平成26年7月30日
川上和行氏通夜 平成26年7月30日18:00 謹んで川上和行君の追悼の辞を申し上げます。 それ以来54年間、自他ともに認める親友として人生を一緒に生きてきました。 修道学園(中学・高校)は、元は広島の浅野藩の藩校「講学所」(設立1725年〔享保10〕)で、300年近くの歴史を有する伝統校です。6年間、男子のみの学生生活でありました。そのなかで、よく遊び、一緒によく学びました。 川上、お前は、バスケットボールのキャプテンとして、5番をつけてグランドを走りまわっていたね。僕は、書道部と弓道部のキャプテンとして、一緒に学園生活を送りました。 お前のところには、たくさんの女子高校生からラブレターがきてて、俺には1通もこなくて「なんで、どうして」と、お前に文句をぶつけていたことを思い出します。 なんといっても川上、修道での一番のお前との思い出は、生徒会長になってくれたことです。 私たちの修道学園は進学校で、大学への進学も生徒の重要な役割でしたから、成績は、1番からビリまで全員一覧表にして貼り出されます。 これまでの慣例としては、成績1番か2番が生徒会長になるという不文律がありました。 私たちはそれはおかしいと、生徒会長たるものやはり皆の為にあるべきだということで、川上に、「生徒会長は頭じゃない、足腰だ。だからお前やってくれ」と頼みました。 そうしたら、「そうゆう馬鹿な頼み方があるか」と怒りつつも「俺は声がでかいからグランドに並んだ時に後ろまで声が届くかもしらんからな。わかった。引き受けよう」と言って、生徒会長になってくれました。 2人立候補していた者も辞退し、川上君の生徒会長が誕生しました。 以来、君は、われわれ修道19期の生徒会長なのです。
川上は日大の建築に進みました。私は、中大の法学部に進みました。 川上、お前は、杉並の西荻の南口で、善福寺公園の近くに下宿をし、今日来ている明渡君が同じ駅の北口で、よく彼の所に遊びに行っていましたね。 その日大の時の同級生が、史子(ふみこ)さんです。今の川上夫人です。知り合って熱烈に求婚、結婚しました。 今回の川上の菩提寺が、麻布善福寺になったのも、きっとその史子さんとの学生時代の思い出の善福寺という名前が脳裏にあったのかもしれませんね。 お前は卒業して、ゼネコンの五洋建設株式会社、英語名ペンタオーシャン(Penta-Ocean Construction Co., Ltd.)に入社しました。 東南アジアの発展に尽力し、土木中心だった五洋の建築部門を、土木と互角にするまで育てあげ、代表取締役副社長にまでなりました。 私が忘れないのは、2000年に私がそれまで勤めいていた創価学会の本部を辞して、自分で循環社会研究所という会社を始めたときのことです。 たった1人で太平洋に漕ぎ出したような気持ちだった時に、川上は「わかった」、何も言わないで、遠藤さん、笹本さんという、2人の五洋建設の社員を私の会社に出向させてくれました。 さらに金がないこともわかっていたのでしょう。使わなくなった五洋建設の机や椅子を、笹本さんに言って、全部運んでくれました。これでスタートしろと。 俺はその時、涙が出るほど嬉しかった。この恩返しは必ずすると、誓ったのでした。 2010年になって、夏7月、川上はこれまでお世話になった五洋建設を辞めて独立すると、私のところに相談に来ました。私は、はなむけの言葉として、諸葛孔明の言葉を送りました。 「淡泊以明志、寧静以致遠」 利益をあくどく追求しないで淡泊であることによって、自分の心を明るくし、理想に生きることができる。また、常に心安らかに本質を見ることによって、遠大な目標も達成することができるとの意であります。54歳の諸葛孔明が、8歳の息子に送った言葉です。 「淡泊もって明志、寧静もって到遠」 この「明志」という、心明るくなるということを、彼は大変、気に入ってくれました。 「心明るく、こころざし明るくというのは竹岡、俺の今の気持ちと一緒なんだ。よくこの言葉を俺に送ってくれた。この明るいこころざし、明志というのを会社の名前につけたい。これを俺にくれないか」ということで、彼は独立した時の会社を株式会社「明志」としました。 今、祭壇に飾られている彼の戒名が「明覚院」とあります。「明るい」という言葉が好きだった川上君もきっと「そうだ!」と満足をしていることでしょう。 それから年が明けて、2011年になった頃でしょうか、春ごろから「実は明治27年創業の松村組という会社があるんだ。一度、民事再生をうけて瀕死の状態の会社だけど、でも、それを俺は引き受けようと思うんだ。300人社員がいるんだ。今はろくに給料も払えてないけれども、俺はこれを引き受けようと思うんだ」、こう言って来ました。 都合10回位、このことで相談したでしょうか。 時あたかも民主党政権で、「コンクリートから人へ」という、とんでもないスローガンのもとに建築業界は真冬の時でした。川上は「それでも俺はやりたい」と言い、さらに、こう言っていました。 「『人員整理をして身軽にして始めろ』という意見もいっぱいあるが、俺は1人もクビにしないんだ。俺は、五洋で働いていた時にリストラ担当になったことがあるんだ。そうすると、その対象の家族から手紙が来るんだよ。そのつらさはなあ、本当に身を切られるような思いなんだ」 その崇高な意気を、私は、強く感じました。 「川上、きっとお前の心はわかってくれるよ」「一緒に社員の心に火を灯そうよ」、そう言って、2人で決意を固めたことが、3年半前のことでした。 