平成26年12月18日 第2383回 丸の内朝飯会 おはようございます。
本来は、12月14日のホノルルマラソンに参加して、私にとって初めてとなるフルマラソンの感想などをお話しする予定でしたが、ご承知のように急に総選挙となってしまいまして、自公連立を組み上げた裏方の一人として、いないというわけにはいきませんから、すべての予定を取り消して、この2週間ほど走り回っておりました。お蔭様で自公で安定多数を得られ、その責任はさらに増して、これから真剣に日本国のために頑張っていかなくてはならないことになりました。成り代わりまして御礼を申し上げる次第です。 世界最高地点の茶会の再現 それで今日は、予定を変えて、昨年(平成25年5月23日)この席でご報告しましたが、三浦雄一郎さんがエベレスト登頂されたときに標高5300mのベースキャンプと標高8500mの最終キャンプ(C5)で「茶会」をされたのをここで再現し、あわせて世界の飲茶の歴史をお話しさせていただこうと思います。お茶会の再現は、小笠原流の茶道教授の小笠原聖誉先生にお越しいただき、お点前をお願いいたしました。実際のお茶会では、ベースキャンプでは私が、8500mでは、同行された雄一郎さんのご子息である豪太さんがお茶を点てました。 聖誉先生は、三浦雄一郎さんのエベレストでの「茶会」に大変興味を示されまして、私がお話しをしましたところ「ギネスに申請しましょう」と提案されて、それに向けて努力をしていただいておるところです。日本のお茶というのは、大変素晴らしい文化であって、それを世界最高所で、酸素の薄い、生きるか死ぬかという中で成し遂げたということは、大変な快挙であると。 一昨日も実は、三浦雄一郎さんのところで会がありまして、「生きるか死ぬかで皆ぎすぎすしていたなか、お茶を飲んだら、ほっと和んだ」と、当時の模様を思い出されて雄一郎さんがお話しされておりました。 (写真を示しながら……竹岡誠治公式ホームページ、メッセージ 「人間の可能性への信仰」を参照ください)お茶碗は、実際には木の茶碗が使われました。通常は、匂いがつくので使わないのですが、上では、軽くて丈夫ということから、これが使われました。 平成の名茶会 【小笠原聖誉先生より】 雄一郎さんの発想のすごいところは、常人では考えないことを発想されるところです。5000mのベースキャンプでお茶会をというところまでは、考えられる。しかし、それを8500mでもやろうとは、ちょと考えないでしょう。少しでも荷物を減らしたいわけですから、実際のところ、準備の段階で他のメンバーは不満を漏らしたと記録にありますが、ブツブツ言われても、本人は「やる」と決めて、「やろうよ」と皆に言って、そして上に道具類を持って行って実際に「やった」と。 一昨日、忘年会でご一緒させてもらって、ご本人に、そのときのことをお聞きしましたが、最初はたしかに皆、文句を言っていたが、8500mで手巻き寿司を食べて、その後、お茶したら皆よく眠れて、目覚めがよかったと喜んでいたとのことでした。 豪太さんも、このことについて書いておられますが、8500m地点というのはマイナス30度くらいのところで、皆ひどくイライラしているし、お湯を沸かしても、それを肌にこぼせば凍傷になってしまう恐れがあるから「皆、動かないで」と言いながらドキドキしてやったらしいのですが、イライラの気持ちが和らいで、アタックを終えた各国の登山隊が、まるで亡霊のような状態で帰ってくるのに対して、三浦隊には、お茶をやってから余裕のようなものが生まれて、それが一番良かったことだと振り返っておられました。 お茶の世界に『近代数寄者の名茶会30選』(熊倉功夫編 淡交社 2004年)という本があります。五島美術館の五島慶太、根津美術館の根津嘉一郎、畠山記念館の畠山一清、三井物産の益田鈍翁といった明治からの戦前にかけての名だたる人物のお茶会は記録がとってあって、それを茶道史の歴史学者で元林原美術館の館長であった熊倉功先生が選んで本にしたものが、これです。 当時の数寄者といわれる人たちは、お稽古をしているといっても、それは言葉ばかりで、稽古はしないにもかかわらず、お茶会は盛んにやるんですね。お茶会をいろいろな場所でやって、お手前は自分でできないものだから奥方などに、代点といって、ある程度のところまで自分でやったら、後はよろしくといったことを結構している。そういった内容が面白いのですが、それに引き比べて、雄一郎さんたちがやった8500mの茶会というのは、平成の名茶会になるのではないかと思えてくるのです。このまま記憶から消すのは惜しいのではないか。ビデオは録ってあるというから、ちゃんとした人物に評価してもらって書面で形に残したらどうだろうか。これを今、竹岡さんと相談しているところです。それが茶会か茶会でないかの議論がまずあるでしょうが、とりあえず形に残しておくことが大切で、最終的に平成の名茶会となればいいと思っております。皆様、乞うご期待ということで、何かの機会で発表できればと希望しております。 