平成26年7月24日
平成26年7月24日7:30~8:45 第2363回 丸の内朝飯会「大人の探検学校4」千代田区麹町 東京グリーンパレス
甘草の自家栽培に成功
7月8日(火)から14日(月)まで、ミャンマー各地とカンボジアのシェムリアップに行ってまいりました。
何故、ミャンマーに行ってきたかを、まずお話しいたします。
私が応援をしております会社で、本社が博多にある新日本製薬株式会社(代表取締役社長:後藤孝洋)では、所属の山口県岩国市にある薬用植物研究所において、このたび、甘草の自家栽培に日本で初めて成功し、現在、栽培技術の開発中です 。
甘草というのは、ほとんどあらゆる漢方薬の成分として使われている薬草で、漢方では最重要の薬草です。
もともと自然にしか生えていないもので、ロシア南部とか中国の乾燥地帯で、地下水脈めがけて深く伸びていく、その根っ子を薬草として使っておりまして、これまでは、ほぼ100パーセント、輸入でありました。
そういうわけで、産地から言っても、9割が中国からの輸入でありましたが、このところ中国は、環境保護等を理由に、レアメタルと同じく、どんどん値をつり上げてまいりまして、経営的にも大変に厳しい状況となっていたところの、このたびの朗報でした。
栽培地を捜して
しかし、その画期的ともいえる自家栽培に成功した甘草ですが、どこかで増やさなければ、ものの役に立ちません。
1つには、休耕地が日本にたくさんあって、そこにこの甘草栽培を広めていくことで、この問題に対処できます。これを実行すれば、日本の農業を救う一翼を担うものになるのではないかとも考えられています。
これまでは甘草といえば、輸入に頼って、それも根っ子だけの輸入でしたから、葉を利用することはありませんでしたが、日本で栽培できることになれば、葉の活用もできるようになります。
ということで、甘草の葉を活用する、その研究も始まっています。
友好国ミャンマー援助の柱として
さらに、栽培地を日本だけでなく、日本と友好関係にある海外の開発途上国に移築すると、その国の底上げにもなることが期待されます。具体的には、その国の貧困に苦しむ地方農村部の雇用創出、所得向上、現地の『保健医療』の改善等に貢献できることが見込まれるのです。
そこで、甘草を移植して育てるのに相応しい海外の場所を捜すうちに、ミャンマーがそれに相応しいと考えられるようになりました。
新日本製薬の栽培する甘草は、ただ育てばいいというものではなくて、それらが薬効成分を備えたものでなくては意味がありませんから、そのための品質管理、さらには、それを育てられる人材の育成と、重要な3点がなされなくてはなりません。それには、育苗施設、耕作機材、加工施設に、研究・分析施設等の整備が必要で、資金が掛かる事業です。現在、新日本製薬としては、ミャンマーの各地で、どの程度甘草が育成するのかを調査しているところです。
当事者の支持を得るために
そのためには、まず、現地の人々が、それをやりたいとの要望があることが必要です。
この事業を考えているのは、ミャンマーでも内陸のマンダレーという地方ですが、そこは、かつて、王朝時代の都があったところであり、先の大戦においてイギリス軍のインド東部の拠点であったインパール攻略を目指した、いわゆるインパール作戦の激戦地であって、たくさんの日本兵が命を落とされた地域です。
国の農業大臣とか大統領はもちろんのこと、その管区の当局者に、薬草の効用のほか、どれほどその土地にとって意味あるものであるか、説明・説得をし、支持を得ることが、今回の私どもの目的でありました。
持続的雇用創出
試算では、12,000haの面積をもつプランテーション1箇所につき、2年間に雇用が約1万人創出されて、現状、年収が4~5万円のところ、30万円にまで上げられるとなります。
橋や道路や箱物を造ることも大事ですが、雇用はそのときだけであるのに対して、この事業の場合は、売り上げが持続的に見込まれます。それに、甘草自体、ミャンマーは、これまでインドや中国から輸入しており、自前で栽培できるようになれば、外貨準備高の問題において多大な寄与ができることにもなります。
以上のような説明を申し上げましたところ、日本の駐ミャンマー全権大使も、農業大臣も、現地マンダレーの州知事も、これは大変すばらしいと評価してくださり、ミャンマーに対するものでも、さまざまな案件や援助の話があるなかで、非常に興味深いと、関心をよせていただきました。
訪問までの経緯と団の構成
