第2406回 丸の内朝飯会 【前編】 平成27年6月4日午前7:30〜8:45
*本稿は、当日の内容をベースに一部加筆訂正しました。 健康のために おはようございます。 私は、港区・愛宕にあります会員制クリニックの仕事を本業としております。 これは、今日考えうる最高の医療サービスの提供を目指して設立したものでありまして、慈恵医大の前にあるビル内の約300坪のフロアに開院しておりますが、おかげさまで、会員となられた方が会員を紹介してくださる好循環で、現在、ほぼ満杯となっております。 私自身は医者ではありませんが、会員サービスとヘルスケアを主たる業務として、このクリニックの管理会社T&Y株式会社の代表取締役社長の立場で、医療と健康にまつわる現代の需要に応える事業をさせていただいている次第であります。 太陽を生み出すロータスの力 同時に私は様々なボランティア活動をしております。そのなかで、もう1つのライフワークとして取り組んでいるのが法華経の研究でして、一般社団法人サンロータス研究所というものを作って、その理事長を務めております。 この研究所の名前でありますが、サンロータスという名前を何故つけたのか。ここに私の著書『サンロータスの旅人』(2010年12月14日発刊)を持ってまいりました。これは、私の還暦を記念して、半生を振り返り、今後の後半生へのスタートを切るために出版したものです。何も知らずにこれを見た人は、この「サンロータス」を、しばしば「サンタクロース」と読んでしまわれるのですが、この表紙に使っている絵に、その理由があります。 この絵は、小平市にある創価学園で美術を教えておられた田渕隆三画伯が描かれたものですが、約3300年ほど前の古代エジプト、ツタンカーメン王(新王国時代、第18王朝)の墓からの出土品の1つを描いたものです。 ツタンカーメンといえば『黄金のマスク』ばかりが有名ですが、それもさることながら、私どもは、この彫刻の重要性を強調したいと思っております。 この台座は蓮華を表しておりまして、蓮華から再生するツタンカーメンを表しています。 私は仏教徒でありまして、仏像といえば、インドはもちろん、中国や日本でも蓮華座に載っかっていますから、蓮というものは、仏教のインドが起源とばかり思っておりました。 ところが、今から10年前後まえのことですが、田渕画伯と2人の陶芸家の友人、渡辺節夫さん、松下雄介さんとともに、世界の美を巡る旅をするなかで、2004年にエジプトの旅をしまして、そのなかで、約5000年前の古代エジプトの創世神話には「ロータスから太陽が生まれる」というのがあることを知りました。 厳密にいうと、古代エジプトのロータスとは、睡蓮のことを指すのですが、巨大なロータスが原初の水(ヌン)から浮き上がって、そのつぼみが甘美な香りを放った。そして、ロータスの花が開き始めると、花の中心から太陽が生まれ出たというものです。(*クリスティーン・エルマディ「レーの創生神話」〔アリス・ミルズ監修『世界神話大図鑑』荒木正純訳監修 東洋書林 所収〕参照) 古代エジプトは太陽信仰で、王はラーとかアモンといった太陽神の化身とされますから、この彫像は、死せるツタンカーメンが太陽神としてロータスから再生するという願いを持って作られたものととらえることができるのです。 また、本の裏表紙には、ロータスから太陽が生まれる場面を表現した古代エジプトのレリーフの写真を載せています。このレリーフは、デンデラという女神ハトホルの聖地の神殿遺構にあるものです。この神殿遺構そのものは、紀元後1〜2世紀頃の古代ローマ時代のもののようですが、古代エジプトの様式を受け継いでおり、古代エジプト神殿がどうであったかをよく伝えるものであるとされている遺構です。 この太陽とロータスの文明は、のちのちお話ししたいと思っておりますが、法華経に代表されるインドの仏教と、その生命観において共通点がありまして、その仏教は中国、韓半島諸国、そして日本に伝えられている。 そうすると、かのシルクロードを凌駕する、古代エジプトを源流とした東西に伸びる太陽とロータス、サンロータス・ロードを想定できます。 それで、この世界に光をもたらす太陽さえ生み出すロータスの力を究めようという意味から、『サンロータスの旅人』といたしまして、サンロータス研究所といたした次第であります。 今は、まだ何も生んでおらず、収入をそれにつぎ込むばかりで、女房からも「どうするつもり」と心配されているのですが、そこで取り組んでいるのが、このサンロータス文明の粋と位置付けられる法華経の研究であります。 被爆者の家に生まれる 私が特に法華経にこだわる理由は、私の生い立ちと関係があります。 