サンロータス研究所 中国研修の旅 2016年5月15日~18日 はじめに サンロータス研究所発足から5年目の本年(2016年)、念願の法華経の源流を訪ねる旅が実現した。仏教、なかんずくその最高峰たる法華経の思想が広く文化に反映された時代の中国の古都、洛陽と西安(長安)を巡る旅である。5月15日(日)から18日(水)の3泊4日の日程で、サンロータス研究所に集う8名と田渕隆三画伯の計9名が参加した。 サンロータス研究所は、私の提案で設立したものである。 その設立理由の一番は、法華経の現代への展開であった。 法華経といえば、仏典の代表格として多くの人に知られている。しかし、その全貌を知る人は少なく、法華経の智慧が一般の人々の人生に生かされていないというのが現状であろう。 現代人が読んで、内容がよくわかり、その心が伝わるような現代語訳が是非とも必要ではないか。 そう考えた私は、周囲に呼びかけ、賛同を得た方々とともに研究所の設立に至った。2011年の初頭のことである。 最初に問題となったのは、基準となるテキストをどうするかであった。 巷間で出版されている法華経をいくつか手にとってみると、かなりの箇所に疑問点が付けられるものばかりだったのである。 そこで、私たちは、法華経を一切経の第一に位置付けて南無妙法蓮華経を説かれた日蓮大聖人が用いられた『注法華経』に注目した。 日蓮大聖人のご精神に還るという観点から、これを基準テキストと決め、まず、自らの手で校訂した法華経を世に出すことから始めることとしたのである。 その作業は、教学に造詣が深く、校正マンとしても日本の第一人者である五味時作さんが中心となって精密に行われ、ようやく昨年後半、パイロット版としての結実が、視野に入るまでとなった。 これを受けて企画したのが、今回の旅で、完成したパイロット版を、法華経を漢訳した鳩摩羅什に敬意と感謝を表して、その漢訳の舞台である西安の草堂寺に献呈することをもって一つの区切りとしようと提案した。 実際には、サンロータス研究所版の法華経の完成は間に合わず、さらに時間を要し、本年いっぱいかかる見込みとなった。 では、旅は中止すべきか。いや、鳩摩羅什の活躍したその地に立てば、間違いなく刺激となり励みとなるに違いない。こうして、旅を遂行することとなった。 旅は、初日と最終日は移動に費やすので、実質、中2日の、極めて限られたものであった。 洛陽と西安の2箇所にしぼり、さらに訪問箇所も限定して、中2日のうち1日目は洛陽の白馬寺と龍門石窟、2日目は西安の草堂寺と陝西省博物館に決定した。 洛陽の白馬寺は、中国初の仏教寺院。龍門石窟は、興隆期から最盛期にいたる仏教彫刻の粋が見られる場所。西安の草堂寺は、鳩摩羅什による法華経漢訳の舞台。陝西省博物館は、仏教伝来以前の原始から王朝時代、伝来後の仏教美術の推移等が、作品を通して体系的に見られる中国屈指の博物館である。 雨に煙る上海 5月15日(日)午前7時、羽田空港国際線ターミナルに集合して、中国東方航空MU576便で8時56分離陸、上海浦東空港に8分遅れで10時28分到着。 上海は、雨天であった。 入国審査を経て11時37分、地元旅行社の韓さんの出迎えを受け、11時45分、虹橋空港から出る国内線に乗り継ぐために専用車に乗り込む。 浦東空港は、市中心部の東側、海に面した場所にあり、虹橋空港は市中心部の西側にある。 都心部を避けて外周道路を進むなか、上海と中国事情を、韓さんから聞いた。 直轄市上海は人口2400万、中国一の商業都市で、近年の建築ラッシュで、20階建以上のビルが3000棟以上建った等、凄まじい変容ぶりという。 かつては都市部は豊かで、農村部は貧しいという住民の貧富の差があったが、この建築ラッシュのなか、建築地にされた農地への賠償金で農村住民は潤って、貧富の差は逆転し、農村部の住民の方が羨ましがられる事態となっている。しかし、行き過ぎを政府が制止したため、その建築ラッシュも終わりを迎えているとのことであった。 12時47分、虹橋空港に到着。国内線ターミナル内での待機中、昼食を取り、お土産に旬のライチを購入する。 