ホテル・エベレスト・ビューでの茶会 2016年5月 ネパール復興を祈って 私たち大人の探検学校「豪太会」のラリグラス・グループ一行9名は、4月25日(月)、羽田発10時35分TG683便にてタイ、バンコクに飛び、翌26日(火)バンコク発10時15分TG319便にてネパールのカトマンズに12時25分、到着。 そして27日(水)、朝一番の便で、エベレスト街道トレッキングの基点であるルクラ(2840m)に飛びました。 今回は、標高3880mのホテル・エベレスト・ビューを目指すトレッキング・ツアーです。 ネパールは、昨春、大地震に見舞われ、その被害は全土に及び、場所によっては現在も十分な復旧がなされていません。 そのなかでエベレスト街道は、何箇所か被害を受けましたが、昨秋には、いち早く復旧がなされて、シーズン開始に間に合わせています。 ところが、被害状況を伝えたニュース映像のためか、トレッキングの観光客は戻ってきていません。 ヒマラヤ観光で成り立っているネパールにとって、そこに観光客が来ないということは、国の経済に大打撃となっています。 これまでエベレスト街道のトレッキングを何度も行ってきた私としては、微力ながらお役に立てないものかと考え、そこで、トレッキングの団を自ら組んで現地に向かうことといたしました。 現地に行き、無事に帰ってくることで、そこが安全であると世界にアピールできる。それこそが、何よりのネパール支援となるというわけです。 われわれのグループ名の「ラリグラス」も、これはネパールの国花シャクナゲのことですが、ネパール復興の祈りを込めて、今回、付けた名前です。
三浦雄一郎監修のトレッキング 今回の参加者は、エベレスト街道トレッキングは初めての方が大半でした。 事前に三浦雄一郎さんに相談したところ、「年寄り半日仕事」を旨として80歳でのエベレスト登頂を成功させたご自身の経験から、それと同じようなゆったりとしたスケジュールを組んで臨むことを提案されました。 そのアドバイスにわれわれは従いまして、午前中歩いたら、午後は休むといった具合に、体調を整えながら行程をこなすことといたしました。 また、事前に、三浦雄一郎さんの拠点で低酸素室のある代々木の三浦ドルフィンズで、数度にわたって低酸素状態を経験する訓練を実施して、アドバイスを受けるなど、万全の準備もいたしました。 というわけで、三浦雄一郎監修のトレッキングとして、通常ならルクラからは3泊ほどでエベレスト・ビューに着くところを、4泊にして、それにエベレスト・ビューに2泊して、計6泊で最終的に4200mのクンデピークまで登る行程となりました。 そのなかで、参加予定者の一人である星川治美さんは、事前訓練のデータから、高所へのトレッキングは危険であると判定され、本人と話し合った結果、トレッキング2日目となる2815mのモンジョまでの中途参加となりました。 なお、星川さんと別れたモンジョでは、ネパールの国鳥で美しい羽根をもつダフェを目撃することができました。われわれが休憩していると、ダフェがやってきて、2時間も3時間も遊んでいました。大変珍しいことだということでした。 感激の再会 三浦雄一郎さんには、2年後の85歳でチョーオユー(8201m)からのスキー滑降という目標があって、当初は、雄一郎さん、豪太さん親子は、これに備えて、訓練でエベレスト街道に入る、その日程に合わせて、途中のナムチェあたりまで同行しようという計画でした。 ところが、参加予定の一人が、どうしても日程が取れないということで、それを諦めて、約1週間遅らせて日程を組まざるをえなくなりました。 ですから、われわれがエベレスト・ビューに着く頃には、雄一郎さん、豪太さんらは、ずっと奥地の標高5000m級の地点におられるはずでした。 4月29日(金)、エベレスト・ビューの手前、ナムチェ(3440m)にたどり着いた時、われわれをめがけて、見覚えのある男が走ってきました。それは、ダヌールという、いつも三浦隊でサポートするシェルパでした。 「やあ、ダヌールじゃないか」 驚く私に「竹岡さん、捜しましたよ」と、ダヌールの言葉が返ってきました。 そして、雄一郎さんの一行がナムチェにいて、われわれを歓迎しようと待っておられると伝えられました。 ダヌールに導かれて行ってみると、会えないはずだった雄一郎さん、豪太さんの顔が、本当にそこにありました。 こうして、われわれは、雄一郎さん、豪太さんと感激の再会を果たしました。 お茶会開催を決定 翌4月30日(土)、三浦豪太さん同行のもと、未明よりナムチェの博物館のある丘に登り、夜明けのエベレストを皆で見ました。丘からは、ローツェ(8414m)越しにエベレストの頂上が見えます。 その後、キャンヅマ(3550m)を経てクムジュン(3780m)に至り、そこで1泊しました。 その宿で、私たちは、ホテル・エベレスト・ビューに着いたら、雄一郎さん、豪太さん、三浦隊同行ドクターの大城和恵先生、登山家の貫田宗男さんといった三浦隊の方々をお迎えして、お茶会を開催することを決めるとともに、どうやって皆さんをおもてなししようかを話し合いました。 