茶会の作法 では、小笠原聖誉先生に、この場でこれから点てていただきます。1人に1碗ずつ順に用意いたしますので、いかに日本のお茶がおいしいものか、お召し上がりください。 ところで、小笠原先生が、お茶碗をくるくる廻されますが、これは何故か。それは、茶碗には表と裏があるからです。廻して、どちらが正面か、模様を見極めて、正面を正客(主賓)に向けてお出しするようしておられるのです。非常に繊細な感性が要求されます。 そして、飲むときは、向けられた正面ではなく、それを避けて飲むのがルールになっています。お茶碗は、右手で取って左の手の平に載せて、それで右手で4分の1でも半回転でもいいのですが回して、一服飲んだら、亭主に「おいしいお茶をありがとうございました」というふうに、お礼を言わなくてはなりません。 そのあと、少し飲み口を拭いて、お茶碗を拝見します。「さすがですね」などと言いながら、裏返しても見て、全部見て差し上げるのが礼儀です。 それらが終わって「ところで今日は、どんなお茶をご用意されたのですか」と訊ねたり、どこの茶舗で詰められたかによって品質が違うので「お詰めは」といって、茶舗の名を聞いたりします。 さらに、どうしても聞かなければならないのは、茶入れです。 現在、私も、勉強をしています。杉並に井関先生という、お茶の先生を相手に料理とお茶を教えておられる方がいて、オールラウンドのお茶会ということで、料理作りから食べ方も含めて、すべて礼にかなったお茶会の勉強を、私を含む4人が集まって始めているところです。 (ここまで聞くと、家庭の中での茶会というのは無理なのかと思えるが、との参加者からの声があった) いや、3人でも4人でも、お客様を亭主が心を込めてもてなすというのが一番ですから、料理などは別の人にさせて仕出しを取るでもいいですから、どうやっておもてなしをしようか思いを巡らせて、狭い部屋でも、ご飯を一緒に食べてお茶を点てる、こういうのがお茶会だと思います。ですから、家族でもやった方がいいと思います。どうやってもてなそうか、必死に考えると、相手のいいところを見ようとしますから、関係も良くなります。 『THE BOOK OF TEA』 ここで、世界でお茶が飲まれて来た歴史がどうであったか、今日は、明治の文化人、岡倉天心が著した『茶の本』を参考にお話ししたいと思います。 今の東京芸大創立時の関与や日本美術院の設立者として有名な天心は、ボストン美術館の中国・日本部長としてアメリカで活躍しましたので、この『茶の本』は、もともと1906年(明治39年)に、英語で『THE BOOK OF TEA』という原題でニューヨークの出版社から出されたものです。 また、これは、長く邦訳されず、天心の没後、1929年(昭和4年)になって『茶の本』(村岡博訳 岩波文庫)として出版されています。また、近年、私の教わった大日本茶道学会会長の田中仙翁先生のご長男、仙堂(田中秀隆)先生が『岡倉天心 茶の本(現代語でさらりと読む茶の古典)』(淡交社 2013年)という、わかりやすい解説書を出されております。 さまざまな飲み方と利用法 今、点てていただいているお茶は、お茶の葉を挽いて粉末にして、それを湯に溶かして飲む方式で、抹茶と呼ばれているものです。 それから、皆さま方が普通にご家庭で飲まれているお茶は、お茶の葉にお湯を掛けて、出てきたエキスを飲む方法ですね。 今はこの2種類が普及していますが、もう一つ、一番古い飲み方として、煮立てる方法がありました。グツグツ煮立てて、塩を入れたり香辛料を入れたりして、これは、薬としての飲み方でした。 それと、リウマチなどで痛くなった際に、これは飲まずに、湿布のようにして葉っぱを濡らしてそこに貼ったりすることもありました。 その他、薬として食べるというのもありました。また、若干ではありますが、ネパールなどでは香料として、茶の木を燃やして、その香りを嗅ぐという利用法もあります。 以上、ざっと5~6種類ほどの使い方が挙げられるのですが、今回は、お抹茶というものが、いかに優れた文化であるかということを、お話ししたいと思います。 まず、お菓子を召し上がっていただいて、その甘みを口の中に残してお飲みになると大変これはおいしくなります。 お客もなく暇だったことを、「いやぁ、今日はお茶を挽いちゃったよ」などと言いますが、この「お茶を挽く」という言葉の語源は、お茶の葉を石臼で挽いて飲む抹茶からきています。 岡倉天心のねらい 『茶の本』を著した岡倉天心は、1863年(文久2年)の生まれで1913年(大正2年)に亡くなっている日本を代表する文化人ですが、先ほど申し上げたように、今の東京芸大である東京美術学校の校長等を歴任し、日本画の横山大観、菱田春草等の師にあたります。 天心が『茶の本』をニューヨークにおいて1906年に英語で出版するにいたったのには、当時の時代背景がありました。 当時、日清、日露の戦争を経て、世界の耳目が日本に集まっていました。