2013年11月12日 (3/8) 「開三顕一今にあり」3 ナムチェバザールへ 4月27日、朝6時、トレッキング中のロッジでの目覚ましは、ウェイクアップコールではなく、部屋にティーが運ばれてきて、起こされる。6時半、運んでもらう荷物のザックと使用した寝袋のパッケージを託して朝食。7時半、出発。 少し行くと、標高6608mのタムセルクが見えてくる。明け方は、山に雲一つかかっていなかったのに、太陽の光で雪が融けるためなのか、みるみる雲が湧いてくる。 牧野さんが、その雲を見て「まるで雪崩のようだ」と、すかさずつぶやいた。 稜線に咲くシャクナゲ(現地名ラリグラス)が、毬のように丸く印象的であった。 ヒマラヤの氷河から流れ出たドゥードコシという乳白色の川の渓谷に沿って、いくつかの吊り橋を何度も右に左に渡りながら、3時間のトレッキングの後、昼食。その後、3時間半の行程で、ジョサレの先、サガルマータ国立公園に入域し、高度を上げてゆく。 途中、標高5761mのクンビラの頂上が見えてきた頃、青々とした山椒の原木があった。この木の青とクンビラの山の白の対比が映えて美しい。 私は、この旅の後、6月下旬に大分の湯布院で開催されるアンチエイジングのセミナーの主催者の一人であるが、その際に食事指導をしてくださる方が、「山椒楼」という料理屋を開店させる予定であることを思い出した。この方は、JR九州の駅弁の監修等をされている。 記念に、その山椒の実を持っていこうと手をかけたら、トゲに指を刺された。「むやみにヒマラヤから持ち帰ってはいけない」と、とがめられた気がした。 山椒を 取ろうとしたら とがめられ 春のエベレスト街道は、もう少し早ければ、桜が楽しめたのだが、既に葉桜となっていた。そのかわり、リンゴの花が見頃となっていた。 リンゴ咲く タムセルクから クンビラへ エベレスト街道を行き交う中で、子どもたちが可愛らしかった。右手に川の瀬音を聞きながら、左手に山鳥の声がする。そして、シャクナゲが色を添えていた。 エベレスト 山より貴き 子の笑顔 高い吊り橋を渡ると、標高差600mのきつい坂があり、なかなか目的地に着かない。「前に向かって進めば、そのうち着きますから」と、稲村道子さん。この方は、ディディ(おねえさん)という愛称で、地元の人にも親しまれている、ベテランの案内人である。 午後3時45分、合計7時間の歩きで、この日の目的地、標高3500mのナムチェバザールに到着した。 黄金の雲たなびく 4月28日、朝4時起床。4時半、夜明け前の山路を、久保一之さんを伴って、博物館のあるゾリカンの丘へ登る。ここからは、エベレストが望めるのである。4時50分、丘に到着。 満月が、ナムチェをはさんでエベレストの逆側にある標高6187mのコンデリの上に煌々と輝いていた。東に見えるタムセルクには、明るい星が輝いている。 コンデリに かかる満月 四時の山 かすかな明かりの中、方便品、寿量品自我偈の勤行を2回行った。
1回目は、雄一郎さん一行の無事故、大成功と、妻茂子の健康と家族の健勝を祈り、2回目は、SGI(創価学会インタナショナル)の推進する平和の仏法哲学が、世界に広まりますようにと祈った。 ネパールに生まれた釈尊は、このヒマラヤを見て育ち、法華経を説いた。その法華経は、鳩摩羅什によって漢訳され、天台、そして日本の伝教、さらに日蓮大聖人と伝わって、それぞれの時代の法華経が説かれていった。ならば、現代の仏法者である池田先生のもとに、現代の法華経が残されるべきではないか。 このことは、2年前の雄一郎さんと行った南極の旅から意識し始めるようになった。 私は、この南極の旅に、植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(全2冊 岩波書店)を持参した。