大城ドクターは、山岳医としては日本の第一人者で、雄一郎さんの健康管理になくてはならない方です。 貫田さんは、自身、登山家であるとともに、すべての手配をして登頂に導く、いわば登頂請負人です。テレビ番組でタレントのイモトアヤコのマッターホルンやマナスル登頂を指揮したことで知られる人物です。 話し合いの結果、「ホテル・エベレスト・ビュー正午のお茶会」と銘打って本式のお茶会にしようということになり、同行者の月本房子さんが、手書きで「茶会記」のもとになる書面を作成してくださいました。 床に田渕隆三画伯の絵と草木のオブジェ また、その相談の席で、床をどうするかが話題になりました。 悩んでいると、同行の村野啓子さんが「田渕先生の絵があるではないですか」と、提案がありました。 昨年12月、田渕隆三画伯が、ホテル・エベレスト・ビューに宿泊して、近くの丘からホテルとヒマラヤの山々を望む大パノラマを描かれておりました。 その名も『エベレスト・ビュー』という題名で、大きなパネルに複製したものを、この出発前の豪太会で、ホテルを作った宮原巍(たかし)さんに、田渕先生ご自身が贈られたのですが、それが、ホテルに届けられていたのです。 そのパネルを、床の軸に見立てて飾ればいいのではという話です。 それは、いい考えだということになり、それに決定いたしました。 会場になるホテルの食堂の壁面には、もとより床はありません。もともとあった天然の大岩が、壁面にそのまま残されているのを床として、そこに立てかけて飾ることになりました。 さらに、その絵の前を飾る花として、同行の的場洋子さんが、ホテルの周囲から草木を摘んできて飾りますと申し出てくださったので、そのオブジェをもって飾ることとなりました。 手作りの黒文字とお香 もう一つ、大変に感激したことがありました。 日本から羊羹を、お菓子に持って行ったのですが、それに使う黒文字(楊枝)を、同行の伊藤純一さんがホテルまでの道々、落ちている木の枝を拾って、一本一本ナイフで削って作ってくださいました。 それから、香も添えることもいたしました。街道沿いの家々では、吊るした香炉で香を焚いて旅人をもてなす習慣があり、そのなかのいい香りをさせていた一軒に立ち寄って、その香を分けていただいて、それをホテルの暖炉のそばで焚いてもてなすことにいたしました。それは、デュピという名の香木です。これを担当していただいたのは、同行の清水英夫さんで、茶会では素敵な香りが漂いました。
ホテル・エベレスト・ビュー 正午のお茶会 5月1日(日)、ホテル・エベレスト・ビューに到着。 さっそく、私たちは、ホテルの食堂に、前日の打ち合わせのとおりにお膳立てをして「ホテル・エベレスト・ビュー正午のお茶会」を開催いたしました。 雄一郎さんをはじめ参列者は、予定より早く、午前11時半には集合されましたので、始める前の30分ほど、日本の茶道の歴史を、私からお話しいたしました。 なお、会場の食堂は、大きな岩の存在がアクセントとなっていることから、私たちはそこを「大石の間」と呼ぶことといたしました。
以下、茶会記です。 平成28年5月1日 「ホテル・エベレスト・ビュー正午のお茶会」豪太会ラリグラス・グループ 於 ネパール・シャンボチェ 3880m ホテル・エベレスト・ビュー 大石の間 【列席者と役割】 【献立】 御濃茶(亭主、竹岡誠治が点てました) 御薄茶(半東役の佐藤はるみさんが点てた) エべレスト史上最高のお茶会 以上の内容を、月本房子さんが手書きで書面にしてくださったものをコピーして、各参列者の席に置いておいたのですが、三浦雄一郎さんは茶会に大変感激され、その書面にサインをされるとともに「ホテル・エベレスト・ビュー始まって以来、これほどの本格的なお茶会はなかったといえるだろう」「エべレスト史上最高のお茶会でした」とのお言葉をいただきました。 実は、お茶会開催中、エベレストを含むヒマラヤの山々は、雲に隠れていました。それは、田渕画伯の絵に遠慮しているかのようでした。 翌日は、からりと晴れて、くっきりと山々が姿を現しましたから、私たちの滞在中、山が隠れたのは、この時だけだったということになります。 山が姿を見せなかったことで、むしろ、田渕画伯の絵と三浦雄一郎さんに注目が集まり、結果として、お茶会は盛り上がり、雄一郎さんの感想に代表されるように、皆に喜んでいただけた会になりました。 その雄一郎さんがサインした茶会記の書面には、豪太さん、貫田さん、大城ドクター、そして、シェルパのダヌールさんとアッチェリーさんもサインをしてくださって、日本とネパール、両国の友好の意義も含めたお茶会として、こうして成功裏に終えることができました。 また、この日は、佐藤はるみさんが、豪太さんにお点前の手ほどきをし、大城ドクターもお茶を点てられました。 なお、お茶道具とお茶は、残って訓練を続けられる雄一郎さんたちのために、大城ドクターに託して贈呈させていただきました。 雄一郎さんの慈愛 ところで、おられないはずの雄一郎さんたちが、どうして迎えてくださることになったのか。