「かのナポレオンをも退けた大陸軍国ロシアを相手に、健闘する日本とはいかなる国か」(田中秀隆『岡倉天心 茶の本』より)と。 そして、「コンクリートで半永久的に構築され、機関銃で守られた陣地に、死を恐れず攻撃を執拗に繰り返す日本兵」(同)を目の当たりにした各国の従軍記者たちによって、日本人とは死をも恐れぬ特異な民族として喧伝されるのみでありました。 これに対して、天心は「ちょっと待ってくれ」、日本人というのは、非常に繊細で自然と調和した素晴らしい文化を育んできた民族であると、こういうことを教えたいと考えます。 そこで、西洋の人々にとっても馴染みのあるお茶の文化を通じて、日本文化の素晴らしさを発信しようとしたのが『THE BOOK OF TEA』の出版でした。 プライドの人 天心の人柄を表わす1つのエピソードが伝えられています。それは、1903年(明治36年)ボストン美術館からの招きで横山大観、菱田春草らの弟子を伴ってアメリカを訪れた際のことです。 ボストンの街を、かまわず羽織・袴姿で歩く一行に対して、一人のアメリカの若者から「『おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?』。そう言われた岡倉は『我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した」(斎藤兆史『英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語』中公新書 2000年、より)というのです。 この逸話で、天心が、いかに日本文化に誇りを持っていたかがわかりますし、アメリカ人も、それ以来「たいした男だ」と認めるようになったといわれています。 白馬寺の仏像をめぐって そして、私が最も天心のことで感動したのは、これは拙著『サンロータスの旅人』(天櫻社 2010年)に記したことですが、2009年(平成21年)の9月、訪れたボストン美術館で知らされたエピソードです。 本の口絵にその写真を載せていますが、そこには、世界屈指とも思える美しく鎮座する仏像がありました。見ただけでひれ伏したくなる、心が穏やかになる像でした。 (像の写真は竹岡誠治公式ホームページ、メッセージ「太平洋文明の花を咲かせたい・アメリカ写真紀行」を参照ください) それは、元、中国の洛陽郊外、白馬寺にあった『菩薩座像』(東魏 530年頃)でした。 白馬寺といえば、紀元1世紀、後漢の明帝の時代、インドからはじめて仏教経典が白馬に載って中国に伝えられたという伝説の寺です。 その台座に「岡倉覚三(=天心)を記念して」と、ありました。聞くと、いかなる経緯かフランスに渡って売りに出されていたのを認めた天心が、購入を熱望するも果たせなかった仏像であったとのこと。それが、ボストンにあるのは、それを遺言として聞いた人物によって購入され寄贈されたためとのことでありました。 天心の目の確かさ、彼の文化程度がいかに高いかが、これでわかるというものです。また師の言葉に忠実な弟子がいたことに、感動を憶えます。 機会がありましたら、是非、現地で見ていただきたいと思います。 西洋における茶の導入 その岡倉天心は「『西』が受入れた『東』の飲み物を媒介にして」(『岡倉天心 茶の本』より)日本への理解を求めたということですが、そのとおり、当時、欧米では、お茶というものは非常に好感を持って飲まれておりました。 初めてお茶なるものがヨーロッパに渡ったのは、1610年、中国では明代の末に当たります。オランダの東インド会社によって運ばれたのが、その始まりだといわれています。 以来、だいたい50年かけて、まずイギリス社会に定着していきます。また、フランスに渡ったのは1636年、ロシアには1638年と、こんな経緯をたどっていきました。 なお、イギリスでは、コーヒーの方が先に普及しておりまして、1650年には最初のコーヒーハウス「グランカフェ」がオクスフォードに開店し、コーヒーを飲みながら政治、経済、文化等々を論じ合うサロンが成立しておりました。 当時のイギリスは、クロムウェルの名が知られていますが、王を処刑して共和制を敷いたピューリタン革命の時代でありました。お酒ももちろん飲んだでしょうが、この時代、コーヒーハウスが市民の政治談義の場として役割を担ったのでありました。そして、最初のコーヒーハウスが出来て10年後の1660年には、イギリスは王政復古をしております。 このように、イギリスではコーヒーが先行して後、1717年に最初のティーハウス「ゴールデン・ライアンズ」が開店して、コーヒーに代わる非アルコール飲料として、お茶が市民生活に定着していきました。 この場合のお茶とは、ご存知のとおり紅茶です。紅茶も中国茶も日本茶も抹茶も、全部、原料は同じお茶の葉です。製法の違いで、紅茶になるのかウーロン茶になるのか抹茶になるのかが違ってくるのです。 ヨーロッパでお茶といえば紅茶となったのは、中国からの長い航海の途中で意図せず少し発酵して、それが飲まれるようになったためというのが、通説とされております。 