晴天の鄭州、ガイドの張氏と合流 天候不良のため約1時間遅れで、午後3時20分、上海航空FM9329便にて河南省の省都、鄭州に飛び、約40分遅れの午後5時8分、到着。鄭州は、一転して晴天となった。空港は新しく、ターミナルはガラスを多用して広大である。 5時40分、全線随行ガイドの張さんの出迎えを受け、用意された車で洛陽に向けて高速道路を西に進む。 張さんは、河南省ナンバーワンの日本語ガイドとして知られ、行政の長や民間でも重要な商取引でトップが訪日する際は、いつも指名されるという。 私自身、張さんとの付き合いは長く、12年前の2004年に遡る。 その年の2月、私は、日本であらぬ嫌疑をかけられて当局に逮捕され、22日間にわたって勾留された。3月、不起訴が確定した後、友人の援けがあって1年間ほど中国の深せんを拠点に中国各地を旅する機会を得た。その際に、お願いしたガイドに張さんがいて、知識が豊富で有能な人物との印象をもった私は、旅に出るたびにガイドを彼にお願いするようにしたのであった。 今回も、旅を確定した時点で、ガイドを張さんにお願いしたというわけである。 中国文明の発祥地、河南省 洛陽へ向かう車中、張さんより、以下の説明を聞いた。 鄭州のある河南省は、面積18万平方キロで日本の半分の広さであり、現在、1億人の人口を擁する。5000年の歴史を持つ中国文明の発祥地で、中国の歴史上、首都となった8つの都市のうち4つは河南省内にある。 また「中原に鹿を逐(お)う」(初唐の功臣、魏徴の詩で、『唐詩選』の巻頭を飾る「述懐」にある)との有名な言葉があるが、「中原」とは、この河南省を中心とする華北平原を指しており、「鹿」とは帝位を意味している。この中原を制するものが天下を治めるという意味である。 現代においても河南省、特に鄭州は、7本の高鉄(中国の新幹線)が交差して、東西南北をつなぐ交通の要衝として発展著しいとのことであった。 確かに車窓から見る鄭州の景色は、高速道路や高層ビルの工事現場だらけである。 黄河の恩恵 ところで、河南省の「河」とは黄河のことで、この黄河のおかげで、この地が文明の発祥地となった。 黄河の氾濫のたびに肥沃な土砂が上流より運ばれて、土地が豊かになったことに最大の要因がある(これは、エジプトのナイル川と共通である)。 黄河は年16億tの土を運び、毎年2平方キロの土地が出現する計算になる。おかげで、氾濫後の土地には、小麦などは種を蒔くだけで収穫でき、その生産量は、全中国の3分の1を占める。 ところが近年は、気候の変動によって水量が減り、黄河の氾濫は滅多になくなった。政府によって、北部の水不足を解消するため、長江の水を北京にまで運ぶ水路の建設計画(南水北調プロジェクト)が作られたが、これも少なくなった黄河の水を取るわけにいかないと判断されたからである。なお、この水路は、10年以上の歳月をかけて幅100m、総延長2000kmにわたって掘られた。その水路は、東線、中央線、西線の3本が計画され(われわれも道中そこを渡ったが)鄭州近郊を通る中央線は、2014年末に完成した。 高速道路とグリーン運動 陽が傾くなか、高速道路を西に進む。道の左右は緑地帯となっている。中国の高速道路は、グリーン運動といって、造るときには周りに木を植えることが義務付けられているのだそうだ。また、今の中国では、木を切り倒して畑にするといったことが原則禁止され、1本の木も許可なく倒せないことになっているとのことであった。 中国の中心、嵩山 西に進むにつれて、山が近づいてきた。嵩山である。 張さんは、この嵩山を、次のように説明した。 嵩山は「山が高い」と書くが、標高1512mで、実際にはそんなに高くない。 しかし、中国人にとっては神の山であり、先祖のいた山であって、この山を中心にして中国文化が生まれたのである。 漢字も仏教寺院(白馬寺)も、崇山のある河南省が始まりであった。昔は、河南弁がしゃべれないと、出世もできなかった。 崇山は五岳の一つであり、唐から清までの歴代皇帝は皆、ここに来ている。 なかでも唐の則天武后は6回も来ており、中国一大きい石碑を立てている。 