私が、ミャンマーに日本の甘草のプランテーションを移築するという、このミッションに関わるようになったのは、そもそも私のライフワークの1つである健康増進の一環として、新日本製薬の漢方の事業を、これまで私なりに応援してまいったことに原点があります。
薬剤といえば、化学薬品を使った薬がたくさん出回っていますが、それらは往々にして体のほかの部位を徐々に痛めつけてしまう傾向があります。そうであるならば、自然由来の漢方をなるべく用いた方が良いという観点から、日本でのその薬草の栽培には重大な使命があると思われて、その経緯からの私の関与でありました。
折よく九州選出の山本幸三衆議院議員がミャンマーへの訪問を検討しているところでしたので、ご相談したところ「私は常々、日本とミャンマーのより一層の友好を図るには定期的な議員連盟同志の会合を持つことが重要だと考えていましたから、その議員連盟に民間の皆さんも同行する形が良いでしょう」となったのです。山本議員は日本・ミャンマー友好議員連盟の幹事長で、会長は逢沢一郎衆議院議員(自民党 岡山1区)ですが、会長以下、11名の連盟所属議員での訪問となりました。
私は、それに随行する民間経営者を組織して、民間経営者31名の取りまとめ役、秘書長として行ってまいりました。そのメンバーは、新日本製薬の後藤孝洋社長をはじめ、和田隆志(政策研究大学大学院客員研究員〔前衆議院議員〕)、川上和行(株式会社松村組代表取締役社長)、内藤貴明(シーコム・ハクホー株式会社常務取締役)、花見雅裕(日本経営道協会プロジェクトマネジャー)といった方々です。このなかで、川上和行氏は、私の出身地、広島の修道中・高時代の同級生で、先ほどお話しした、甘草の葉の活用研究を、社長として株式会社松村組の創立120周年事業として位置づけた人です〈*注1〉。花見雅裕氏も、8月1日付けで松村組の一員となって、この研究事業に参画する予定です。
民政への動きを機に大規模開発が加速
ミャンマーは、歴史的な経緯もあって、ご存知のように、伝統的に親日国であり、ちょうど今年、2014年は、両国の外交関係樹立60周年にあたります。
現状は、2010年11月に民主化の象徴であるアウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁が解除されるなど、近年、軍政から民政に移管する兆しが見えたということで、アメリカなど欧米諸国が制裁を緩めましたので、日本としても前の首都で最大都市であるヤンゴンの南東23kmにあるティラワに焦点を当てて、そこに設置した経済特区を中心に、ミャンマーの開発を大規模に応援しようとの動きになっております。
ティラワ経済特区は、総面積約2,400haで、山手線内の約40%におよぶ広大さで、そこに港湾施設など、高度なインフラを備えた工業団地の開発を進めようとするものです。
中国の台頭への反応
地政学的に言いますと、ミャンマーは、インドから東南アジアへの入口であると同時に、中国からインド洋への出口であって、特に中国は、大変な額の投資をミャンマーにして、雲南省からマンダレー北部を通って、インド洋のベンガル湾に面するシットウェーに抜ける道路を建設して、中国の一大拠点を作ろうと画策しております。そのほかにも、天然ガスは東南アジアで第3位くらいの埋蔵量を持っていますから、それを中国に送るパイプラインの建設など、大規模に進めています。
〈写真1中国パイプライン視察〉
その中国の動きは、実は、ミャンマーでは問題視されています。たとえば、北部に大規模ダムを計画して大工事を始めたのですが、その労働力にミャンマーの労働者を雇用せず、中国からの30万人を投入して進めている。しかも、そのダムによって生み出される電力の9割を中国がもらうという約束を、前の副大統領との間にしておりまして、現政権となって、主に国の北部から反発が生じているということです。北部出身の女性議員とわれわれも会ってきましたが、大変に怒っておりました。「中国のやり方は、金でひっぱたいて、住んでいる人の土地を奪って、働く人は自国から連れて来て、出来た電力を全部持って行く」「国土を壊し、住むところを壊し、とんでもない」と。
これには、危険で過酷なダム建設を、熟練していないミャンマーの人々にまかせられないといった言い分が、中国側にはそれなりにあるのかもしれませんが、いずれにしても、中国は、ありがた迷惑な存在と、ミャンマーの人々に思われ出しているようです。
さらに続けて「それに対して、日本は、非常にきめ細かく考えてくれるので、いい。是非、日本と組みたい」と、その女性議員と意気投合して話を結んだのですが、そういう中国との状況があるなかで、日本が巻き返そうというのが、今の現状です。