いかに当時、西洋市民の間にお茶が定着していたか、それを示すエピソードとして、アメリカ独立戦争のきっかけがボストン茶会事件であったということが挙げられます。 それは、1773年のこと、岡倉天心が後に関わることになるボストン美術館がありますマサチューセッツ州ボストンで、お茶にかける関税を強化しようとするイギリス本国に対して「われわれの必需品であるお茶に関税をかけるとは何ごとか」と、怒りに燃えたボストンの市民が暴動を起こし、イギリスの東インド会社が積んできたお茶を海に投げ捨てたのでありました。そして、この事件を契機に独立へと向かうのでありました。 利休にみる日本文化の粋 ともかく、このように西洋でも普及していたお茶を素材にすれば、日本人および日本文化への正しい理解が可能になるのではないかと、天心は『THE BOOK OF TEA』を出したのでした。 清国に勝ち、ロシアに勝って、これで近代文化国家として日本が世界に認められるだろうと思ったら大間違いである。それどころか、野蛮な民族であると、誤解されてしまった。 花をめで、自然と一体となって、そして人生を清らかにして人格を向上させていくことこそ文化なのであって、その文化が日本にあることを、天心は、本の中で最も強く訴えていきました。 そして、この日本文化を代表する人物として、利休を例に出して、利休がいかに優れた感性の持ち主であったか、2~3の事柄を紹介しております。 そのなかに、有名な朝顔の話が出ております。 ヨーロッパでは、花を飾るのに、そこかしこに飾り立てていくけれども、利休は時の権力者である秀吉を迎えるに当たって、庭の朝顔を全部切って、せっかくの花を無くしてしまう。 それに対して秀吉は「何だこれは」と怒るわけですが、かまわず利休は奥に案内します。 そうしたら、通された茶室の床に、一輪の朝顔が挿してあった。一層、鮮やかさを増す心憎い演出に、秀吉は感嘆の声を発したのでありました。 実はこの利休の工夫の中に日本文化の粋があると、天心は見ました。 花をめでるとは、単にそこにあればいいというものではない。そして、これがお茶の精神であり、これを通して、今から約100年前の岡倉天心が、日本文化の真髄を、英悟でヨーロッパ、アメリカに向かって発信したのでありました。そういうことから私は、この本は優れた業績であると思います。 薬としての効用 それで、本の中では、わかりやすく、お茶について解説されております。次に、私なりに要約いたしました。 まず、お茶の木とは、どこから来たのでしょうか。 それは、中国大陸南部に起源を持つツバキ科の植物で、最初は薬として利用されていました。疲労回復、精神高揚やリウマチの薬にもなるとされました。リウマチの薬とする場合は、先に申し上げたとおり、湿布にして患部に貼ったといわれています。 また道教では、不老不死の薬として、仏教では、長い瞑想の際の眠気覚ましとしての薬効があるとして飲まれていたとの記録が残っています。 このように最初は、病気治療の薬として、あるいは一部の修行のためのものでしたが、やがて庶民の間に普及していきます。それは4世紀~5世紀頃のこと、主に長江流域の南側の住民の間で好んで飲まれるようになりました。お茶を表わす漢字が、草冠の下の横棒2本(荼)であったのが、今の横棒1本(茶)に簡略化されるのが、同じ4世紀~5世紀頃で、時を同じくしています。この漢字の変化からも、お茶が民衆に広まったことが裏付けられるというのです。 認知症の発生抑制効果 【参加者より】 お茶が薬として用いられたという今のお話に関連して、ご報告をいたしたいと思います。
第33回日本認知症学会学術集会(会長:秋山治彦 東京都医学総合研究所 認知症プロジェクト)が、11月29日から12月1日まで、神奈川のパシフィコ横浜・会議センターで開催されまして、そのなかの一般演題プログラム、認知症の予防を課題とする金沢大学大学院の篠原もえ子氏より「緑茶摂取と認知症・軽度認知障害の罹患リスク」という題で発表が行われ、緑茶摂取は認知症および軽度認知症(MCI)の発症抑制に非常に関連がある旨の研究結果が発表されておりました。 古典派・ロマン派・自然派 なるほど。興味深いご報告でした。 続いて、飲み方について、お話しいたします。 それには3種類がありまして、天心はそれを、中国の唐、宋、明の3王朝、各時代ごとの文化と人情を反映させて、古典派、ロマン派、自然派と分類しております。 これは、19世紀西洋美術史になぞらえてのことと思われますが、これもまた、西洋の人々が理解しやすいようにとの配慮からでありましょう。 西洋美術史では、古典派は、ナポレオンの登場によって始まった動きで、作家としてはダヴィッド、アングルなどが挙げられますが、古代ギリシャ・ローマの静謐で端正な古典美を復活させようとしたものです。 ロマン派は、静謐には飽き足らなくなって情熱的で躍動感あるものを目指した動きで『民衆を導く自由の女神』などで有名なドラクロワが代表になります。 