ところで、この石碑には碑文がない。「私がしたことの善し悪しの評価は後世に委ねる」との意味を込めて空白としたとのこと。 嵩山が、中心というのには、地質学的な理由もある。 昔、全土は海であり、30億年前、隆起が始まって最初に現れたのが崇山なのである。そして嵩山を中心に緑の大地が生まれ、そこが中国最初の文明社会となった。 また、嵩山は、麓にある少林寺で有名である。今、少林寺周辺には、30校を超える武術学校があって、各校には1校あたり2万から3万人が学んでいる(たしかに車窓から学校関係の高層ビルがたくさん見えた)。 日が山の端に沈む頃、少林サービスエリアにて、休憩。禅の文字の石碑や少林寺武術をかたどった像が設置されていた。 古都洛陽 すっかり暗くなって洛陽市内に到着。 洛陽は、かつて9つの王朝が都を置いたという歴史の街ではあるが、現在の都市部人口は140万(農村部も含めた総人口は800万)ほどで、西安などと比べると、規模は大きくない。 今の洛陽と、かつての洛陽は、位置も違っており、漢代の洛陽城などは、今は麦畑となっているとのことであった。 日本の京都は、洛陽をモデルにして、洛中、洛外といった言葉が今も使われているが、今の洛陽は、京都というよりは、奈良のような位置にあるといえよう。 道路脇の緑地帯には、牡丹の花をモチーフにしたマスコットの看板がいくつか見られた。洛陽は牡丹で有名で、つい先日まで牡丹展示会が行われており、今年で34回を数えるそうである。 1000年の歴史もつ洛陽水席 午後8時半、洛陽水席園にて夕食。洛陽水席は、洛陽の名物料理で、出される暖かい料理の全品にスープが付く。そのルーツは則天武后の時代まで遡っており、そのなかのメインである燕菜について、張さんが話してくれた。 燕菜とは、素材は大根なのだが、これを千切りにするなどして、高級食材の燕の巣と同じ食感にした料理のこと。 大根という安価なものを、時の権力者に供する料理となったとは妙な話だが、そのきっかけとなった大根が特別なものであったからだという。 見たこともない大きく見事な大根を収穫できたある男が「これは陛下のおかげです」と、則天武后に捧げた。 しかし、いくら特別だといっても、大根には違いない。料理人は思案して、千切りにした大根を鶏のスープに入れるといった工夫をして、武后に差し出した。 「おや、燕の巣ではないか」、それを大根だとは知らない武后や宮廷の人々は、これを褒め称えた。 以来、この大根料理が名物料理になったのであったと。 われわれも実際にこれを味わったが、張さんの話で、1000年の歴史を味わう特別なものとなった。 法王、法華経 夕食の席で交わされた会話をここに記す。 張 中国で、仏教経典といえば、楞厳経(りょうごんぎょう)、華厳経、法華経の3つを勉強します。3つの意味は、まず楞厳経で智慧を学び、次に華厳経で富貴を学び、最後に法華経で成仏を学ぶということです。法華経は、法王といわれて、これを勉強すればすべての経を勉強したことになるとされています。 竹岡 中国の人も、法華経が一番だとわかっているのですね。 達磨と禅宗 竹岡 ところで、明日訪れる白馬寺は、中国で最初に建てられた仏教寺院だといわれるけれど、白馬でもたらされた経典は、何経だったか、わかりますか。 張 はじめに伝わったのは、浄土の教えだったと聞いています(伝承では四十二章経)。 先ほど休憩した少林寺のところは、禅宗ですが、これは南北朝の時代に達磨大師がインドから来て、それから全土に広まったものです。 竹岡 達磨は、鳩摩羅什の後ですね。 張 はい。達磨が中国に来たのは6世紀になってからです(鳩摩羅什は5世紀初頭)。 伝説では、達磨は、一葉の舟に乗って広州にたどり着きます。篤く仏教を信仰していた南朝・梁の武帝は、その知らせを聞いて迎えに行き、対話をしました。 武帝は聞きます。 「朕は経を上げ、僧尼を養って、寺院を建立してきた。その功徳は、いかほどか」 それに対して達磨は「無功徳」と答えて、 「功徳とは皇帝の位でもなく、追求するものでもない」と、返しました。 