私の家は、広島の原爆で大変な思いをした家庭でした。 私の祖母、國貞リョウは、戦時中、爆心地近くの陸軍病院で看護婦長をしておりまして、原爆のときは、隔離患者に付き添って爆心地の南西1kmあまりの地点で被爆、ガラスの破片などによって瀕死の重傷を負って1週間後に見つかりました。母、智佐子は、市の西部、爆心から3kmほどの家にいて直接の被害は免れましたが、放射能を帯びた黒い雨を浴び、祖母を捜して爆心地をさまよい歩きましたから、間接被爆をいたしました。 私は、その後の生まれですが、小学校に上がるまで1本の髪の毛も生えてきませんでした。私は当時「せいぼー(誠坊)」と呼ばれていたのですが、何で頭がツルツルなんだろうと思っていたら、祖母が言いました。「せいぼー君、あんたの頭がツルツルなのはピカドンのせいじゃ」と。それで初めて私は、原爆のことを知りました。私が10歳ころのことです。それと「あんたにはお兄さんがおったけど、生まれて18日、3週間になる前に、真っ白だったのが真っ黒になって、死んでしもうた」と知らされて、それもまたピカドンの毒のせいだと教えられました。 当時を思い返せば、家の中は本当に悲惨でした。戦争から帰ってきて母と結婚した親父は、原爆の後遺症に苦しむ義母がいて、やっと子宝に恵まれたと思ったら、その子が生後すぐに亡くなるとなって、酒に溺れるようになりました。原爆のおかげで、こんな家庭があるかと思うほどにひどい家庭の状況でした。 法華経との出合い そんなあるとき、祖母が突然、南無妙法蓮華経と唱え始めます。創価学会に入会したのでした。当初は「変な新興宗教に取り憑かれたか、困ったものだ」と思っておりましたが、これを境に、私の家は明るくなって、希望が開けて大きな転換が始まりました。 家は、創価学会の座談会の会場になりました。来る人は、貧乏ではあるけれど、皆、本当にいい人たちでした。 あるとき、バタンと玄関の方から大きな音がするものですから行ってみると、男の人が倒れていました。聞くと「バス代がのうて、ここまで歩いて来たけど、腹が減って、もうだめじゃ」と。 それを聞いた祖母が「ちーちゃん、おにぎりを握れ」と言って、「ちーちゃん」とは母の智佐子のことですが、そこで母が、握り飯をこしらえるといったことがありました。その男性も座談会の参加者でした。その頃はまだ父は入会しておらず、酒に酔っては「どこの馬の骨かわからん者に食べさせるんじゃない。追い出せ!」と叫んでばかりでしたが、ともかくそんな騒々しいというか、活気に満ちた家に、いつしか変わっていきました。 私も幼心に家庭の変化を感じて、祖母を助けたいと思って「おばあちゃん、わしが信心したら喜ぶか」と聞くと「そりゃ、せいぼー君が信心するなら嬉しいよ」と言われたものですから、ちょうど10歳でしたが、創価学会に私も入会いたしました。以来、55年が経ちます。 それで、創価学会では、勤行といって、朝晩、法華経の28品(章)のうち、最重要の方便品第二と寿量品第十六を読誦しておりますが、私もこの55年間、これを実践してまいりましたから、私にとって法華経は身近なものとなり、強く興味を持つようになったわけであります。そして、法華経を通して仏教全般への興味もまた、強く持つにいたりました。 最近、ネパールに行っているのも、仏教の創始者釈尊の生まれた国を見てみたいとの思いからであります。 実はこのネパールにも、田渕画伯と数回行っておるのですが、世界最高峰であるヒマラヤの山々を見て、その山が乗り移ってあの釈尊という大人格者が育ち、最高の教えである仏教を覚り、その山々の麓から世界に広まっていったということで、最高峰という目に見える確かなものの存在とそれへの感応が鍵ではないかと、田渕画伯とも常々話しながらヒマラヤの麓を巡りました。 ということで『サンロータスの旅人』には、そのネパール訪問も含め、田渕画伯と共に動いた旅のエッセンスも多く載せていますので、表紙のみならず口絵や挿絵には、画伯の作品を多く掲載させていただいております。 そして、それと同時に、私の母が、自身と祖母の被爆体験と仏教徒となってからの信仰体験の手記『ヒロシマの宿命を使命にかえて』を出しまして、それも持参いたしました。私の本は、全然、売れないのに、母の本は飛ぶように売れていまして、現在、4版になっています。母は87歳ですが、いまだに軽自動車を自分で運転して、語り部として修学旅行生などに自らの被爆体験を語っています。 また、母の本は、海外に向けて英文でも出して欲しいとの要望を受けて、被爆70周年の節目を迎えることもあって、昨年、英訳版も出しました。何故、私が仏教徒になったかも、これを読んでいただければ、わかります。