ミャンマーの国力と国民性
ミャンマーの正式国名は、ミャンマー連邦共和国で、大統領制です。その国力は、先ほど触れましたように、天然ガスがあって資源に恵まれ、2012年の統計では、GDPは約540億ドルで、ASEAN(東南アジア諸国連合)では第7位、IMFの推計では年5パーセントの成長率です。日本の約1.8倍の面積(約68万?)に6,370万人の人口があって、70%はビルマ族、その他は、カチン族、カレン族、ラカイン族など、135の少数民族よりなっておりますが、9割が仏教徒で、仏教に対しては敬虔なものがあります。あらゆるところにパゴダという仏塔のそびえる寺院があって、仏教関連の遺跡もたくさんあります。
街中を歩くと、女性や子どもが、ほっぺたを白く塗っているのが特徴的ですが、これはタナカというもので、その名もタナカの木をすりつぶして粉状にしたものを塗っているそうです。これで、強い日差しから肌を護っているとのことでした。お土産に女房に買って帰りましたら、「何よ、これ」と、最初は言われましたが、実際に付けてみたら、サラサラして気持ちがいいということで、「あなたが買ってきたなかで、久々にいい」と褒められました。
現在の在留邦人数は約900人、891人(2013年10月現在)となっています。
新首都ネピドー
首都は、長い間、海に近いヤンゴンでしたが、今はずっと北の内陸部、地図で見るとインレー湖の西、ネピドーに移っています。
ネピドーには、今回、行きましたが、見る限り何もないところに首都を造って、片側10車線の大通りが造られていましたが、交通量はほとんどありません。
〈写真2首都の片道10車線道路〉
何故、そのような広い道を造ったのか、説がいろいろあるようで、いざというときに飛行機の滑走路として使えるようにするためだとか、首都を何故こんなところに移したのかについても、占い師の託宣に従ったのだとか、様々あるようですが、現地での直観で申し上げると、新しい国造りの象徴として、国土のちょうど中央に位置するこの地が選ばれたということではないか、それと、インド洋に近いヤンゴンだと、他国(アメリカなど)に攻められたときに、政府機能が護りきれない、防衛を考えた結果であろうということが見受けられました。
その観点から見ると、10車線の道路の奥に、砦のような、宮殿のような建物があって、私は仏教徒ですから、それは寺院や神殿のように見えたのですが、これは御神殿に向かう参道だなと感じられました。国民の精神的な拠り所を造ろうとしたのだということです。
参道を造って、御神殿を造って、それを堀で囲って、農水省とか内閣府とか保健省とか、各建物が、それぞれ、車で15~20分走らないと着けないほど距離を置いて分散して建てられています。われわれを乗せたバスの運転手さえ迷ってしまうような、わかりにくさでした。攻め込まれにくい内陸に造った上に、たとえ攻め込まれたとしても、攻撃目標が分散していて容易に落とせない造りになっているのです。
新しい国の精神の要であるとともに、防衛上の拠点として造られたのが、ネピドーであるということです。
有力者キン・シュエ氏
次に、旅は、どういった行程であったかをお話しいたします。
7月8日(火)、成田からヤンゴンに、全日空の直行便が出ていまして、15時40分に到着予定でしたが、機材の故障とのことで、機内待機となってしまいました。中に議員がたくさん乗っていることで、全日空のスタッフもピリピリしていましたが、結局、出発が3時間遅れとなり、初日の予定を変更せざるを得ず、進出企業であるトヨタの工場の視察等を取り止めまして、いきなりこの日のメインであるミャンマー側の有力者、上院(民族代表院)議員キン・シュエ氏の経営する湖上レストラン「カラウェイ」での歓迎晩餐会に参加となりました。
キン・シュエ氏というのは、恰幅のいい人ですが、もともと実業家で、土地、建物、ゼネコン、レストラン、ホテル等を手がけるミャンマー1の財閥を仕切る人物です。2011年の11月に上院議員に当選して、今は上院のミャンマー日本友好議員連盟の会長です。
この晩餐の席で、私は、ミャンマーにおいては誰が実力者か、わかりました。大臣であっても、それほど実力者ではありません。彼らは軍出身者であって、一定の経歴を経れば大臣に就任できるようになっており、2年ぐらいで次の人に譲るようになっていますから、よっぽどしっかりしたコネを持つ人は別ですが、ほとんどが、いわば名誉職というのが実態のようです。