皇帝は、それに怒ってしまいます。 皇帝を怒らせた達磨は「大乗仏教を広めようと思って中国に来たのだが、これでおしまいだ」と失望して、いかにすべきかと思案し、南朝を離れて長江を渡って北朝に入ります。 そして、中原の現在、少林寺のあるところまでやって来て、嵩山の天然の洞窟に9年間こもって思案を続けます。 その後、洞窟を出て開いたのが禅宗です。 仏教はもともと中国のものではなかったのが、禅宗となって、それまでの中国の文化と一体となって、広まりました。 田渕 思想や宗教は、それなりの文化・芸術を形成します。禅宗は禅宗で、独特の文化・芸術を生み出しました。中国の文化と一体化するとともに、中国の文化を変えていきました。 文化・芸術でわかる宗教の本質 田渕 いずれにしても、どんな文化を生み出したかを見れば、その宗教の本質がわかります。いくら高尚で最もらしいように思われても、文化・芸術に見るべきものがないようでは、本物とはいえません。さらに言えば、現実の人間にとって大切な、平和、文化、教育に、どういった成果をもたらしたかが、思想・宗教には問われているということです。 張 たしかに、仏教の伝わったところには、絵や彫刻が残されています。鳩摩羅什の生まれた西域の亀茲国(クチャ)に造られたキジル石窟は、石窟としては初期のもので、壁画や塑像が残っています。しばらくすると、石窟は近くのクムトラなどにも造られます。そうして石窟を造ることが広まっていきました。 変化する仏教文化 張 面白いことに、それらの石窟に造られた塑像は、初めはヨーロッパ系の顔立ちをしています。それは、その土地に住む人々がヨーロッパ系のウイグル族で、それに合わせて鼻は高く目は大きく造られたからでした。 仏教は、その土地の現実に合うように変わっていったのです。クムトラに残された石窟の壁画を調べると3層になっています。一番上の新しい壁画は、漢民族の顔立ちで、その下の古い層はウイグルの顔立ちです。 仏像も、雲崗では漢民族の顔ではありませんでしたが、次の龍門では漢化しました。その漢化する始まりのところに鳩摩羅什がいました。 田渕 羅什が漢訳した法華経があって、仏教が中国の人々に受け入れられたということですね。法華経には、全民衆の仏性が認められています。それが人々に受け入れられる要因になったと考えられます。 それにしても、私個人としては、龍門より雲崗の方が、感性にしっくりくるものがあります。龍門のメインである唐の奉先寺の大仏は最盛期から爛熟期に入る時期であるのに対して、雲崗は興隆期に当たっており、その清新ないのちが感じられるからです。 ところで、石窟といえば敦煌も有名ですが、開削時期は、羅什の時代と同じくらいですか。 五味 敦煌石窟の開削は4世紀半ばで、羅什の法華経の漢訳は5世紀初めですから、半世紀ほどの違いがありますね。敦煌石窟の開かれる前には、敦煌菩薩といわれた3世紀半ばから4世紀初めの竺法護がいます。竺法護は、羅什以前に法華経を漢訳した僧で、それは正法華経です。 羅什訳とサンスクリット経典 五味 ところで、1つ疑問があります。羅什にしても竺法護にしても、法華経を訳すにあたって、元になったサンスクリットの文献があったわけですが、現存するサンスクリットの経典は、羅什の時代よりも古くないものばかりです。 そこで、これは、検証できないでしょうが、今に残るサンスクリットの法華経は、逆に羅什訳などから訳したものなのではないかと思うことがあります。 それに、法華経の開経である無量義経は、羅什の法華経の70年後の訳です。この無量義経は、中国で創作されたとの説もあるそうですね。 廣野 その中国創作説は、明確に否定されています。 五味 つまり、梵本(サンスクリットの経典)があるのですね。 廣野 伊藤瑞叡先生(立正大学教授、京都・本圀寺貫首)は、梵本を見られているようです。伊藤先生は、音律からして、中国での創作ではないと、結論づけられています。 五味 その梵本は、逆に訳されたものであるということはないのでしょうか。 