2冊とも、順に回覧しますので、どうぞ、ご覧ください。 竹岡流の釈尊観 それで、本題に入ります。 私は、55年間の法華経の読誦のほか、比叡山や高野山に登り、戸隠などの山伏の修行の山にも行きました。それは、今、仏教がどうなっていて、どう息づいているのか、それを知りたいという私の興味からでしたが、今回は、これまでの勉強を踏まえて、竹岡流の釈尊観といいますか、釈尊50年間の説法とは一体何だったのか、短い時間ではありますが、仏教の経典を俯瞰するなかで探ってみようというテーマを掲げてみました。 これは、大それたテーマでありますから、とても1回では無理です。できれば、今日を第1回目として、これまでの大人の探検学校のシリーズとともに、この「仏教経典を俯瞰する」もシリーズ化して、今後、2本立てでやらせていただきたいとも思っております。 皆様にお配りしたレジメですが、3種類あります。1つ目は、本日のために作りました「仏教の法典を俯瞰する」と掲げたプリントで、話題と経典ごとに箇条書きにしたものです。 これには、6世紀、隋代の中国僧、天台大師(智リ)の説ですが、釈尊一代の説法を、その内容によって五時に分類したものがありまして、非常によく整理されているものですから、それを添付いたしました。 また、一般によく知られている経典である般若心経のコピー。それと、私が朝晩読誦し感銘するとともに、一番理解していると自負しているところの経典である法華経の方便品第二の部分を、経文と書き下し文に、私なりの注釈を付けたものを添えておきました。 実は、この方便品のこの部分は、法華経における釈尊の第一声にあたります。 なお、今回の私の話は、一つは、東大インド哲学科出身の宗教評論家、ひろさちや氏の『感動するお経』(ユーキャン)というのがあって、各経典の特徴をわかりやすく解説されていますので、これを参照いたしました。また、言葉の正確さを期すために、創価学会が編纂して聖教新聞社が出した『仏教哲学大辞典』を参照しております。 釈尊の生没年 まず「仏教の法典を俯瞰する」についてですが、これは「法典」としましたが、「経典」でもかまいません。それで、各項目についてですが、最初に確認しますと、釈尊の残した経典は「八万法蔵」といわれるほど膨大ではありますが、一般的には、日本に伝わって私たちが目にするのは、そのうち30経典ぐらいであって、それらを知っておけばほぼ問題ないということであります。 それで、お釈迦様の生没年についてですが、諸説あって定まっていません。古代インドの人々の関心事は、永遠なるものへの探求など、別のところにあって、歴史を記録する習慣がなかったため、明確な史料が残っていないのです。それで、当時、インドと交流のあったギリシャ世界に残された記録や、インドでも後世の史料、さらには法顕や玄奘など、中国からの求法僧の記録を頼りに推定しているのですが、やはり、統一見解はないというほかありません。 そのなかで、あえて申し上げるなら、紀元前566年に生まれて紀元前486年に亡くなった、もしくは、紀元前463年に生まれて紀元前383年に亡くなったとする2説が有力です。 また、中国や日本の仏教界では、ある時期まで、紀元前1070年生まれ紀元前949年入滅説が取られてきました。これは、6〜7世紀の唐僧法琳が『周書異記』等の書物に、周の昭王24年(紀元前1070年)4月8日誕生、穆王(ぼくおう)52年(紀元前949年)2月15日入滅とあると主張したことによって広まったもので、特に平安時代から鎌倉時代にかけては、この説が主流となっています。 なお、付け加えて申し上げますと、この法琳説の根拠とした『周書異記』ですが、老子など中国古典研究で知られる楠山春樹博士によると、法琳自身もしくは側近者による偽書とされています。 ただ、いずれにしても、お釈迦様は、80年間の生涯であったということでは、共通しています。 ルンビニとアショーカ王 また、お釈迦様は、どこで生まれたか、これも近年まで謎でありまして、皆さん、この点は、ご存知でしょうか。 (インドとの声が上がる) そのとおり、インドだと長く思われていたのですが、実は、ネパールです。 ネパールのルンビニというところでお生まれになりました。 ところで、これがどうして特定されたか。これは、アショーカ(阿育)大王という、紀元前3世紀にインドをほぼ統一した人物がおりまして、その大王の残した石柱が決め手となりました。 アショーカ大王は、最初は武力によって周囲を従わせる残虐極まりない王でしたが、戦場のあまりの酷たらしさに改心して、仏教に帰依し、その非暴力の精神をもって、法による支配を宣言してインドに平和をもたらしました。 