三浦雄一郎氏のエベレスト登頂・ベースキャンプに同行して
中斉塾 東京フォーラムにて 前編
二〇一三年五月二十三日、三浦雄一郎氏は八十歳七ヶ月で世界最高峰のエベレスト山頂に三度立たれました。雄一郎氏ならびに次男の豪太氏を尊敬している私は、三浦本隊とは別に三浦支援隊を組織し、ネパールのエベレストベースキャンプまで同行してきました。
今回「知足」への寄稿を依頼されましたので、支援隊の行程を紹介し、また、どうして雄一郎氏は八十歳の高齢にもかかわらずエベレストの登頂を成功させることができたのか、その一端を考察してみたいと思います。
結論からいくと、それは「年寄り半日仕事」という言葉に代表される新しい試みにあったと言えます。これは昔から日本の農家等で言い伝えられている言葉で、ある程度の年齢に達した年寄りは、半日仕事をすると後の半日はゆっくり過ごすという意味で、結果的には長い目で見ると仕事の効率も上がり、年寄りの健康にも寄与するということになります。
●ルックラからトレッキング開始
さて、私達の組織した支援隊の概要です。支援隊は、七名で行きました。内訳は、私の友人であり以前にもトレッキングをご一緒して、豪太さんを隊長として活動する大人の探検倶楽部「豪太会」の会長も務めていただいているピー・パートナーズ会長、牧野頴一さん、NPO法人東京コミュニティスクールの理事長で子どもの教育問題に取り組む久保一之さん、二〇一一年一月の雄一郎さんを隊長とする南極の探検旅行にもご一緒した原書房の原秀昇さん、二〇〇五年と二〇〇七年に雄一郎さんのチョモランマ・アドバンスベースキャンプ(チベット側、標高六四〇〇m)への遠征経験をもつ、福岡から参加の宮原美恵子さん、それに、旅行社の女性スタッフ稲村道子さんと秋本博子さんの二名が付いて、私を含め計七名となりました。四月二十四日夜に羽田空港を発ってバンコクで乗り換えて、ネパールの首都カトマンズに翌日着いて一泊。そこまではタイ航空の定期便です。
ルクラの飛行場はとても恐ろしく、山の斜面に造られていて、飛行機は傾斜している滑走路を登りながら減速して止まります。離陸のときは、逆に滑走路を下りながら加速して飛び立ちます。駐機場のみ平らで、飛行場の片隅には、事故を起こして壊れた飛行機が二、三機放置されています。
このルクラからはエベレスト街道といわれるトッレキング路になります。ヘリを使って、さらに先に行くことはできないわけではありませんが、いっきに高所に入ると体へのダメージが大きいため、歩いて徐々に順応させることがお薦めです。
歩きの一日目は緩やかな下り道で、約三時間で標高二六五二mのパクディンに到着します。二日目は、ヒマラヤの氷河から流れ出たドゥードコシという乳白色の川の渓谷に沿って、その川に架かるいくつかの吊り橋を何度も右に左に渡りながら高度を上げ、約七時間かけて標高三五〇〇mのナムチェバザールに到着します。標高三五〇〇mを越えると高山病の危険性が高まりますから、ここで二泊して体を高度に馴らします。
●シャンボチェとクムジュン
ナムチェから数百m登ったところに、商業飛行場としては最高地点(標高三七五〇m)にあるシャンボチェ飛行場があります。この飛行場は、四十年ほど前(一九七一年)に日本人の手によって造られました。それは、宮原巍(たかし)さんという明年八十歳になられる男性で長野県出身、ネパール国籍を取得されて長くヒマラヤの観光開発に尽くしてこられた方です。チョモランマの頂上が見えるシャンボチェの標高三八八〇m地点からのヒマラヤの眺望に感動して、その名もエベレストビューという本格的ホテルをそこに建設し、そのホテルのために造った飛行場がそれです。
シャンボチェの奥にクムジュンという村があります。そこにはチョモランマの初登頂で知られるヒラリー卿の寄贈による学校があります。学校は、シェルパの子どもたちに教育の機会を与える目的で一九六〇年に創立されて、今もたくさんの子どもたちが周囲の村から通っています。
また、同じ荷物運びでも、ゾッキョ・ドライバーは、1頭あたり人の倍の荷物が運べることから、サラリーも倍の2000~4000ルピーとなります。また、需給関係で、さらに1頭あたり5000ルピーまで上がることもあるとのことです。また、ヤクになると、さらに高所での作業ですから、ゾッキョの2.5倍となります。
ゾッキョやヤクの飼料である牧草は、高所になると生えていませんから、その場合は、ゾッキョ・ドライバー自身の責任で、ポーターを雇うなどして牧草を運びます。
私が初めてこの地を訪れた二〇〇九年の秋には、日本から声楽家の大野一道先生をお連れして、日本の歌のコンサートをここで開きました。現地の子どもたちは地元の踊りで応え、日本とネパールとの交流のひとときを持つことができました。
●シャクナゲ街道を行く
春のエベレスト街道は、現地名をラリグラスと呼ぶシャクナゲが見事に咲き誇ります。ナムチェからそのシャクナゲ街道を登り降りを繰り返して、標高三八六七mの大寺院のあるタンボチェを横に見て、少し下って標高三七一〇mのデウチェに一泊。そこから川沿いに高度を上げて、標高四三四三mのディンボチェに二泊して、近くの五〇〇〇m級のピークを往復するなどして高度順化。その後、標高四九三〇mのロブジェ、さらに標高五一〇〇mのゴラクシェプに各一泊しました。
ゴラクシェプでは馬も死ぬというホースデッドポイントを通過して、標高五五四五mのカラパタールに登頂しました。このように途中、登り降りを入れるのは、一度数百m程度登って降りてくると、高度順化して楽になって、よく寝られるということからです。
そして、やっと標高五三五〇mのベースキャンプです。ここまでルクラより九泊の行程で、歩き始めて十日目、五月五日に到着しました。
●ベースキャンプの仕様
ベースキャンプは、細長い氷河の河原に沿って、一シーズン毎に氷河がせり出すぎりぎりのところに造られます。そこからすぐのところからは、危険なクレバスが行く手をさえぎる氷の世界です。 岩の部分もありますが、基本的には下は氷で、そこを石を積み上げるなどして整地してテントを設置して寝泊まりします。
私が確認したところでは、今シーズンは三〇隊近くの登頂を目指すBCが造られていました。 三浦隊の場合、二月に場所取りをして、大きな食堂や通信施設までも造られて、三ヶ月間設置されます。
水は、氷を溶かして作ります。トイレは、氷に穴を掘ってポリバケツを埋めて中にビニールを張って、そこに大小をするようにします。環境への配慮から、けっして外に漏らさないようにして、それがいっぱいになると、ポーターがポリバケツを担いで二日かけてロブチェまで降ろして、そこで処理するようになっています。一樽日本円換算で、四〇〇〇円程度かかるとのことでした。
われわれ支援隊はここで二泊して、五月七日朝にBCを発って帰りました。激励のつもりが、激励されて帰ってまいりました。
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