そして自然派は、古典派かロマン派かの争いを横目に、庶民である農民などを自然の中の農村風景とともに描いたミレーなどがそれに当たります。その作家が多く住んだ村の名にちなんでバルビゾン派とも呼ばれます。この動きは、やがて印象派へと発展していきます。 Boiled Tea (煮立て茶) それで、これを中国の唐、宋、明の各時代のお茶の飲み方に当てはめるわけですが、まず、古典派である唐代は、Boiled Tea (煮立て茶)で、Cake-tea(餅茶)といって固形の餅状にした茶を鍋でグツグツ煮出して飲みます。 この時代、8世紀半ばの陸羽という文人が有名です。『茶経』という書を著して、お茶に精神的な要素を入れた最初の人物であり、それゆえに茶祖、茶神と称されます。 『茶経』では、どんな茶がいいのか、茶の種類の判別がなされ、さらに、茶を煮るにあたっては塩以外を入れてはいけないとか、お湯の沸かし加減なども規定しました。 茶碗は、南方の青磁が使われました。中には茶の塊を入れて煮込みます。これはこれで、なかなかいいもので、私の女房の弟が焼物をしていまして、この青磁は、その作品です(作品を示す)。 中は茶の緑ですから、その色を引き立てるとして、こういう青みがかった器がよいとされました。 Whipped Tea (泡立て茶)=抹茶の登場 ロマン派と天心が表現した宋の時代になりますと、Whipped Tea (泡立て茶)と呼んでいますが、初めてお茶を粉にして泡立てて飲む、抹茶が登場します。抹茶そのものは、Powdered-ea といいます。点て方は点茶です。湯を加えて茶筅でかき回して点てる茶を点茶といいます。 このときの茶碗は、天目といいますが、江西省の吉州窯とか南方で焼かれた真っ黒い茶碗です。 この抹茶ですが、宋の時代、あまりにも流行りすぎて賭け事が行われるようになります。一定量、抹茶を点てて、どちらが泡が消えずにいるかを競いました。 天目は、器を逆さまにして高台を裏返した窪みが同じであるように作られているのですが、これは、同じ量の抹茶にするために、高台の窪みを計量器として利用できるようにするためでした。 それで、これは私が中国の現地のガイドから聞いた話ですが、あまりにも賭け事が激しくなったのを見た当時の皇帝徽宗が抹茶を禁止して、それ以来、中国での抹茶は廃れたということです。 ただし、これには別の説もあって、後の王朝である明の太祖洪武帝(朱元璋)が禁じたためともいわれています。 それは1391年のこと、当時の抹茶は、茶葉に香料などを加えて一度餅状に固めたものを削って作るという大変労力のかかる製法で、庶民から身を興した太祖が、民にかかる負担を考慮してのことであったといわれています(沈徳符撰『野獲編』補遺巻1)。 Steeped Tea(浸み出し茶) そこで、明の洪武帝が抹茶に代えて推奨したのが、天心が自然派と説明した、飲み方を、Steeped Tea(浸み出し茶)と呼ぶお茶です。その茶材は、Leaf-tea で、お茶の葉を入れてお湯を注げば、何度でもお茶の成分は出ますから、庶民にはこの方がいいと推奨したのです。 そして、明代の茶碗は、薄い茶の色がわかる白磁となっていきます。 日本では、このような茶を煎茶といっていますが、中国では淹茶(えんちゃ)もしくは泡茶(ほうちゃ)といいます。中国で煎茶といえば、これは主に唐代で飲まれた、煮出して飲む茶のことを指します。 日本の茶の歴史 いずれにしても、中国では抹茶は禁止され、明の時代には一切、姿を消します。また、韓半島においても、中国の属国でありましたから同時に禁止され、消えてしまいます。 日本の場合は、宋から栄西禅師が、当時の中国での製法、点て方、飲み方を伝えて、それが代々伝えられていくことになるのですが、そのお茶は抹茶でしたから、日本のみに抹茶が残るという不思議な現象となったのでありました。 日本は、他の2つの飲み方も経験していますから、以上の3つのすべてが日本に揃っているということになります。 記録によれば、729年(天平元年)に聖武天皇が奈良の宮中で100人の僧に茶を振る舞ったとあります。遣唐使のもたらした茶であり、最初に挙げた唐代の煮立てる茶であったと思われます。 続いて、805年(延暦24年)に最澄が茶の実を唐から持ち帰って比叡山に植えたとの記録があります。このへんまでは、煮立てる茶で、薬として飲まれたものでした。 その後、1191年(建久2年)宋から帰国した栄西が、最初に福岡と佐賀にまたがる背振山に茶種を植え、そして、京都は栂尾にお茶を植えたということですが、その後、これが宇治に移植され、室町時代には、この宇治のお茶を本茶といい、それ以外を非茶というようになりました。 室町時代の茶会では、闘茶といって、点てたお茶を飲んで、このお茶の葉は本茶かどうかを当てる賭け事になっていきます。 これらは、この時代に確立した建築様式である書院で行われたことから、書院の茶と呼ばれます。金閣、銀閣では、書院造りとなっている2階に貴族が集まってお茶を点てたわけですが、そのときの茶は、団茶といって小片に固められたものを溶かして飲むのが主流であったといわれます。 