それに対して、この人物は、上院議員になって3年経たないにもかかわらず、その大臣連中を、見ていると、思うままに動かしています。会議の席でも、この人が指示すると、大臣がうなずくといった感じでありました。
ともかく、このキン・シュエ氏が、今回のミャンマー側の受入れ責任者で、この晩餐会には、日本の大使、公使をはじめとする大使館の総員、JICA(国際協力機構)、JETRO(日本貿易振興機構)、それと、今回のプロジェクトはJICAの予算(「協力準備調査〔BOPビジネス連携促進〕」の「薬用植物生産・加工を通じた日本の伝統漢方薬普及事業準備調査」〔平成25年9月13日公示分〕)を使って、現地に進出している日本工営株式会社(代表取締役社長:廣瀬典昭)と組んで行っていますので、この日本工営の関係者、それに、コンサルティングの方、通訳、さらには、ミャンマーにライオンズクラブを作りたいということで博多から参加された方、それに現地の方々と、たくさんの参加者でありました。当初は、日本大使館での晩餐会を予定しておりましたが、参加者が多くて入り切らないということで、キン・シュエ氏のレストランを会場に、ミャンマー側によるウェルカム・パーティということになりました。
ネピドーにて議員間交流
次の日(7月9日〔水〕)は、朝一番の飛行機でネピドーに向かい、約1時間で着きました。ここの主な行事は、連邦議会の建物での両国議員による交流会でした。
〈写真3日本ミャンマー議員交流会〉
ミャンマー側からは上下両院の47名の議員が出席されました。日本側の11人の議員といろいろなテーマで話をしたのですが、驚いたことに、ミャンマー側は野党の議員も含まれていました。そこには、アウン・サン・スー・チー女史の派(NLD、国民民主連盟)の議員も来ていたし、たしかに自由になったと、実感できました。スー・チー女史の派の議員の方をつかまえて、通訳をとおして話を聞きましたら、今は、大統領を批判しようが、軍政の批判をしようと、一切とがめられないとのことでした。「何を言っても自由になりました。大変いいことです」と。
ただ、いまだに、議員定数の4分の1は軍から議員を出すとか、子どもが外国籍であったら大統領になれないとか、憲法に規定があって、この外国籍の規定は、スー・チー女史の大統領就任を阻止することを狙ってのものですが、これらがあるかぎり、スー・チー女史の大統領就任は実現しないのですが、かつてに比べれば、ここ数年で大変に自由になったと、野党議員も喜んでおりました。
見たところ、現政権とスー・チー派は裏で話し合って、国の未来のために、しっかり手を結んでいるという感じがしました。望ましい具合に進んでいるなという印象を持ちました。
続いて、同じ建物内で、下院(国民代表院)議長のトゥラ・ショエ・マン氏を訪問しまして、この人は今後を握るキーマンの1人で、次期大統領候補に一番近いと目される人物ですが、その会見場の見事なことには、本当に驚かされました。天井が高くて、すばらしく大きな絵が掛かっていて、私もいろいろな迎賓館や会見場を見てきましたが、その中でも世界一ではないかと思えるほどの広さと高さと荘厳さがありました。ミャンマーの国造りの象徴として作られたのだと、感じさせられる議会の建物でした。
この日は、最初に、連邦議会を傍聴しました。
〈写真4ミャンマー連邦議会〉
議会の構成は、国民代表院という下院が440名、民族代表院という上院が224名ですが、先ほども申し上げましたが、各定数の4分の1は軍人から国軍司令官が指名することになっていて、両院あわせた軍人議員が166名います。通常、下院の議会があったり、上院の議会があるのですが、われわれが行ったときは、運良くというか、両院議員による連邦議会が開かれておりました。2階の傍聴席から見ると、800人ぐらいが入る議場は4つの区画に分かれていて、議長に向かって左側の区画が、全部褐色の軍服で埋められていました。見たとたんに、4分の1は軍人だと、すぐ分かりました。
その連邦議会の中心には、さっきのトゥラ・ショエ・マン議長が座っていて、たぶん、スー・チー女史のNLDと思われる野党の女性議員が予算の使い途に対する質問をして、それに対して、財務大臣が答えていると、そんな場面を傍聴いたしました。
そして、夜は、ミャンマー側の招待による会食会がありました。
この席では、大変に盛り上がって、最後は皆、壇上に上がって踊っていましたが、われわれは、特に、北部選出の女性議員と、じっくり話しまして、野党の人々の考えなどを知ることができました。