これについては、話は4月17日(日)にまで遡ります。 その日、豪太さんが家族と会社の三浦ドルフィンズの人たちだけで、雄一郎さんの壮行会を代々木の拠点でされておりました。 そこに、豪太会の会長である牧野頴一さんと私とが押しかけまして、私から「後で追いかけていくわれわれのために、どこかで激励していただけないでしょうか」と、雄一郎さんにお願いしました。 その以前に、三浦ドルフィンズのスタッフや貫田さんらに打診したときは、皆、日程上無理だとの返事だったのですが、諦めきれずに直接うかがったのです。 雄一郎さんは、このとき「予定どおりなら、皆さんがエベレスト・ビューに着く頃には、5000mくらいのところに行っていることになっているが、自然が相手だし、何があるかわからないよ。ことによっては、途中でモタモタして、ナムチェあたりで会えるかもしれないよ」と、笑いながら言葉をかけてくださいました。 私はそれで、あるいは雄一郎さんは、スケジュールを調節して私たちと会ってくださる可能性が出たと考えるようになっておりました。 実際に、ナムチェで迎えてくださって、三浦雄一郎さんという人の心の大きさ、慈愛の深さを、改めて知ることとなりました。 クンデピーク登頂と支援金の贈呈 5月2日(月)、ホテル・エベレスト・ビューにて夜明けの見事なエベレストを目にした後、今回の最高到達地点となった標高4200mのクンデピークに登りました。 クンデピークが近づいた頃、再度、三浦雄一郎さんの一隊と合流しました。そこでは、全員と記念撮影をしていただき、皆は、大感激でありました。 ホテルに戻ると、翌日は、当地を離れるので、事前に皆様からお預かりした支援金を、地震で被害を受けたシェルパの代表二人にお渡しして、締めくくらせていただきました。 遊覧飛行でエベレスト眺望を果たす 5月3日(火)、この朝も夜明けの美しいヒマラヤを見ることができました。その後、われわれは、シャンボチェの飛行場からルクラを経由してカトマンズに戻りました。 カトマンズでは、途中で別れた星川治美さんと合流。星川さんは、われわれと別れた後、馬でルクラに戻り、カトマンズに飛んで、釈尊生誕地であるルンビニを訪問して来られました。 そして、翌5月4日(水)、星川さんと女性メンバーとは、カトマンズから遊覧飛行のツアーに参加して、エベレストなどヒマラヤの山々を上空から眺望でき、星川さんは、念願を果たせたと、感激にむせんでおられました。 宮原邸に招かれる さらに特筆すべきことは、カトマンズに着いた5月3日、ホテル・エベレスト・ビューを創建した宮原巍さんが、われわれをご自宅に招いてくださったということです。 宮原さんからは、なぜ、あの地にホテルを建設したのか、どのようにして建設できたのかといったお話をしていただきました。われわれは、そのご苦労を偲び、大変感動いたしました。 宮原さんは、ネパールは観光立国でいくべきとのお考えの持ち主で、それにはホテルが必要だと、エベレストを望むホテルの建設に邁進したわけですが、その時、エベレスト初登頂で知られるヒラリー卿が、反対を表明した。 それに対して宮原さんは、建設意図を話し、環境を重視した設計思想を話して、「それならば、反対しない」と、了承を得て、実現の運びとなった。そのような裏話を披露していただきました。 ホテル・エベレスト・ビューの建設は1971年のことですから、今から45年も前のことになりますが、宮原さんはその後もずっと同じ考えで、現在、新しいホテルの建設をされております。 それは「ホテル・アンナプルナ・ビュー」という名前で、ペワ湖という美しい湖がある景勝地ポカラを見下ろす丘に建設中で、今年の10月には完成予定となっています。 この席では、一目惚れであったという奥様との出会いの頃の写真なども披露くださり、その奥様と娘さんらも同席されていましたので、一緒に写真に入っていただき、よい思い出を作らせていただきました。 そして「次は、ホテル・アンナプルナ・ビューで、お会いしましょう」と申し合わせて、宮原邸を辞しました。 ネパールSGIの本部を表敬訪問 カトマンズでは、帰国のために空港へ向かう途上、未だに被害が残る旧市街を抜けて、ネパールSGIの本部も表敬訪問いたしました。 ネパールSGIの中心者である理事長はサハナさんという、気品のある信心深い女性でした。 青年男性の中心者であるナビンさんにもお会いして、ネパールの明日の光と希望を見た思いがしました。 日本の巨人 三浦雄一郎を感じた旅 帰途は、往路と同じルートをたどり、カトマンズ発TG320便、13時30分発、バンコク着18時15分着、そして、バンコク発の夜行便TG682で5月6日午前6時55分、羽田に無事に到着しました。 思えば、三浦雄一郎という日本の巨人の懐の深さ、慈愛の大きさ、友情と愛情を、深く感じられた最高の旅でありました。 「ラリグラス・グループ」は、今回の旅のために豪太会内に作ったものでしたが、これで解散とせず、ネパール支援も含めて、今後ともこの名前でまとまって活動していこうと、皆で誓い合いって、旅を締めくくりました。 |