茶葉の粉を小片に固めるのは、保存を考えてのことでした。ですから、団茶を保存と取り出すのに適した、大海という口の大きな茶入れが、特にこの時代、散見されます。 利休の出現 そして、お茶が、茶道という日本で独自の文化となるのには、なんといっても千利休の出現があったからです。 安土桃山時代の織田信長が、利休を大変重用して、茶事を司る職掌に任じて、茶頭としました。 信長の時代、利休が認めた1個の茶入れは1国よりも価値があるとされ「国よりも茶入れを賜りたい」との風潮が広まっていきました。新しい価値観を、利休が打ち立てたということです。 利休が成し遂げたことで一番大きいのは、今の料亭でのもてなしに通じるようなものといえるでしょうか、3~4人程度の少人数をもてなすために小間に客を呼び入れて、自ら食材を取り寄せて料理を作り、おいしい料理を出します。そして、その後に、濃茶といって、たくさん抹茶を入れてよく練ったお茶を1つの碗に作って、それを皆で廻して飲むようにしました。 利休は、一座建立という、集った皆が一体感を味わうほどに充実した座となるとして、これを行ったのですが、この利休の茶は、草庵の茶、小間の茶と呼ばれています。 ちなみに、今日、皆さんにお出ししているのは、それではなく、薄茶です。 亭主は客人のために、中国の高僧による墨蹟など、書を床に掛け、花を生け、炭を調合して炉にくべ、そして茶を点てるという、今にいたる茶会席の原型が、利休の手によってここに出来上がりました。 謎の井戸茶碗 それで、当時使われた茶碗に、井戸茶碗があります。井戸型ともいいますが、もともと韓国、当時の高麗で作られたとみられている器で、利休が用いて、信長を継いだ秀吉が評価したことなどから、当時の茶人や武将たちが競って手に入れようとしたために、大変な高騰を招いたものです。 しかしながら、本当のところ、作られた場所、製法、さらには何故、井戸と呼ばれたのか等々、謎の多いのが、この井戸茶碗です。 これについては、私があるきっかけで知ることとなった高麗貴族を祖先に持つ福岡の鄭湧水先生が長年研究されていて、驚くべき工夫がされた焼物であることがわかってきました。鄭先生は、研究の成果を踏まえ、これまで誰も成し得なかった井戸茶碗の再現をされています。 今日、用意した茶碗の1つとして、それを持ってまいりました。 その研究によると、これは、砂土という粘土分の少ない土で作られており、中は砂状で、生の状態で焼き締まっておらず、水をよく吸って時間が経つにつれて水が漏れてきます。軽く保温力に優れたものとなっています。 井戸と黒楽茶碗 そして、鄭先生は、利休が長次郎に命じて作らせた黒楽茶碗は、これを元にしているのだとの説を唱えられています。 今の楽家は、この説を受け入れていませんが、鄭先生は実際に砂土を使って、真っ赤に焼けた状態で窯から引き出して水に漬ける手法で、黒い茶碗を作ることに成功しています。 この手法を引き出し黒といいますが、1300度ほどの真っ赤に焼けた状態で窯から引き出すには、鉄のハサミを使いますが、器の形状がそれまでにみられたどんぶり型ではうまく挟めず、壊してしまいます。 それで、挟んで引き出しやすい、フチがほぼ垂直な筒状であるのがよいとなりますが、実際の黒楽茶碗を見ると、まさにその理にかなった形状をしています。 大雑把にいえば、井戸も黒楽も砂土を胎土とする点では違いなく、器の形状の違いと、引き出すか窯の中で徐々に冷ますかの違いによって、井戸にもなり黒楽にもなるということです。 ともかく、利休は、中国からの青磁や天目など、いわゆる唐物に価値があって天下一品とされてきたのに対して、日本で独自に作られた和物に価値を付けていきました。そして、利休の目利きしたものが、日本一の茶道具として重用されていきました。 さらに、当時、堺に様々な文化が入ってきたのを、利休は盛んにお茶の世界に取り入れていきました。たとえば濃茶の廻し飲みも、キリスト教の聖杯の儀式がありますが、ぶどう酒を廻し飲む、その習慣を取り入れたものとも考えられています。 いつ命を落とすかわからない戦国武将に、はかない人生における一期一会の料理をもてなし、美味しいお茶を飲んでもらって、一座建立しましょうというのが、利休のお茶ではなかったかと思われます。 取り合わせの面白さ 【小笠原聖誉先生より】 日本のお茶で面白いのは、取り合わせというのがありまして、茶会で使う道具の全部を、お茶の専用道具でしなくても良いという考え方があるところです。 それで今日は、中国のもの、台湾のもの、日本の南部鉄器、伊賀のお茶缶、あとカンボジアからのもあるし、韓国の皿にロシアのお盆を載せて、ドイツのものを一輪挿しにして、日本の抹茶茶碗、それから、ケン・オクヤマの名でフェラーリや、まもなく開通する北陸新幹線で受賞するなど車や鉄道車両のデザインで知られる奥山清行さんがデザインしたスプーンなど、数々取り合わせをしています。 これが、クリスマスもあればお正月の初詣もあるという、日本の特徴「おいしいとこ取り」のわざの一つです。どんなところでも何を使ってでも、お茶会はできるということとをお伝えしたいと思います。 発展させ独自のものとする日本 関連して申し上げますと、日本というのは外来のものをこなして独自のものを作り上げるのに非常に長けているといえます。料理がそうですし、日本に来た中国料理にしても本国よりも工夫して、おいしくしてしまう。