また、与党の人たちが野党の議員を席に呼んで、分け隔てなく話し合っている場面を目にしまして、ミャンマーの民主化は、本物だなと実感することができました。
農業大臣との会見
3日目(7月10日〔木〕)は、大統領府で、テイン・セイン大統領との面談でした。これは、議員だけであり、代表3人だけとの会談でした。ほかに、国家計画大臣、農業大臣、外務大臣との面談があって、農業大臣との会見は、私ども薬草の関係者が全員参加しまして、新日本製薬の後藤社長から、いかにこの事業がミャンマーに末永く富をもたらすかを説明するとともに、甘草に限らず、日本式の農業の移転も今後させていただきたいと、提案いたしました。
その話に、農業大臣も喜ばれて、「場所はどこか」と問われるので、「マンダレーです」と答えると、「明日、あなた方が行くのなら、部下を同行させるから、局長にその現場を見せてやってくれ」と、大変、関心をお持ちになられました。
話の中で、日本から薬草の苗を持ち込むときに、税関や検疫で、たびたび止められて困っていると伝えると、すぐさま「わかった。それは解決しよう」と、手を打つことを約束してくださいました。
また、この席では、サツマイモがお茶菓子に出されたのですが、私が「美味しい、美味しい」と言って食べたのを、「よく褒めてくれた」と喜ばれて、「持って行きなさい」と、そのサツマイモを帰りに5、6個いただきました。
これら農業大臣とのやり取りから、ミャンマー側は、われわれの事業に非常に期待していただいていると思いました。
これまで、ミャンマーの方数人を岩国に呼んで、作り方や農業の考え方を教育をしてマンダレーに帰しましたが、その後は、生育具合が断然良くなりました。その経験から、ほかの作物でも、きめ細かな日本式の農法を導入すれば、これまでもミャンマーは米の輸出国で農業国ですが、もっと農業が盛んな国になっていけるのではないかと思われます。
さらに、日本の農業人口が著しく減少している現状において、親日国であるミャンマーから農業青年を、規制緩和で5年間に延長された研修制度等を利用して受入れて、日本の農村で働きつつ技術を習得してもらった方がいいのではないか。その際、研修生としての給料も十分に手当てすれば、その稼ぎが母国の家族の援けにもなります。
そのように、両国の農業分野の人材交流の意義は大きいことも後藤社長から話しましたところ、農業大臣は「歓迎する」と、非常にいい会談となりました。
その夜は、今度は日本側が招待する答礼宴を、われわれの宿泊するホテルで行いました。
マンダレー、農場視察と管区総理との面談
4日目の7月11日(金)、議員団はヤンゴン経由で帰国の途に就き、民間のグループとしてのわれわれ薬草グループは、農業大臣との会談で話題にしたマンダレーに車で移動しました。
マンダレーでは、実際に甘草を試験的に栽培している現地製薬会社FAME社のオーガニック・ファームを視察いたしました。
〈写真5甘草生育視察〉
その後、マンダレーの管区総理ウイン・フラン氏と面談しました。
〈写真6マンダレー管区総理と〉
この方も大変熱心で、細かな数字をたずねられました。1キログラムいくらになるのか、他の作物に比べてどのくらい有利なのか、1人の人を食わせるのに、どのくらいの面積の作付けが必要なのか等々と、具体的な質問を寄せられたのは、今回では、この管区総理が初めてでした。「これは、本気だな」と、感じました。
〈写真7マンダレー管区総理と後藤社長〉
マンダレーは、エーヤワディ川から取水する水道供給事業を、北九州市の支援を受けて進めているということで、8月に管区総理が北九州を訪問するから、そのときには是非、新日本製薬も訪問してくださいと頼みましたところ、こころよく「了解」となりました〈*注2〉。
マンダレーは、戒厳令下にあって夜間外出禁止令が発令中でありました。これは、管区内に暴動がイスラム教徒と仏教徒の間で起こっていまして、頻発する小競り合いを抑止するためということでした。そのために、夜9時までに家に帰らなければならないとかで、ホテルに着いてマッサージを頼もうとしたのですが、その理由で断られました。
現地で働いているJICAの方や北九州市の方も、夜9時までに自分の宿舎や家に戻れるように、8時過ぎには夜の会食を終えるようにいたしました。
現地に行って、平和な中にも厳しい面があることが、あらためて分かりました。
マンダレーの丘にて追悼
5日目、7月12日(土)は、午前中、マンダレーの丘というところに視察に行きました。
〈写真8マンダレーの丘〉