廣野 竺法護は、一人で訳したというから、真偽は確かめようがないでしょうが、羅什の場合は、406年といわれていますが、一人ではなく、数百人で訳したということですから、そこにはたくさんの人々の目があったわけです。元の梵本はなかったといったことは、考えられません。 五味 そうすると、今年は、羅什が訳してから1610年ということになりますね。 竹岡 自分の訳した法華経の今日の世界的な隆盛を知ったなら、羅什はさぞかし喜ぶことでしょう。 白馬寺とボストンの菩薩像 竹岡 ところで、お釈迦様は、中国でいえば、誰と同じ時代になりますか。 張 老子や孔子と同じ時代だと思います。 亀田 老子は、釈迦と同一視されることもあります。 竹岡 中国に仏教が伝わったのは、いつ頃とされていますか。 張 秦の始皇帝の時に入ったという説もありますが、それは怪しいとされています。確かなところでは、やはり洛陽の白馬寺建立の由来となった、後漢の明帝の時代、西暦67年にインドから摂摩騰(迦葉摩騰)と竺法蘭が仏像と経典を白馬に載せてもたらしたのが最初だとされています。 竹岡 その白馬寺にあった仏像(『菩薩坐像』東魏 530年頃)を、アメリカのボストン美術館で見たことがあります。 これは、惚れ惚れするくらい美しい菩薩像で、フランスのパリに流出していたものを、当時、ボストン美術館の中国・日本部長をしていた岡倉天心が見つけて、手に入れることを念願したという作品です。ボストン美術館には、天心の願いを聞いていた弟子によってもたらされました。世界一と言っても言い過ぎではない美しさです。張さんも、アメリカに行くことがあったら、これを是非見てください。 田渕 中国の人々が、なぜ、異国の宗教である仏教を受け入れたかを考えると、このような美しい仏像の存在が外せません。仏像の美しさに触れて、仏教を人々は受け入れるようになったということです。 生命の尊厳と永遠を説く法華経は、仏教の本質であり、白馬寺の菩薩像には、その法華経の精神が具現化したと思わせるものがあります。石でありながら生きていて、動かないはずの石が動くような感じがします。 そして、この像が造られたのは、鳩摩羅什が法華経を漢訳して100年余り経た六朝(南北朝)時代ですが、この中国における仏教の興隆期には、顧愷之を筆頭に、西洋絵画史の最高峰であるレオナルド・ダ・ヴィンチにも匹敵するようなが絵師が誕生しています。 見てわかる彫刻や絵画が生まれたことによって、仏教が定着していきました。 仏像の誕生とガンダーラ 張 誰でも見ればわかる。……見性という言葉がありますね。 田渕 そう、そこに仏性を見るということです。人間に仏性を見るなかで仏像が誕生し、その生きているような仏像を見て、人々は感化されました。その始まりは、ガンダーラです。今のパキスタン北部からアフガニスタンのあたりです。 張 そうです。仏像の始まりはガンダーラです。残念なことに、アフガニスタンの大仏(バーミヤン)は爆破されてしまいましたが、あの地方が始まりでした。 竹岡 それ以前のインド本土では、樹木、菩提樹が仏陀を表すものでしたね。 五味 法輪などもシンボルになりました。 田渕 ガンダーラでは、民衆の中に仏を見たから仏像ができたのです。それこそ法華経に通じる思想です。 偶像禁止の意図するもの 竹岡 ひるがえって、イスラム教では、そういった偶像表現は禁止されているといいますが、それはいかなる意図からでしょうか。 田渕 あれは、いわば謗法払いです。良くも悪くも人は、見るものに左右されます。それが良い影響を与えるものならいいのですが、そうでなければ人を悪道に陥れます。そして、往々にしてひどいものの方が多い。同じ仏像でも、初期のものは生命の尊厳を宣揚する形をしていますが、後になると、仏を超人的な存在として、むしろ不気味で生命を歪めた形が多くなります。そのようなものなら、消した方がよいとなります。 西域のベゼクリク千仏洞を見たことがありますが、ことごとく壁画の目の部分を中心に顔が削り取られていました。それに対して、敦煌のように破壊されていないものもある。その違いに、答えが示されているように思います。 