お抹茶は、特にそうで、元は中国ですが、天の配剤で、日本にしかないものになっています。 お茶は世界中に広まって、ヨーロッパでも盛んですが、伝わったのが17世紀の明の時代の、皇帝に禁止されて一切抹茶が絶えた後ですから、当然、ヨーロッパにもありません。茶筅というのを、一体何に使うのか、どうやって作るのかと、悩んでいたとの文献が残っているくらいです。 日本には、最盛期の抹茶の精神が、仏教の禅の精神とあいまったものですが、先ほどから申し上げている一座建立、それから脚下照顧、これは、履物はちゃんと揃えるといった些細なことに大きな魂が宿るといった教えですが、これらお茶の精神がそのまま守られて、なおかつ利休や明年没後400年を迎える古田織部らによって、進化・大成させていくのです。 アンシンメトリー 私は広島の出身で、広島にはこの古田織部と深い親交を持った上田宗箇という茶匠から400年続く流派があります。その宗箇流の協力のもと、織部の特別展が、松屋銀座の12月30日(火)から明年1月19日(月)までを皮切りに、広島・三次市の奥田元宋・小由女美術館(2015年3月2日~4月12日)、滋賀・守山市の佐川美術館(2015年10月10日~11月23日)へと、巡回して行われます。素晴らしい内容と聞いていますから、是非、ご覧になってください。 それで、織部の場合は、焼物をゆがめます。 天心も書いていますが、日本のお茶は必ず対称を避けます。物事を配置するのに、軸があったら、ちょっと花をずらすとか、絶対にシンメトリーにはしない。ちょっとずらすのが日本文化の特徴となっています。また、織部は、形をゆがめると同時に、海外の風物を取り入れて、焼物に様々な意匠を施して独自のものにしていきました。 中国の場合はシンメトリーを大切にするのに対して、日本はアンシンメトリーとなっていく。 この感性は、変化に富む日本の自然から育まれたものだといえますが、ともかく、日本人の感性を背景に持つ日本独特のお茶の文化を、もっと世界に発信していいのではないかと思っております。 抹茶の製造にしても、今になって、中国、韓国が真似しているそうですが、不思議とうまくいかないようです。これだけのおいしい抹茶は、やはり日本だけができるものです。 焼き芋と焼物 次に、私が何故、お茶の世界を好きになったのかをお話ししたいと思います。 まず、私の場合、焼物への興味が先にありました。 これは、私の女房となる茂子と結婚を決めた時のことですが、聞くと、茂子の里は山形の、こんなところに人が住んでいるのかというような大変な田舎とのことでした。 それで、家族のことを聞いたら、3人きょうだいとのこと。一人は兄で、家を継いで農業をして、雪に閉ざされる冬には、小学校の先生をしている。 もう一人は弟で、次郎さんといって、明治大学の農学部を卒業をして、金沢で焼き芋の修行をしているとのことでした。 この次郎さんの焼き芋の修行については、実は、後で私の聞き間違いだとわかるのですが、農業、農学部と聞いていくうちに、てっきり焼き芋だと思い込んだのでした。 それで、結婚式の前の日に親族が集まって、次郎さんとも初めて会ったときのことです。 私は「あなたは焼き芋の研究をされているそうですね」と言うと「そうですよ」との返事です。 そこで「食っていけるの?」と聞くと「いや、大変ですよ」と。 続いて「でも研究するほどの価値があるの?」「それが、あるんです」 「材料とか、焼き方とか、味とか、違うんでしょうね」「それは千差万別です」 「でも、落ち葉を集めて焼くのが一番うまいのでは?」「いや、落ち葉では焼けません。京都で炭で焼いているのはありますが、そんな簡単にはいきません」 等々、やりとりして、ひとしきり問答を繰り返した後、 「でも子供の頃は、落ち葉にぶっこんで焼いて食べたよ。それが一番うまかったけどなぁ」と言うと「いったい、何の話をしているのですか」となりました。 「芋だろう」という私に「ええっ!!」となって、その時初めて「焼き芋」と「焼物」を私は取り違えていたことを知ったのでした(笑)。 以来、私は焼物が好きになりました。その後、次郎さんが焼いているところに行くようになって、焼物には陶器と磁器があるといった基礎から、「陶器とは?」「土物です」、「磁器とは?」「カオリン(カオリナイト鉱石)を焼いたものです」といった具合に教えてもらいながら、その奥深さを知るようになりました。 その次郎さんの作品も、今日の茶碗に使っております。 