私は、そこに着いた途端に、涙がぽろぽろ出てきました。ここで、日本の方がたくさん亡くなったのだという思いと、こういうたくさんの犠牲のもとに今の日本の繁栄があるのだといった感慨が、心に浮かんで、私は涙を流しながら、仏教徒として、お題目を「南無妙法蓮華経」と唱えまして、「皆さんのおかげで、今の日本があります。ありがとうございます」と、哀悼と感謝の意を捧げました。
見ると、そこは、素晴らしい見晴らしで、エーヤワディ川でしょうか、大きな川が流れていまして、その川でも、大勢が亡くなったそうですが、農村地帯の風景が360度広がっていて、また訪れてみたいマンダレーの丘でありました。
希望小学校卒業式へ
薬草グループとして行動を共にした方々が、11日午後から12日午前にかけて、それぞれの都合に合わせて帰国されるなか、新日本製薬の後藤社長と私は、山本幸三議員をお誘いして、その日の午後、タイ・バンコク経由で、カンボジアのシェムリアップに、飛行機で入りました。
シェムリアップは、有名なアンコールワットのあるところですが、われわれの目的地は、はその近郊にあるモンドルバイ村の希望小学校でありました。それは、国際人権ネットワークの緒方由美子さんという1人の日本女性が建てた学校で、私たちはそこを十数年前から支援しておりまして、ここの卒業式があって、6人の生徒が卒業するということで、お祝いのための訪問でありました。
希望小学校は、同じく九州の辛子明太子製造販売大手の株式会社かねふくの竹内昌之会長も、長年、支援をされていまして、今回、山本議員をお誘いしたのも、このように、九州に縁のある方々が応援していることからでありました。今回の旅は、この卒業式の日程に合わせて、全体の日程の調整がうまくいったのです。
明けて7月13日(日)午前に行われた希望小学校の卒業式には、山本議員の働きかけで、初めて現地日本大使館から樋口義広公使が出席されました。大使にも声をかけたのですが、公務があって予定がつかず、公使の出席となったものです。
〈写真09-11希望小学校〉
いずれにしても。日本政府を代表する公式な要人の小学校への初訪問となったわけですが、出席された公使は、大変感心されておられました。こういった支援には、政府のODAの予算とか、外郭のお金を入れて運営しているのが普通であるのに、この場合は、1銭も公的資金を入れないで民間のお金だけで運営されている上に、十数年間、続けられている。しかも、制服を作り、校歌を作り、教師を雇いと、本腰を入れて運営されていると、そんな状況を知った公使は、「感動しました」と言われて、記事と写真で、式の様子と学校のことを、大使館のフェースブック(7月14日付)に載せてくださるなど、非常に反響を呼んでおります。
そして、以上の行程を終えて、その夜、シェムリアップ発のベトナム航空機でホーチミンに入り、全日空便に乗り継いで、14日(月)朝、成田に戻ってまいりました。
民主化の道のり
最後に、これからのミャンマーは、どうなるかを考えてみたいと思います。
これまでの経緯を振り返ると、1988年、全国的な民主化要求デモが起こり、26年間続いた社会主義政権が崩壊しました。
その後、国軍がデモを鎮圧し、政権を掌握し、総選挙が1990年に行われました。結果は、アウン・サン・スー・チー女史率いるNLD(国民民主連盟)の圧勝でありましたが、民政移管のためには憲法制定が必要であるとの理由で、政権委譲を行わなかったばかりか、1989年7月以来続くスー・チー女史の自宅軟禁処置を解かず、民主化を止めてしまいました。自宅軟禁は、その後も断続的に継続され、これに反発した欧米は、経済制裁を強めます。
そのなかで、スー・チー女史は、民主化要求をさまざまなメディアを通じて発信し続け、91年には、ノーベル平和賞を受賞しています。
その後、18年の時を経て、2008年に、国民投票により75%の得票率を得て新憲法が採択され、その新憲法に基づき、2010年11月に、20年ぶりの総選挙が平穏のうちに実施されます。
その選挙では、スー・チー女史のNLDは、憲法上の制約もあって参加しなかったことから、政権側の圧勝する形となりました。
テイン・セイン大統領誕生が転機に
その後、2011年3月に、形ばかりですが、民政移管した新政府が発足され、今のテイン・セイン大統領が誕生します。「このままではいけない」との危機感を持っていたテイン・セイン氏は、ここで、民主化を定着させる方向に大きく舵を切ります。