形象に一切が含まれる 小倉 高校の時に、今のようなお話を聞けていたなら、良かったのにと思います。私は、高校時代、芸術教科は書道を選択していて、美術を勉強しませんでした。 田渕 書道でも、文字の前には形象があったことを忘れてはならないでしょう。漢字の一字一字は、それぞれ形象があって生まれたものです。形象を離れて書道もないということです。 法華経の方便品の十如是では、如是相・如是性・如是体と、続いた後、如是本末究竟等とあって、如是相に生命の一切が含まれるともいえるでしょう。 生命が大事、心が大事といっても、漠然として、どこにあるのかわからない。それを、相・性・体を伴ったものが生命であると捉えた法華経は、明快です。 廣野 如是相・如是性・如是体で、三如是ですが、これは、日蓮仏法では、三大秘法などに当てられています。 話は尽きなかったが、すでに午後10時が近づいてきた。 翌日のスケジュールを考慮して、9時50分、夕食会を終了し、10分ほどでホテルに到着。 宿舎は、牡丹城(PEONY PLAZA)という25階建の高層ホテルであった。 中国のマンション事情 5月16日(月)快晴。 午前6時、22階のホテルの部屋から延々と続く緑地帯(牡丹広場と西苑路)が見えた。そこには、早朝から太極拳など集団で運動する人々の姿があった。 午前8時、周囲が見渡せる25階のレストランで朝食。 9時過ぎ、専用車で龍門石窟へ向け出発。石窟は、洛河を渡って13km南である。 洛陽も20階以上の高層ビルが目立つ。張さんによると、洛陽真区といわれる中心部は値段が高く、これらの新しいビルには実際には半分しか入居していない。しかし、転売や貸し出しで利益を得るのを期待して、投資目的で全戸売却済みであるという。 また、中国の場合、マンションは内装を入居者が行うこととなっており、すぐには入居できない。トイレも洗面も何もかも自分でやらなくてはならず、張さん自身も最近、このような新居に引っ越したが、30万元(約600万円)をかけ、入居できるまで1年間かかったそうである。 そこに人が入居しているかどうかは、エアコンの室外機や物干しがあるかを見ればわかるとのこと。それを手がかりに見ると、どの高層マンションも空室の方が明らかに多い。 どの都市も同じような高層マンションが建っているようだが、それもそのはず、中国全土のそれらのほとんどは、万達という不動産業者の手によるもの。万達を率いるのは王健林という瀋陽出身の人物で、総資産1500億元(約3兆円)で中国一の金持ちである。 中国では相続税の制度はなく、親の築いた莫大な財産を、その子はそっくり引き継げる。それで、中国の人々にとって、王健林氏の息子の結婚相手が誰かが最大の関心事だそうである。 皇帝の都への門 9時50分、龍門石窟の駐車場到着。ここで、環境保護のために整備された電動カートに乗り換え、伊水のほとり1.5kmほどの専用道を進み石窟北端の入口に到着。 洛陽に南から流れ込む伊水は、かつて洛陽に入る唯一の道であった。その伊水に2つの山が迫るところを、皇帝のいる都への門に見立てて、龍門と呼ばれるようになったのだという。龍という呼び名は、天子は龍の子であるとの中国の考えにちなんでいる。 2つの山は、西側が龍門山、東側は香山といい、2つの山に迫られて伊水の最も狭まっているところから、古くは伊闕(いけつ)といった。闕とは、宮殿の門を意味する言葉である。この伊闕は、隋・唐時代の洛陽城の門と向かい合う位置にあったという。 石窟は、南北に流れる伊水沿いの龍門山に約1kmにわたって穿たれている。香山にも石窟はあるが、こちらは数は少なく年代も新しい。香山の方は、石窟よりは、唐代の詩人、白居易が13年間にわたって住んだという香山寺があることで有名である。 香山寺の建物は、当時のままではなく、近年の修復が加えられている。 さらに香山には、西安に行く前に蒋介石が暮らした建物(蒋宋別荘)があり、現在はそこは3つ星ホテルになっているとのこと。なお、香山の名は、そこで香りのいいツルが生えていたからという。 