そして、その精神を留めるために、石柱法勅、あるいは摩崖法勅や洞院法勅といった碑文を各地に残したのですが、ルンビニからもその石柱が発見され、そこには「王は、即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行なった。ここで釈迦牟尼仏が生まれたもうたからである。ルンビニ村は税金を免除せられ、8分の1のみを払うものとされる」という趣旨の文言が刻まれておりました。 ここに、ルンビニがその地であると確定されることとなったのであります。 石柱は、1896年、ドイツの考古学者フューラーによって土に埋もれた状態で発見されたものです。 さらに申し上げますと、アショーカ大王が各地に碑文を残し、残された碑文が発見されたからこそ、生誕地はもちろんのこと、釈尊それ自体の実在が証明されることとなりました。アショーカ王の実在についても、しかりでありますが、それらが伝説上のものではなく、実在したのだと証明されてから、ほんの100年ほどしか経っていないということなのです。 釈尊生没年とアショーカ王 なお、先ほどお話しした釈尊の生没年についても、1説は、アショーカ大王にまつわる伝説より導き出されたものです。ご紹介した2説のうちの紀元前463年から紀元前383年説がそれですが、大王の出現は釈尊入滅100年後との伝承が北伝の諸資料にあって、それに、仏滅後より大王の即位までに5人の王がいたとのスリランカの伝承を加味して仏教学者の宇井伯寿博士が導き出し、それを、インド仏教哲学の権威中村元博士が、大王の即位年は紀元前268年頃とするその後の研究成果をもって修正したものです。 ちなみにもう一方の紀元前566年から紀元前486年説は、それ以前に出された説で、『大正新脩(しんしゅう)大蔵経』の監修等で知られる広島県出身の仏教学者、高楠順次郎博士が、中国の古書『衆聖点記』を根拠に、となえた説です。 『衆聖点記』には、インドでは仏教教団の人々は雨季に入ると托鉢に出ず、寺院等に集まって修行する習慣となっていて、釈尊入滅後、その雨季の修行期間(雨安居)明けに中心の長老が、代々伝えられてきた律典(戒律を収めたもの)に1点ずつ記して残してきたとの記述があります。 そうすると、その打たれた点を数えれば、釈尊の入滅年がわかることになりまして、具体的には、489年に南斉の僧伽跋陀羅(そうがばっだら)が、翻訳書『善見律毘婆沙(ぜんけんりつびばしゃ)』に975個目の点を加えたことを根拠に計算されたものです。 四門出遊から覚りへ それで、お釈迦様は、釈迦族の王子として育ちます。そして、これも時期については諸説あるのですが、1説には、19歳のとき、四門出遊といいますが、カピラヴァストゥ(迦毘羅衛)の城の東西南北の4つの門があって、東門では老人を、南門では病人、西門では葬儀の列に遭遇した。そして最後に北門で托鉢の修行者を見て決意をし、東の門から出家します。つまり、人々の生老病死の四苦を見て、その救済法を求めての出家であったということです。 その後、インド各地で難行苦行の末、30歳のとき、ブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いたとされています。 その時期については、諸説あると申し上げましたが、出家を29歳、覚りを開くのは35歳とする説も有力です。 また、難行苦行をしたと申し上げましたが、お釈迦様は、誰も及びもつかないほどのあらゆる苦行をされたことは確かですが、実は、体を苛めるような苦行では覚りは得られないということを覚って、快楽でも苦行でもない、中庸というべきか、穏やかな状態の中で覚りを開きます。ナイランジャナー河(尼連禅河)で沐浴してスジャータという村娘から乳粥をもらって、気力・体力を充実させ、菩提樹の下に結跏趺坐して覚るというわけです。 華厳・阿含 覚りを開いた釈尊が最初に説いたのは、天台の五時では、華厳経だとしています。 それは、覚りの内容を試みにそのまま説いたもので、ブッダガヤの菩提樹の下、21日間にわたりましたが、聞く者には難解で、彼らの理解力を大きく超えた内容でありました。 それで、釈尊は、聞く相手に応じて説くべきと考え、まずは、かつての修行仲間5人のいる場所、ガンジスの聖地ベナレス(ヴァラナシ)の近く、鹿野苑、今のサールナートに行って、彼らを相手に法を説きます。これを初転法輪といいます。 五時では、これを含むその後の12年間を、衆生の誘引を主眼として説法された時期として、これを阿含時、もしくは鹿野苑で始められたことから鹿苑時とも呼んでいます。 