初めて高田馬場にある松村組の本社を訪ねて、私はびっくりしました。 部屋に入っても、社員は1人も迎えに立つことなく、(これが新しく来た社長〔川上〕の同級生か)と、品定めするような視線で、まるで敵陣の中に入っていくようでした。 「あー、川上も、大変なところに来てしまったなあ」と、思わずつぶやく自分がいました。 そんな、真冬のような松村組でした。 あるとき、彼から「単なるゼネコンではなくて、何かシンクタンクとしていいものはないか」という相談を受けたので、私は「これからは再生可能エネルギーだ。太陽光発電を中心にした再生可能エネルギーの会社を作ろう」と、提案。「サンエルガ」という会社を一緒に作りました。 君は口癖のように「エネルギーと水と食料がこれからのカギだ」と、言っていましたね。 川上君、君と最後に会って別れたのは、ミャンマーのマンダレーだったね。7月11日だった。 マンダレーの管区総理の公邸で、あなたと握手して別れるとき、川上君は「後は宜しく頼むな。俺は先に行ってるから、後は頼むな。万事頼むな」と言って、握手を返しました。 その手のぬくもりが、最後でした。 今になって思えば、今日の事を予感していたのでしょうか。。 実は、7月15日が松村組の創立記念日なので、その準備のために、彼は先にミャンマーから帰らなくてはならなくなり、ほんとは一緒に次の訪問地、カンボジアまで行きたかったのですけれども、ミャンマーのマンダレーで別れたのでした。 本当に、彼は、今日の事を予感していたのかもしれません。 それからな、俺には後継指名したいのがいるから。川本というんだ。 という意味でも、お前のところのクリニック(メディカル・サーバント)に川本を、まぁ川本さんを、メンバーでお願いしたんだ」と、遺言のような言葉を、私に向かって話していたのです。 また、「自分のマンションから多摩川が見えてな、富士山が見えるんだ。そのマンションに、娘の朋子と尚子の部屋も確保しているんだ。いい婿さん2人と、5人の孫に囲まれて、幸せなんだ」 私は「後は頼む」「俺は先にいく」というのが、私への別れの言葉だったのかなと、今になって思えてきます。 川本さん、どうか社員仲良く、川上の人柄のおかげで今日の松村組があります。 たとえば、今日は福岡から、福岡運輸の島田会長が、お越しになっておられます。福岡銀行の谷頭取も参列下さっています。 これは、ひとえに川上の人格・人柄によるものです。そう思って、いわば川上和行という看板があって、今日の松村組の再生ができたということを、夢にも忘れないで、社員仲良く、オリンピック目指して頑張ってください。 彼はさらに、同じ10日の夜、「オリンピックまでには、苦しい時にお金を出くださった今の株主の人たちにも報いたい。社員の人にも報いたい」、そうも言っておりました。 どうか、全社員一丸となって団結して、川上の遺志を継いでください。いわば、川上は、松村組の第2の創業者であるといえるのです。 また史子さん、家族をどうか、2人の娘さんと2人のお婿さんと5人のお孫さんを、どうかフミコさんが中心になってしっかりと育てて下さいと、お願いしたいと思います。 一家和楽で仲良く生きていってください。何かあったらいつでも修道19期に、言ってきてください。われわれは、川上の分まで生きていきます。 ある意味では、君は、絶頂の時に逝ったのかもしれませんね。 不謹慎な話かもしれないけれども、その日、7月26日、彼は、ゴルフ場で、一番好きなゴルフ場で亡くなりました。ボギー、ボギー、パーという最後のゴルフは、ロングホールのパーファイブをパーであがって、そのまま逝きました。安らかな顔でした。 翌27日に、彼を成田から自宅まで送り届けて、多摩川の見える彼の部屋に横にしました。そして、頭の下に枕を入れるために頭をちょっと持ち上げたところ、驚いたのですが、奥様と娘さん2人も私も、「あー笑った」と、そろって口を衝いて出るほど、彼の顔が、それくらい穏やかで素晴らしい笑顔になりました。 ミャンマーのマンダレーで、川上が、われわれと別れて先に帰国することになったのは、松村組の創立記念日のためでしたが、それは会社の創業120周年(1894年創業)という特別な記念日でした。 彼は、その120周年を非常に大切に考えており、意味のある記念事業を捜しておりました。 それを聞いて私が提案し、決まったのが、今日ここにお越しいただいていると思いますが、福岡の新日本製薬株式会社の後藤孝洋社長のところで自家栽培に成功した、甘草(カンゾウ)という漢方の薬草の有効活用事業でした。 ミャンマーに行ったのも、その新日本製薬と北海道江別市にある酪農学園大学と、私のところのT&Yとを結んだ共同研究での記念事業となって、その試験移植栽培地の視察のためでした。 ここにも来られていますが、花見雅裕さんという一緒にミャンマーまで行った日本経営道協会の若手の方がいます。その新事業を担うために、ぜひ松村組で働いてほしいということで、花見さんも、8月1日から移行されることになっています。 私は、この川上の遺志を無にすることなく、全力で川上の分まで生きてまいります。 12歳の時の小さな手の握手で始まり、66歳のマンダレーの握手で閉じた、今世の川上との人生。君と会えて本当に幸せだったよ。どうもありがとう。安らかに眠ってください。 皆様、今後とも松村組ならびに川上のご家族をよろしくと、お願い申し上げ、友人からの弔辞とさせていただきます。 |