そして行われた、2012年4月の補欠選挙では、スー・チー女史の立候補が認められ、全45選挙区中、女史を含む43選挙区でNLDが議席を獲得するという結果となって、NLDが圧勝。スー・チー女史は、現在、下院議員であり、議会の法の支配・平和安定委員会委員長として活躍しているということです。先ほどご報告した通り、今は、スー・チー女史もNLD所属議員も、議会やその他において、政府批判も含めて自由に発言し、活動できています。同時に、マスコミも、自由に発言できるようになり、ミャンマーにとって画期的な時代を迎えております。
ところで、テイン・セイン大統領は、心臓に疾患をかかえているといわれていて、次期大統領選挙には出ないのではないかと見られています。ただ、現在、健康を回復しており、やはり出られるという観測もあります。
テイン・セイン氏は、2012年8月に、「スー・チー氏との立場の違いは脇に置いておいて、共通するところを基盤に、国づくりに協力していく」と明確に発言していまして、両者の直接対話も何回か行われています。
スー・チー女史は、2011年11月の自宅軟禁解除以来、世界中を飛び回って、これまで、タイ、ヨーロッパ各国、アメリカ、インド、韓国などを訪問。日本にも、2013年4月13日~19日にやって来て、安倍総理や岸田文雄外務大臣らと会談しています。その訪日の際、予定されている来年、2015年の総選挙までに、立候補用件を制限している「憲法の改正を目指す」と宣言した上で、「民衆が望むなら大統領に就任する用意がある」と明言しています。
以上の経過から、現状は、あるいは私の見た感じからも、2011年3月のテイン・セイン政権の成立が転機となって、民主化、法の支配、国民和解、経済改革などの諸改革が実行に移され、今後、様々な前向きな取り組みを進めるだろうとの明るい見通しが立つようになっております。
憲法問題
民主化を阻む一番の問題は、憲法の規定にあります。憲法改正には、各院で4分の3以上の賛成が必要となっていまして、今は自動的に4分の1が軍人となっていますから、事実上、軍の同意がなくてはできないことになっています。
憲法に規定されている大統領になれる資格を1つずつ見ていくと、1つ目は、20年以上ミャンマーに居住していることですが、スー・チー女史は25年間居住していますから大丈夫です。2つ目の45歳以上であることも、現在69歳のスー・チー女史はクリアしています。
続いて、政治、行政、軍事についての見識があることですが、スー・チー女史は、このうちの軍事知識に欠けるという意見もありますが、お父さんはアウンサン将軍であって、大軍人で国の英雄ですから、これも問題ないのではないかと言われています。
一番の問題は「本人、配偶者、両親、子供、子供の配偶者が、いずれも外国政府や外国人の影響下になく、かつ、恩恵を被ってないこと」があって、スー・チー女史の配偶者は英国人でしたが既に亡くなっており、問題にはなりませんが、女史の息子2人が外国籍で、先にも触れたことですが、この「子供が外国籍」であることが、スー・チー女史が大統領になることを阻止する最大要因となっています。
スー・チー女史が「憲法を改正されなければ、2015年の総選挙は決して自由かつ公正なものにはならない」と、本年1月上旬に地方訪問時に発言していますが、その真意は、軍がこの条文を変えることに同意するかどうかが、最大の関心事であるということです。
実は、憲法検討委員会の設立が昨年7月に連邦議会で承認されて、その委員会が3回ほど開催されていまして、本年1月2日のラジオ放送では、テイン・セイン大統領が「国家の指導者になるための如何なる国民の権利にも制限が課されることを望まない」と、条文の改正を是認するとも取れる発言もされておりますから、まだまだ両者の綱引きはあるでしょうが、スー・チー女史が大統領になる可能性は高まっているといえるかもしれません。
ミャンマーの大統領の選出は、国民の直接投票では選ばれません。では、どうやってやるのかというと、連邦議員による間接選挙になります。
まず下院である国民代表院と上院である民族代表院から、それぞれ大統領候補を選挙で選びます。その下院と上院から選ばれた大統領候補に加えて、両院の軍人議員から選ばれた大統領候補を出して、合計3人の大統領候補から連邦議会での選挙によって、大統領が選出されます。最多得票者が大統領になり、残りの2人が副大統領になるということです。
今後の政治日程は、明年、2015年12月に総選挙で、その後、憲法の規定では、90日以内に大統領選をすることとなっていますので、2016年3月までに、大統領選挙が行われることになります。それまでは、事故や病気等で退陣されない限り、現大統領の政権が続くことになります。