この阿含時の説法は阿含経と総称され、後の大乗教の立場から小乗教と位置付けられて批判の対象となりましたが、出家者のための厳しい戒律が説かれる一方で、衆生の機根に応じて対話する釈尊の人間主義が垣間見えるものもあり、一概に小乗教とはいえないものも含まれています。 そもそも阿含(アーガマ)とは、釈尊滅後、弟子たちが決めたその教えの呼称で、聖教という意味です。つまり。伝承された釈尊の教え全般を指すものでした。 方等・般若を経て法華・涅槃 続いて16年間の方等時、14年間の般若時となります。方等とは、方正、平等の意で、般若と合わせて大乗教を説いた時期を指します。経典では、方等時は浄土三部経、維摩経など、般若時は、摩訶般若などが説かれました。 そして72歳のときに「今まで説いてきたことは、すべて方便であった。これから真実を説く」といって、以後、8年間、法華経を説きます。そして、最後に涅槃経を説いて生涯を閉じるとなります。この最後の8年間は、五時の最後、法華・涅槃時です。また、この時に説かれた経典を、本物の大乗教であるということで、実大乗教と呼び、それまでを権大乗教として区別しています。 以上は、最初に申し上げたように、あくまでも天台が、教判といいますが、天台なりの高低浅深の判断を基に、釈尊の教えを五時に分類したものであって、必ずしも説かれた順番どおりではありませんし、立場によって様々な見方があることをお断りしておきます。 第1回仏典結集 それで、釈尊の教えは、80歳で入滅して後、その年のうちに、十大弟子の最長老であった摩訶迦葉(マハーカーシャパ)を中心に、阿難(アーナンダ)、優波離(ウパーリ)など500人の弟子が集まって、マガダ国の王舎城近くの七葉窟において行われた、いわゆる第1回仏典結集で集成されました。 釈尊自身の説法は、口述のみでされており、書簡や著作といった文字として残されたものは1つもなく、弟子たちもまた、その都度暗誦によって自分のものとしていましたので、こういった結集作業が必要だったのです。そして、第1回結集を含め、滅後2〜300年間の伝承作業もまた、口承によるものでした。それが文字化されるのは、紀元前1世紀頃になってからと推定されています。 そこには、口承でこそ真意が伝えられるという考え方があったからであり、それも一理あるのですが、たとえば伝言ゲームなど、伝えるうちに中身が抜け落ちたり、変化したり、あるいは当初はなかったことが加わったりすることがあります。ですから、この口承ということが、後世にさまざまな経典を生じさせた一因となったと考えられます。 それで、第1回結集に話を戻しますと、漢訳された仏典には、どれも冒頭に「如是我聞(是くの如きを我聞きき)」とありますが、「私はこう聞いた」と、それぞれの記憶を基に互いに確認しあって、経典が編纂されていきました。なかでも「多聞第一」と称された阿難の記憶力は抜群で「如是我聞」の「我」は、ほとんどの場合、阿難のことを指しているといわれるほどに、その編纂においては中心となりました。 ちなみに、釈尊の高弟で後継者と目された舎利弗(シャーリプトラ)や目連(マウドガルヤーヤナ)は、釈尊に先立って没しており、これには参加していません。 ともかく、そこで集成された経典が、先程来お話ししている天台の五時の分類でいうところの『阿含経』であり、大乗教の立場から、小乗仏教と呼ばれます。 小乗というのは「まず自身の欲望を棄てよ」といった、出家者自身を厳しく律する内容が多く、自身の解脱のみを目標として、大衆を救おうとしない小さな乗り物にすぎないとの意味です。 いずれにしても、初期経典が戒律的なものが中心となったのは、舎利弗や目連の不在など、それなりの当時の教団の事情があったものと考えられています。 4回の仏典結集を経て大乗教の興隆へ 仏典結集は、以後、互いの記憶を摺り合わせるために、ほぼ100年ごとに行われました。王舎城と祇園精舎のあった舎衛城を結ぶ交易路の中間に位置していたヴァイシャーリーにおいて第2回目、アショーカ大王治世下の首都、華氏城(パータリプトラ=現パトナ)において第3回目、クシャーン朝のカニシカ王治世下、インド北西部の山岳地帯カシミールにおいて第4回目があったとされています。 このなかで、最後の仏典結集の時期は、カニシカ王の実際の在位は紀元後2世紀頃とされていますから、伝承と合わないことになりますが、ともかく4回の仏典結集をはさんで、仏滅後500年頃、マハーヤーナ、広く大衆を救済できる大きく絶対的な乗り物、大乗教が興隆します。これは、西暦でいえば、紀元後まもなくの頃となります。仏教教団は、第2回目の仏典結集以後、戒律に厳格な上座部と各地の風俗・習慣に柔軟な大衆部に分かれ、大乗教は、後者の大衆部より興っています。