龍門石窟の始まり 龍門石窟の開削は、493年、鮮卑族の王朝、北魏の第6代孝文帝によって、都が大同(平城)から洛陽に移されたときから始められ、唐代を最盛期に、明・清代まで約900年間にわたって続けられた。大同からの遷都の理由は、文化の中心地である中原に移ることで、名実ともに中原の覇者とみなされると考えたからであった。 北魏における龍門石窟は、第4代文成帝の460年以来造営された大同近くの雲崗石窟にならってのことであり、新都洛陽を護るためであった。 ただ、雲崗は岩質が柔らかい砂岩であり、5人の皇帝になぞらえた高さ10数mの大仏が5体も彫られるなど比較的大きい彫像が目立つのに対して、龍門は火成岩(かんらん岩)の硬い岩質のため掘削は難しく、北魏時代のものは、賓陽中洞の釈迦如来坐像の高さ8.4mが最大である。 泉水の流れる潜渓寺 最初に訪れたのは、順路の始めにある規模の大きな石窟、唐の第3代高宗の時代(649~683年)の石窟で、洞内を泉水が流れていることからその名がついた潜渓寺である。 説明によると、高さ7.8mの阿弥陀仏を中心に、両脇に弟子と菩薩と天王が各1体ずつの七尊形式である。 賓陽中洞と法隆寺の釈迦如来像 その後、注目の賓陽中洞へ。「賓陽」とは「太陽を迎える」という意味である。 賓陽中洞の左右には、石窟が1つずつあり、合わせて賓陽三洞といわれているが、それぞれ造営年代は違っており、中洞が最も古く、洛陽に遷都した孝文帝の功績をたたえて、その子、第7代宣武帝が6世紀初頭に完成したもの。洞内の彫像と背後上部の飛天などの壁画には彩色が残り、状態がいい。 中洞の本尊の釈迦如来像を見ると、面長な顔に杏仁形のつぶらな眼とアルカイック・スマイルなど、典型的な北魏様式であり、その100年後に造られた日本の飛鳥時代、法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年、鞍作止利)のルーツの1つといえよう。両者には、同じ特徴が見られ、手のポーズなども、共通しているのである。 ただ、龍門の釈迦如来像の方が、より生き生きとして、明るい感じがする。 北魏の人々の上昇期の気風が反映しているのであろうか。 また、仏像にありがちな威厳というような近寄り難い印象はなく、人間的な親しみやすさが、むしろ感じられる。 人間のなかに仏性を見て最初の仏像は誕生したといわれるが、この像にもそれは継承されているといえるであろう。 持ち出された仏像たち なお、賓陽中洞の釈迦如来坐像の左右の壁面にも、それぞれ両脇に菩薩が付く如来三尊立像がある。これらの三尊像を見ると、2体の脇侍菩薩像の頭部が欠けている。 経緯はわからないが、現在、その2体の頭部は日本にあって、それぞれ東京国立博物館と大阪市立美術館に所蔵されている。 ついでにいえば、中洞の壁面にあったレリーフ(『皇帝礼仏図』と『皇后礼仏図』)も海外に持ち出され、アメリカの2つの美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館とミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館に、それぞれ収蔵されているという。 龍門石窟を見ていくと、石像の全部、もしくは一部が欠損しているものが多い。それらは、文化大革命の際に破壊されたものもあったというが、多くは中洞の例のように、中国が弱体化した清朝末期から第二次大戦中にかけて欧米及び日本に持ち去られたためであり、それらは各国の博物館等の所蔵となっている。当時は、様々な理由があったであろうが、それらの失われた空白を見ると、やはり、心が痛む。 北洞と南洞の阿弥陀像を考える 賓陽中洞の並びにある石窟は、向かって右が賓陽北洞、左が賓陽南洞で、どちらも中洞と同じ宣武帝の時代に、北洞は孝文帝の皇后のため、南洞は宣武帝のための石窟として開削が始められたが、岩質が硬すぎたためか、どちらも中断し、北洞は7世紀後半、唐の第3代高宗の時代、南洞は641年、唐の第2代皇帝太宗の時代に完成している。 なお、南洞の場合は、当初の目的は変更され、太宗の四男、魏王・李泰が、636年に36歳の若さで亡くなった母(太宗の皇后)のための石窟として完成させたもの。