その茶碗は、実は復元品でありまして、先ほど触れた徽宗皇帝が「雨過天晴」といって「雨上がりに見える晴れた空の青」を目指して作らせた汝官窯の青磁を真似たものです。ちなみにこの焼物ですが、中国と日本では当てる字が違っており、中国では「天青」、日本では「澱青」とされています。 特に私は、抹茶碗に惹かれるようになりました。これを持つと、手の中に宇宙が感じられるのです。それで、抹茶碗の収集が趣味になりまして、私の家には、既に500個ほどを数えるまでになっています。いいものを目にすると、買わないと気が済まないようになってしまいました。 そのうち全国を回っているうちに、備前焼の渡辺節夫さん、徳島の大谷焼の松下雄介さんという、お二人の陶芸家と友達になりまして、画伯の田渕隆三先生にお願いして、私はこの二人と一緒に2002年(平成14年)からの5年間、世界の美を巡る旅を行って美術紀行3冊をまとめました。先ほどお話しした白馬寺の仏像を掲載した『サンロータスの旅人』は、その美術紀行3冊のエッセンスを入れて私の還暦を記念して出版したものです。 『茶道端言』との出合いから 順番としては、焼物に続いて、私の中でお茶への興味が深まるわけですが、そのきっかけとなったのが『茶道端言』という本です。 これは、1982年(昭和57年)に講談社から出版された本で、当時、私は新宿・信濃町の創価学会本部に勤めており、近くの本屋で何気なしに手にしたものでした。 本は非常に面白く「どうせ習うなら、この著者に」と思うようになっていました。 そのとき、本部近く、左門町のあたりを歩いていて、ふと見ると「大日本茶道学会、田中仙翁」と、表札がかかっているのに目がとまりました。 「あ、これは『茶道端言』の著者だ」、私は思わず飛び込んで「先生に習わせてください」と、著作に感動したこと等を応対に出た人に言いました。 すると「ここは本部道場です。初めての人には教えません。どこかお近くの教室でお習いになって、本部教授の資格を取ってからお出でなさい」と、あっさり断られてしまいました。 やむなく「失礼いたしました」と帰りかけたら、奥から「どうかされましたか」と、別の女性から声がかかりました。 それで再びいきさつをお話ししたところ「では、そのことをメモに書いてください」とのことで、これこれしかじかで仙翁先生に教わりたいのですと書き残して、その日は帰りました。 次の日、電話がかかってきました。 「会長の田中です。竹岡さん、教えて差し上げます」と。 それから5年間、田中会長に教わりました。 おいしいお茶を、いかに出すか そこで教わったことは、お茶とは日本文化の総合芸術であるということです。建築、庭、焼物、軸、花と、それらの知識がなければ成り立ちません。 その上で「ご主人がどういう思い入れをしているかがわかることこそが、お茶の心をわかることである」と、教わりました。 人をもてなすときには、相手を考えて、こういうお茶碗を使おう、こういうお菓子にしよう、こういう軸を掛けようと、何につけても必ず心入れがあるのであって、それがわかることが茶の心であると。 細かい作法は、むしろどうでもよい。これが客となる者の心得だよと。 また、主人の心得はといえば「おいしいお茶を出すことです」と一言でした。 点前をがちゃがちゃと時間をかけて、そのうちにお茶が冷めてしまうようでは、いけないと。 おいしいお茶を、いかに出すか、全体をいえば、おいしい季節のご飯を作って、その季節の料理に合わせたお茶を、いかに出すかが大切であり、一言でいえば「和敬清寂」、そして先ほどから申し上げている「一座建立」というが、いろんな人の心が一つになるというのがお茶の心ですと、こんなふうに教えていただきました。 また、先生に「お茶碗を勉強したいのですが、どうしたらいいでしょうか」ともお尋ねしました。 すると「五島美術館に竹内先生がおられるから、この先生に教わりなさい」といわれました。 竹内先生とは、当時、同館の学芸部長をされていた竹内順一先生のことで、茶碗を含む陶磁器の専門家の先生でした。 それで、茶碗のことは、竹内先生に講義を受けまして、1985年(昭和60年)当時のことですが、30冊のノートになって記録が残っています。 ということで、先に焼物を好きになって、そのうちお茶を習うようになった、いやそれも、女房に惚れたのが一番先ですね(笑)。ともかくこの順番で、今日にいたっております。 このようにお茶の世界に学んだ私は、雄一郎さんのベースキャンプにお伺いすることが決まって以来、喜んでもらうには何がいいか、やはりお茶だと考えて、現地に持って行きました。 そして、ベースキャンプでお茶を振舞わせていただいくと、持参のノートに参加者に感想をいただいていますが大好評で、雄一郎さんから「最高地点でもお茶会をやる」との宣言が出て「世界最高地点での茶会」となったというわけです。 お茶は体にもよく、味はもちろんのこと、茶碗を持つ手を通じてその温もりが体の中に入ってきますし、精神的にもいいものです。どうか今後とも親しくお茶を味わっていただきたいとお願いして、私のお話とさせていただきます。 |