苦悩の民衆を教化していくことこそ釈尊の本意であるとして、世俗を離れて山林に閉じこもって自らの解脱のみを求める主に上座部より派生した部派仏教の僧侶たちを、ヒーラヤーナ、小乗派として批判するなかで興起した運動でした。 般若経 大乗経典では、それまでが阿羅漢(聖者)になることを目指させたのに対し、菩薩の修行によって釈尊と同様の仏になれると説いており、その代表は法華経ですが、その前に般若経があります。 般若経とは、一切皆空の理を説いた初期の大乗経典群の総称ですが、ここでは、7世紀、唐の玄奘三蔵が簡潔に要約して300字以内(経題を含めて276字)に漢訳した摩訶般若波羅蜜多心経を見てみたいと思います。 経題にある摩訶般若波羅蜜多まではインドのサンスクリット(梵語)、マハー・プラジュニャー・パーラミターの音を漢字に当てはめており、摩訶とは大きい、般若は仏の智慧のこと、波羅蜜多は完成されたという意味。末尾の心経は、原語のフリダヤ・スートラの意味をとった漢語で、合わせて「大きな仏の智慧をもって、完成された境地に至る心の教え」といった意味の経典となります。 読んでみますと、まず、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)。これはいわゆる観音様のことです。玄奘は、これを観自在菩薩と訳し、後で触れますが、法華経の名訳で有名な鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、観世音菩薩としています。 その後、行深般若波羅蜜多時(ぎょう じん はんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけん ごうん かいくう)度一切苦厄(ど いっさい くやく)と続いています。 「照見」とは「はっきりと見極める」、「五蘊」とは「五陰」とも書きますが、色受想行識(色は物質面、その他は精神面の諸作用)という生命を構成する5つの構成要素のこと、「度」は「超克する」という意味で、ここまでの経文は「観音様が深く般若波羅蜜多を行じられた時、五蘊皆空なりと見極められて、この世の一切の苦しみを超克された」となります。 次の、舍利子(しゃりし)色不異空(しき ふい くう)空不異色(くう ふい しき)色即是空(しき そく ぜ くう)空?是色(くう そく ぜ しき)受想行識(じゅ そう ぎょう しき)亦復如是(やく ぶ にょぜ)ですが、「舍利子」は、釈尊の高弟で智慧第一といわれた舎利弗のことで「舎利弗よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空、空はこれ即ち色なり。受想行識もまたまたかくの如し」と、先ほどの五蘊を開いて説いています。 続けて、舍利子(しゃりし)是諸法空相(ぜ しよほう くうそう)不生不滅(ふしょうふめつ)不垢不浄(ふくふじょう)不増不減(ふぞうふげん)と「舎利弗よ、すべての存在は空なるものであって、したがって根源的には生ずることもなければ滅ずることもない、けがれたものもなく浄らかなものもない、増加も減もない」と、覚りの内容が語られます。 小乗教を批判・叱責 その後は、是故空中無色(ぜ こ くう ちゅう むしき)無受想行識(む じゅ そう ぎょう しき)無眼耳鼻舌身意(む げん に び ぜつ しん い)無色声香味触法(む しき しょう こう み そく ほう)無眼界(む げんかい)乃至無意識界(ないし む いしきかい)無無明(む むみょう)亦無無明尽(やく む むみやう じん)乃至無老死(ないし む ろう し)亦無老死尽(やく む ろう し じん)無苦集滅道(む く しゅうめつどう)無智亦無得(む ち やく む とく)以無所得故(い む しょとく こ)ですが。これらは小乗教を批判・叱責する文言となっています。 この前半部分は「この故に、空の中には、色、そして受想行識といった五蘊もなく、眼耳鼻舌身意という六根もなく、したがって六根が感じる色も声も香も味も触も法もない。眼界もなく、乃至、意識界もない」ということで、六根清浄とよくいわれますが、小乗教では、それを目指すように教えましたが、大きな真理から見れば、そんなことは意味を持たないと説くのです。 後半でも「無明もなく、また、無明の尽くることもない。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもない」ということで、これは十二因縁という、無明(真理に無知なこと)にはじまり老死までの苦の原因12系統を立てたものがあって、小乗教では諸苦を失わせることを説いたのに対して、また、その後の「苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に」も「苦集滅道」の四諦として、この世の苦しみは欲望が集めるのであって、その欲望を滅するには正しい修行がそれに至る道であると小乗教で説いていたのに対し、同様に、本来意味のないこととするのです。 