訳者は社会人になってから夜学でインドの古代語サンスクリットを習得した人で、2008年度の毎日出版文化賞(企画部門)を受賞した労作である。その中で、法華経のサンスクリット名「サッダルマ・プンダリーカ」のプンダリーカを「この世のもので最高のもの」と訳されていたことに、感銘を受けたことを思い出す。そして、南極に向かう難所、ドレーク海峡の荒れ狂う波に翻弄されつつ、船中で「日蓮大聖人当時に限りなく近く、同時に現代人が自らのものとして読める法華経の現代語訳」の必要性を頭に描くようになったのである。 南極の旅から帰って、私はさっそく同志に呼びかけ、その作業に着手した。そうすると、思ってもみなかった貴重な文献や知識を、広野さんの人脈等から得られたのであるが、これは別に詳述する このような思いが去来する中、釈尊も祈ったであろうヒマラヤの山々に向かって祈っていると、「そうだ、池田先生の法華経は、弟子の手で、自分が編めばいいのだ」と、気づくにいたった。 そのとき、夜明けを迎えたエベレストの頂から、東に向かって黄金色の雲が広がった。 本願の 決意讃えて 金の雲 5時33分、日の出。ローツェ(標高8516m)やタボチェ(標高6367m)、クンビラなど、エベレストの周囲に見える山々も、光を受けて輝き出した。 ローツェが 側で輝く 金の山 さわやかな空気のなか、1時間ほど過ごして宿舎に戻り、7時半、朝食。 シェルパ博物館 8時半過ぎ、宿舎を出て、ナムチェバザールのシェルパの博物館や診療所を訪問し、地元の人々との交流を深めた。 特に、ベースキャンプからエベレスト頂上までの最速記録は、2004年5月21日、ペンドルジ・シェルパ、当時26歳が樹立した8時間10分ということには驚いた。三浦隊が7日間をかけて登ろうとしているのと比べれば、とんでもない速さである。 その他、エベレスト最多登頂記録では、2011年5月11日に達成した、アッパ・シェルパ、当時51歳の21回がある(2013年5月23日にラッセル隊のサーダー、プルバ・タシも21回目の登頂を果たして並んだ)。なお、日本人では、2012年5月19日に村口徳行氏が55歳で7度目の登頂を果たしている。また、それに次いで今回の三浦隊には倉岡裕之氏、51歳がおり、雄一郎さんらとともに5月23日に登頂を果たし、通算6度となった。 これらシェルパの多くは、エベレストのあるクーンブ山域の西隣にあるロールワリンという深い谷の出身で、ルクラで最初に入ってお茶を飲んだロッジを経営するナワヨンデンさんも、この谷の村の出身であるという。 ナムチェからロールワリン谷は遠く、まず1日かけてターメ(3820m)、2日目はテシラプツァの峠(5755m)を越え、3日目に氷河上を歩いてチュギマ(4600m)を経て、4日目に到着できるとのこと。 遠征隊やトレッキングのガイドの仕事で成功したシェルパたちは、子どもの教育のためにロールワリンの村を出て、多くはカトマンズに居を構えており、村の人口は500人程度しかないとのことであった。 山里の診療所 続いて訪れたのが、ナムチェ・ヘルス・クリニックで、ヒマラヤの医療状況を聞いた。 院長は、ヤンジィ・シェルパという女医さんで、中国の青島(チンタオ)で医学博士号を取得したとのこと。診療所は、この院長のもと6人のスタッフで機能させていて、1日平均4人程度の患者数とのことであった。 診療費は、地元民の場合は100ルピー(日本円で約100円)、外国からのトレッキング客の場合は50ドル(約5000円)で、50倍の差がつけられている。シェルパの人々の貧しさ、生活水準の差の大きさが、これでわかる。 道端に、ティミメドというアイリスの一種が美しく咲いていた。毒を持っているため、牛も食べようとしないから、無防備でも生きていけるという。 山の上 ナムチェの病院 女医はげみ |