アウン・サン・スー・チーの大統領はあるか
それで、次の総選挙は、今のままなら、スー・チー女史のNLDが確実に圧勝する状勢ですが、その結果を受けて、憲法が改正されるかといえば、私の見た限りでは、そうはならないのではないかとの感触です。というのは、民主化にともなう混乱を心配するというか、まだまだ、民主化よりも国の安定を大切にしなければいけないとの国民の声が、けっこう大きく感じられたからです。
いずれにしても、キーマンは3人です。現大統領のテイン・セイン氏、野党NLD議長のアウン・サン・スー・チー女史、それと、下院である国民代表院議長のトゥラ・ショエ・マン氏です。そのなかで、私は、最もキーになるのがトゥラ・ショエ・マン氏だと感じています。
最も大統領になる可能性があるのがトゥラ・ショエ・マン氏で、私は、8割方そうなると思うのですが、その場合に、副大統領がアウン・サン・スー・チー女史になります。
現在、トゥラ・ショエ・マン氏とスー・チー女史は、暗黙のうちに話し合って、しっかり手を握っています。2人の間では、次の体制をどうするか、既に何度も相談して話を詰めているのだという情報も得てきました。
あるいは、選挙で圧勝して、国民世論も「これは憲法を改正してスー・チーさんを大統領に」となり、国際社会からも強く待望されるようになれば、軍も無視できなくなって、スー・チー大統領が実現するかもしれませんが、その場合でも、女史のみでは、どうにも政治は動きません。行政実務のすべてを把握するトゥラ・ショエ・マン氏の存在はやはり大きく、どうであれ、スー・チー女史とトゥラ・ショエ・マン氏の二人三脚で乗り切って行くことになることは、間違いないと思います。
中国牽制と国民和解のための支援強化
今後のミャンマーへの経済協力は、どうなるかですが、地政学的観点から、特に中国に対する牽制という意味から、ミャンマーとのパイプを強固にしておくことは、非常に重要で、中国がミャンマーを配下にして物資を集結し、軍港を作り、インド洋への出口を持ちますと、日本にとって大変な脅威となります。隣のインドも、それを恐れています。
その上、歴史的に親日で、天然資源が豊富、農業も盛んで、民主化も進み国民和解に向けた動きもあるということで、今後、支援を惜しまず、最大限関与するということになっていきます。
まもなくまた、安倍総理も岸田外務大臣も訪問するようですし、政府もその方向で、ますます経済協力が進んでいくでしょう。
具体的な分野としては、国民の生活向上のための支援、特に国の不安定要因である少数民族や貧困層の支援、それに、農業開発などが挙げられますが、われわれは、この農業開発を通じての地方農村部の貧困層への寄与をかかげて、今回、ミッションを組んで行ってきたわけです。
人材育成が鍵
ともかく、すべての分野の前提に、人を育てなくてはどうしようもありません。したがって、人材育成が、様々な分野共通の課題となります。
というのは、大学進学率、高校進学率が非常に低いというミャンマーの現状がありまして、それを踏まえて、今回の訪問団は、われわれ薬草グループとは別に、日本でいうところの専門学校、中学校卒業後、自動車の整備士になるとか、レントゲン技師になるとか、様々な技術を身に付けるための専門学校的な施設を設立し支援しようとの、もう1つのミッションを持ったグループも同行しておりました。
われわれの農業分野での人材育成ということでは、農業大臣にお話ししたとおりで、先ほど申し上げましたが、5年間の研修生制度を活用して、農業青年を日本に招いて、日本の技術を持って帰ってもらって、しかも、給料もしっかり払って、それも母国に持ち帰ってもらって、そうして得た技術と資金で、ミャンマーの農業の効率化をなしとげていただこうと思っております。
今回は、甘草でしたが、そのほか、中国から高価な値で買っている作物の中で、朝鮮人参とか、生姜、黒胡麻とか、ミャンマーに向いている作物がたくさんありますから、今後も随時、それらの移植・栽培事業を通じて、継続して両国の友好を深めていくことをお誓いして、私のご報告といたします。
注1 この講演の後、川上和行氏は7月26日に永眠されました。
2 マンダレー管区総理の訪日は、現地政情の関係でアウンマウン・マンダレー市長が代理で参加されました。
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