この前に行われた、メラピーク(標高6654m)という山での訓練にもご一緒させていただいたのですが、このときは、雄一郎さんと豪太さんと、私との3人のみで移動しました。
雄一郎さんは、待機中に、さあ動くというときになると、まったく自然に私のリュックを持って、「竹岡さん、さあ行こう」と、促されました。今、どういう状況か、常に気配りをして、瞬時に判断されるのです。
私の還暦を記念して出版した『サンロータスの旅人』の記念パーティー(2010年12月14日、神田・学士会館)にも来てくださったのですが、たくさんのお客様の中に私の習っている熊坂久美子さんというお香の先生がいらっしゃり、一緒に記念写真を撮ってもらいたいと、雄一郎さんにお願いされたことがありました。
そのときのことを、熊坂先生は、「雄一郎さんは、すぐに私の背の高さに合わせて膝を曲げてかがまれ、ニッコリされました。私は、感動しました。なかなか、こんなことはできませんよ」と、おっしゃっておられました。こうしたことに気がつく熊坂先生も偉い方ですが、このように、雄一郎さんという方は、人としての振舞いが素晴らしい方なのです。
ともかく、山にご一緒すると、勉強になることがたくさんあるのです。
●地球温暖化の影響
ヒマラヤのような微妙なバランスのもとに保たれている高所では、地球の温暖化が進行していることを顕著に実感できるということも学びました。
私にとってBCは初めてでしたから、自身では何とも判断できませんが、1970年代から行き来している雄一郎さん、豪太さんによると、ずいぶん氷は溶けて後退しているといわれていました。
ナムチェでは、15~20年前には背丈の2倍の積雪があったが、このごろはまったく積もらなくなった、特に4年ほど前から目に見えて暖かくなったとも、われわれについた現地のガイドから聞きました。今年は、例年より20%暖かいとも聞きました。
●サーダーとコック 隊の要
以上、支援隊の概略をお話ししましたが、組織を預かる者として一番の関心事は、これにどれほどの人員を要するのかということでありましょう。
われわれ5名に対して、日本から旅行社のスタッフに2名の女性が付いたことは、既にお話ししましたが、この旅行社とは、ウェック・トレックという高所登山やトレッキングを主にアレンジする会社で、自身チョモランマ登頂者で、貫田宗男(ぬきた むねお)さんが会長を務めておられます。貫田さんは、テレビ番組の企画(日本テレビ「イッテQ!登山部」)で、イモトという女性お笑いタレントのマッターホルン登頂のアドヴァイザーとしても有名です。
この日本からの7名に、現地でシェルパと呼ばれるスタッフが14名付きました。
この現地スタッフをまとめる総合指令ともいうべき人が、サーダーです。サーダーを誰にするか、半分はこれで成功するかどうかが決まるといわれます。
われわれのサーダーは、日本語の上手いミンマ(ミンマソナ・シェルパ)さんという、人柄のよい37歳の男性で、13歳と10歳の女の子を持つ父親でもありました。ちなみに、ミンマさんの父親は、有名なクライミング・シェルパ(登頂まで付き添うシェルパ)でしたが、7年前に遠征隊で亡くなっているとのことでした。
このサーダーのもと、コックが手配されます。コックの地位は高く、サーダーと同格で、給料も同じとのことです。それは、隊の命綱ともいうべき食料、お金の計算、参加者の健康管理の責任者という立場であるからです。
わが支援隊のコックは、アンチェリー・シェルパ、30歳。9歳、5歳、2歳の3人の子の父親でした。シェルパのほとんどはここから輩出されるという、ロールワリン谷(チョモランマのあるクーンブ山域の西隣)の貧しい村の出身です。
●7名に7名のキッチンスタッフ
そして、コックのもと、料理担当のキッチン・ボーイが2名いました。カンガジ・シェルパ23歳とギャルチェン・シェルパ21歳で、どちらもオカルグンダという村の出身です。
コックの指導のもと、この2人が加わって、私たちには日本料理、シェルパにはカレーが作られます。どちらも美味いのですが、シェルパ・カレーの方は、慣れない人間が食べると腹を壊すので、薦められません。
キッチンには、水汲みや食器洗いをする、下働きのキッチン・ヘルパーがいます。支援隊では、ソル村出身のアンラクパ・シェルパ19歳とマンデリンラナライ17歳、オカルグンダ村出身のドルジ・シェルパ22歳とベルリー・シェルパ(年齢不詳)の4名です。
要するに、旅行社のスタッフを含む7名の隊のために、食料面でコックをはじめ7名が働いているということです。
●1人に1人のアシスタント
キッチンスタッフの他に、荷揚げをしたり案内をしたりするアシスタントのシェルパが隊には付きます。
シェルパの中で最も地位が高いのは、クライミング・シェルパで、頑強な体の持ち主です。
私たちは、BCまででしたから、クライミング・シェルパは雇いません。支援隊には、サーダーのミンマさんの手配のもと、アシスタントのシェルパが5名付きました。旅行社スタッフを除くメンバー1人につき1人が付くということです。この5名は、全員ソルクンブという村から、一番年長のゲルー・シェルパ30歳が組織して来ました。他の4名は、デンバ・シェルパ24歳、5歳と3歳の子持ちです。プーリー・シェルパ22歳、未婚ですが彼女はいるとのことです。パサン・シェルパ22歳(既婚・未婚は不明)、そして私を担当してくれたのが、18歳で一番若いカルデン・シェルパでした。カルデンは、3ヶ月前に結婚したばかりで、日本語はできませんが、私が何をして欲しいかを察する能力の高いシェルパでした。
さらに、ゾッキョ・ドライバーという高所の荷揚用で、ゾッキョという牛とヤクをかけ合わせた動物を操るシェルパがいます。
働ける動物は、牛は2000mまで、ゾッキョとドンキー(ロバ)は、2000mから4000mまでを担います。それ以上は、ヤクだけが頼りです。
カッパや手袋ほかの防寒具、飲料水や非常食、ヘッドランプ、笛などの山歩きの際の必需品は、リュックに入れて重量20kgまでは各自が持ちますが、ロッジやテントで使う寝袋や洗面道具、予備の水を入れたタンク等を入れた40~50kgになるザックは、このゾッキョが運んでくれます。
ゾッキョ1頭で100kgを運べて、われわれのゾッキョ・ドライバー、アンチェリン・シェルパ42歳はそれを9頭所有しているとのことで、今回は、8頭が活躍しました。このアンチェリンには、10歳と5歳の子どもがおり、ターナという部落の出身です。
以上、7名の支援隊が機能するには、倍の総勢14名のスタッフを要するということになります。
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