大乗を宣揚 そして、続く部分、菩提薩タ(ぼだいさった)依般若波羅蜜多故(え はんにゃはらみった こ)心無ケイ礙(しん む けいげ)無ケイ礙故(む けいげ こ)無有恐怖(む う くふ)遠離一切テン倒夢想(おんり いっさい てんどう むそう)究竟涅槃(くきょう ねはん)三世諸仏(さんぜ しょぶつ)依般若波羅蜜多故(え はんにゃはらみった こ)得阿耨多羅三藐三菩提(とく あのくたらさんみゃくさんぼだい)で、大乗の立場を説いていきます。 まず菩提薩?は、大乗経典が強調する菩薩のことで、化他を実践するところに特徴があります。すなわち「菩薩行の実践者である菩提薩?は、般若波羅蜜多に依るが故に心に?礙、わだかまりや妨げはない。?礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の?倒夢想を遠離し究極の涅槃の境地となった。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提、つまりは最上の正しい覚りを得たまえり」と、大乗を宣揚します。 そして最後に、故知般若波羅蜜多(こ ち はんにゃはらみった)是大神呪(ぜ だいじんしゅ)是大明呪(ぜ だいみょうしゅ)是無上呪(ぜ むじょうしゅ)是無等等呪(ぜ むとうどうしゅ)能除一切苦(のう じょ いっさいく)真実不虚(しんじつ ふこ)故説般若波羅蜜多呪(こ せつ はんにゃはらみったしゅ)即説呪曰(そく せつ しゅ わっ)羯諦。羯諦。波羅羯諦(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼじそわか)般若心経(はんにゃしんきょう)です。 「呪」とは「咒」とも書いて、特別な力を持つ祈りの言葉を指しており「羯諦」以下は秘語として訳さずに「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪なり。これ大明呪であり、無上の呪であり、比類ない呪である。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説くのである。すなわち呪を説いて曰わく、羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経」と、般若波羅蜜多を讃えて、呪文を唱えて結んでいます。この呪のところは、あえて訳せば「行こう、行こう、彼岸に行こう。一人で行かずに、この船に乗ってみんなで行こう。そしてみんなで幸せになろう」といった意味とのことです。 それで、小乗教を批判していると申し上げましたが、小乗教が目指した解脱とは、極めると「灰身滅智(けしんめっち)」といって、生死の苦しみの原因である欲望や煩悩の一切を断ち切るために、自らの心身を滅することを理想とすることになりました。そして、そのために苦しい修行を強いて、そのなかでだんだんとそれに近づいていくというもので、その境界を声聞・縁覚といいますが、あくまでも自身一人のための解脱でした。それに対して、一切が空であるとして、そのような修行を否定して、一人が覚るというのでなく、多くの人と一緒に仏の大きな世界へと呼びかけたわけです。 「空」の概念 ここで、これまで何度も登場してきた「空」の概念について説明いたします。これがわからないと、般若心経も本当には理解できないからです。それは、けっして空っぽという意味ではありません。 それで「空」についてですが、紀元2世紀、南インドに現れた龍樹(ナーガールジュナ)という論師が、大乗経典を体系化するなかで明らかにしているのですが、端的にいえば「一切の現象や事象は、それが生じるまでは無に見える。だが、それは無ではない。それは『空』である」ということです。そして、これは「縁起」というのですが、一切は他との依存性によって、つまり「縁」によって起こるという原理を前提としています。 ともかく「空」を認めれば、完全な無も、完全な終わりも有りえないということになって「不生不滅」となりますから、小乗の「灰身滅智」など、そもそも不可能であり無意味となるのです。そして、そこから、生命は永遠であるという法華経の考え方へと発展していきます。 維摩経 続いて、代表的大乗経典であります維摩経(維摩詰所説経)を、お話しいたします。 これもまたユニークな経典です。