翌日は、今回の旅行で、私がどうにも行きたくて、皆に無理を言って計画に組み入れてもらった五丈原に向かった。片側4車線の新しい高速道路をバスは快走し、5時間(かつてはまる一日かかった)で、諸葛孔明の終焉の地に着いた。日本でも「星落秋風五丈原」で(※6)「祁山(きざん)悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原 」とうたわれた三国志の舞台である。おりしも日本では、大三国志展(東京富士美術館)が開催されており、関心が高まっている時であった。 孔明を祀る廟に立った瞬間、私は霊気に打たれた。遠くに見える山並み、眼下の平野、かつては諸葛亮も通ったであろう小路。それは、この地が発する霊気であり、風水の見事さであり、地場の磁気であり、波動の活力であった。元をただせば、孔明の人格がこの土地に染み付き、その反映としてそれらは発せられるものであろう。 孔明の冠と衣類が埋葬された衣冠塚、孔明の死期を知らせた隕石を収めるほこらが立てられていた。何ともいえないすがすがしさ、あたりをはらう荘厳さ、明るいサルスベリの花、歴史を語る白い壁、その横に、孔明の像を彫った石板が斜めに立て掛けられていた。田渕先生に声をかけ、この像を写して下さいとお願いした。先生作の孔明像を見て、「あー! きっと孔明とは、こういう方であったろう」と、私はうなづいた。「一詩二表三分鼎(※7) 萬古千秋五丈原」と両脇に記された霊廟で私は、法華経の方便品、寿量品の自我偈と題目を三百遍唱えた。そして、「孔明よ、御安心下さい。あなたの理念は時を超え、日本に於いて多くの青年がしっかりと受けとめていますよ。これからも世界の平和の為に見守って下さい」と念じた。 今日まで孔明が人気があるのは「私利私欲がないからですよ」と、中国の方は語っていた。孔明は、自ら桑畑を耕し、蚕を飼って、自分たちで身を立て、奥さんも劉備玄徳に恩を報いる為に、子供たちに高い地位を付けてやることなく、主君に仕える夫を助けたという。孔明の生き方は、『出師の表』にあるように、死を賭しても、劉備の恩を返すために、戦いぬくというものであった。人生をどう生きるのか、自分は何の為に生きるのか、その根源的な問いかけなしに、今日の世界的な混迷の闇を破ることはできない。孔明の言葉に「淡白以明志 寧静以致遠」(※8)とある。利益をあくどく追求しないで、淡白であることによって自分の心を明るくし、理想に生きることができる、また、常に心安らかに本質を見ることによって、遠大な目標も達成することができる、との意である。 五丈原の地で田渕先生は、改めて創作活動を支援して下さっている多くの方々への報恩と、天地につかえる心をもって絵筆を走らせておられたが、私も、師に対する報恩感謝の人生と、足るを知る、「知足」(※9)の人生を生きることを誓った。 後ろ髪を引かれる思いで五丈原を後にした我々は、永泰公主の陵墓と乾陵博物館に向かった。乾陵は、唐の高宗と則天武后(※10)が合葬された・唐陵の冠・とうたわれる壮大な墓である。永泰公主は、則天武后の孫にあたり、701年に17歳で美麗高貴の生涯を閉じた女性の墓陵である。この博物館に入るや、田渕先生は目の色を変え、まるで美の女神がとりついたかのように描き始めた。17歳の少女の第二の人生がさびしくないように陪葬された色あざやかな唐三彩が自然光の中で、田渕先生のまなこから手の先の筆を通して、動き出すかのごとく紙面におどり出した。 田渕先生は 同行したガイドは帰路の車中で、「何百回もここに来ていますが、田渕先生のおかげで、今日初めて中国の文化のすばらしさがわかりました。ありがとうございます。また来て下さい」と、心から御礼を述べていた。 翌7月24日、田渕先生は、朝一番で再び陝西歴史博物館におもむき、「ラクダに乗った楽人の唐三彩」を完成させた。これから我々は、この明るい唐の時代をはるかに超える人間の都、美の都を作らねばならないと、深く決意した旅であった。 (※6)土井晩翠の詩。処女詩集『天地有情』(1899年〔明治32〕博文館)に収められている。 (※7)孔明の功績を選んだもので、中国辛亥革命の元老孫墨佛氏の所撰による。一詩とは「梁父吟」と呼ばれる孔明の詩のこと。春秋時代の斉の名宰相晏嬰が、将来国に災いするかもしれない3人の人物を、策略をもって除いた故事をうたったもの。全文と解釈は以下。 歩出斉城門 遥望蕩陰里(斉の城門を歩み出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めると)里中有三墳 塁塁正相似(そこに墓が三基ある。並んで立ち、よく似ている)問是誰家墓 田疆古冶子(誰の墓か問うと、公孫接・田開彊・古冶子の墓であるという)力能排南山 文能絶地紀(三人は南山を動かすほど強く、大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学もあった)一朝被讒言 二桃殺三士(ところが、ひとたび讒言を被り、二つの桃が三人を殺した)誰能為此謀 国相斉晏子(誰がこんな謀をしたのか。それは斉の宰相晏嬰だ) 春秋時代の斉の宰相晏嬰は、あるとき、力が強く頭もいい3人の勇士を脅威に思い謀をめぐらした。2つの桃を用意して、3人に「功績のある人にこれを食べる資格がある」と告げ、1番功績があるといえる古冶子を差し置いて、公孫接・田開彊2名が桃を食べるようにしむけた。2名が食べ終わった後、古冶子にその功績を言わせる。彼は「黄河の主の大亀を捕らえた」と言ったので、先の2名は自分達の功績が及ばないのに桃を食べたことを恥じて自決した。さらに、古冶子も2人が死んでなお生きている自分を恥じて後に続いた。結局、3人とも除く事ができた、というもの。二表とは、227年(建興5)と翌年の、2度の出陣にあたって、その決意を劉備の子劉禅に提出した「前・後出師の表」のこと。三分鼎とは天下三分の計で、魏と呉に対して、蜀を対峙させたこと。 (※8)54歳の孔明が8歳の息子に書いた『誡子書』にある。 (※9)深澤賢治氏が塾長をつとめる中斎塾フォーラムの季刊誌『知足』があり、足るを知るの意。もとは、老子の「禍莫大于不知足」(禍は足るを知らざるよりも大なるはなし――災厄は足ることを知らぬ心に起因している)から。 (※10)則天武后は、高宗の皇后。高宗在位中から実権は武后が握り、皇の没後、一時期(15年間)皇位に就いている。 |