これを漢訳したのは鳩摩羅什で、生没年は紀元後344年から413年、350年から409年など諸説ありますが、西域の亀茲国(クチャ)に生まれてインド北西部で修行をして数奇な運命を経て、401年、中国(後秦)長安に入り、亡くなるまで、法華経など、膨大な経典を訳しました。先ほどの玄奘訳がどちらかといえば原本に忠実な直訳に対して、鳩摩羅什訳は各経典の本質を理解しての意訳という特徴があります。 それで、維摩経ですが、在家信者の維摩詰(ヴィマラキールティ)を主人公とする経典で、結論的には、お釈迦様は出家者のみを相手にしたのではなく、どんな人にも救いがあることを説かれたのだと教える経典で、われわれのような世俗の人間には、納得しやすく共感の持てる内容です。 維摩詰の活躍の舞台は、第2回仏典結集でも知られる自由商業都市ヴァイシャーリーで、大乗教興隆にふさわしい土地柄でした。 維摩詰は、商売で得た利益を独り占めせず、大衆に還元する高潔な人物として描かれています。彼の名、維摩詰は、その高潔さから付けられた名前で「汚れなき名声」という意味で、その意味から「浄名」とも呼ばれます。 それで、ヴァイシャーリーには、ある貴婦人によって寄進されたマンゴーの繁る樹園が郊外にあって、お釈迦様と大勢の弟子たちは、そこを拠点にしておりました。 叱責される舎利弗 あるとき、維摩詰が病気になったと聞いたお釈迦様は、弟子たちに見舞いに行くように言います。ところが、誰も行きたがりません。 十大弟子であろうが誰であろうが、会えば、維摩詰には論破され、叱責されてきた。だから嫌ですと。なかでも舎利弗などは、この経典のなかでは、終始けなされっぱなしです。舎利弗といえば、前にも申し上げましたが、智慧第一といわれ、当初は、優れた人物として釈尊よりも有名で、その舎利弗が弟子になったということで「お釈迦様というのは、そんなにすごいのか」と、人々は釈尊に一目置くようになったとの逸話があるくらい優秀でしたが、その舎利弗も形無しです。 結局、文殊菩薩(マンジュシュリー)が病気見舞いを引き受けることになりました。すると「3人寄れば文殊の知恵」といわれますが、これは見ものだと、舎利弗を含め、われもわれもと同行します。 舎利弗は、ここでも槍玉に挙げられます。 「維摩詰の家に行ったのはいいけれど、みんなはどこに座ればいいだろう」、ふとそんなことを思った舎利弗に対して「あなたは法のために来たのか、それともイスを求めに来たのか」と維摩詰は叱ります。 衆生の苦しみをわが苦しみとして 何故、舎利弗は、何度も叱責されるのか。それは、経文のなかにある文殊と維摩詰との問答に答えがあります。 文殊は、病気見舞いの口上の後「何故、あなたは病気になったのか」とたずねます。そこには「日頃、われわれを責めてばかりいるが、そんなあなたの行いが悪いから病気になるんだ」とでも言いたい気持ちがあったのかもしれません。 経文には「白衣(俗人)たりといえども、沙門(出家者)の清浄の律行を奉持し、居家(在家)に処するといえども、三界(欲望の世界)に著(執著)せず、妻子あることを示せども、常に梵行(清浄無欲の行)を修め、眷属(家族や使用人)あることを現わせども、常に遠離を楽(ねが)い、宝飾を服すといえども、相好(仏のような容貌)を以って身を厳(かざ)り、また飲食すといえども、禅悦(禅定の悦び)を以って味わいと為し、もしくは博奕の戯処(賭博場)に至りても、すなわち以って人を度し(中略)諸の婬舎(娼家)に入りては、欲(欲情)の過ちを示し、諸の酒肆(酒場)に入りては、よくその志を立つ」等々と、維摩詰の人物像が語られています。 何をしようが動ぜず、それは、自身の欲望を満足するためではなく、不幸な大衆を救うためであったといっても、維摩詰は、世俗の商売人で家庭をもち、花街や賭博場にも出かけたりする。それは、当時の出家者にとっては桁外れで、肯定し難いと思えたのでしょう。 その非難まじりの問いに対して、維摩詰は答えます。「一切衆生の病むを以て是の故に我れ病む。若し一切衆生の病、滅せば、則ち我が病も滅す。(中略)『是の疾は何の所因より起れる』と言うは、菩薩の病なるものは、大悲を以て起るなり」と。 維摩詰が、舎利弗ら出家の弟子たちを叱責していたのは、自分の完成のみを追求する小乗の生き方を批判していたのであって、衆生の苦しみをわが苦しみとして慈悲をもって利他を実践する、大乗の菩薩の生き方に目覚めさせようとしていたからでありました。 この維摩詰と文殊との問答の場面は劇的で、さまざまな仏教美術の主題になっています。日本では、奈良の法隆寺、五重塔の1階に、8世紀、天平時代の作ですが、その場面が彫刻で生き生きと再現されています。 |