太宗の皇后といえば、善政の代名詞とされる貞観の治を支えた長孫皇后である。 ところで、現地の説明板では、北洞、南洞とも主尊は阿弥陀如来となっている。両像とも、唐代の彫刻の特徴を有し、北魏のものに比べて、顔や体は丸みを帯びて、より写実的、個性的になっている。 阿弥陀仏といえば、一般には浄土経典の阿弥陀仏であるが、これは「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏・大菩薩衆の囲遶(いにょう)せる住処に往きて、蓮華の中の宝座之上に生じ」等々とある法華経薬王品の阿弥陀仏の方が拠所となっているように思える。日本の平安時代に見られる浄土経典の阿弥陀如来像は、優美で弱々しいという印象を持つが、これは、健康的で頼もしいといったポジティブさが感じられるのである。 あるいは、南洞の像は、長孫皇后に似せて造られたものかもしれない。そう思いながら見ていると、ちょうどこの像にそっくりな若く美しい中国女性が現れた。思わず私は、現代の長孫皇后に声をかけ、一緒に写真に収まった。 女性の造営した万仏洞 続いて見たのは万仏洞。万仏洞の名は、洞内の壁面に万を越えるおびただしい数の小さな仏が彫り込まれていることによる。 石窟の天井には蓮華が彫られてあり、その周囲に沿って「大監の姚神表と内道場の智運禅師は、仏像一万五千体の仏龕を造り上げ、大唐永隆元年(680年)十一月三十日に完成した」と刻まれているのが確認できた。これによって、完成年を680年であると特定できるのであるが、この時期は第3代高宗の最晩年の、後に女帝となる則天武后が実権を握っている時期にあたる。 この石窟を造営した大監の姚神表と内道場の智運禅師は、どちらも女性であり、姚神表は工事監督をした宮廷の女官、智運禅師は宮廷の御用尼僧である。 則天武后の時代は、自身を筆頭に、大いに女性が登用・活躍した時代であったことが、この万仏洞の記述から垣間見えてくる。 なお、説明板によると、こちらの主尊も阿弥陀仏となっている。 蓮華洞 次に見たのは、蓮華洞。その名のとおり、洞内の天井に直径3m半ほどの立派な深掘りの蓮華が彫られていることによる。 説明板には、北魏の孝昌年間(525~528年)に造られたとあるので、賓陽中洞を造った第7代宣武帝の子、第8代孝明帝の時代のものとなるが、主尊の制作年は延昌年間(512~515年)ともいわれるから、宣武帝のときには造営が始まったと考えられる。また、この石窟は、他と違って、天然の鍾乳洞を利用したとのことである。 その主尊は釈迦如来立像で、高さ5.1mほど。残念ながら顔は破損がひどい。そして、その両脇には十大弟子の阿難と迦葉と思われる像が立つが、そのうち向かって左側の迦葉像の頭部は、持ち去られ、現在、フランス、パリのギメ博物館所蔵となっている。 「伊闕」の刻字 蓮華洞の入口の北側の壁面に「伊闕」の文字があった。これは明代隆慶年間(1567~1572年)の河南巡撫の趙岩という人物によるもの。巡撫とは、明代に創設された官職で、中央から派遣された地方長官をいう。 蓮華座でポーズするわけ 川沿いの遊歩道の途中に、蓮華座形の石製のベンチが設置されていた。 ふと、参加者の吉永さんが、その上に座って、これまで見てきた仏像のポーズを取って見せた。 吉永さんは、私の高校時代からの友人の一人で、このように、時々、ちょっとした笑いを誘うことをする。 「真面目にしすぎると、ギスギスした空気になる。少しとぼけて、場の空気を和ますのが僕の務めだ」と、そのわけを話す。 吉永さんは、私と同じ広島の出身である。根っからの平和主義者なのだ。 賑わう奉先寺 いよいよ龍門石窟の一番の見どころ、奉先寺に向かう。 長い階段を上がると、壮大な光景が広がった。 それにしても、大変な人である。そのほとんどが、中国の人々のように見受けられた。かつては中国の観光地といえば、外国人の姿が目立ったが、今や人々は裕福になり、旅行を楽しめるようになったようである。日本人はといえば、われわれのみのようであった。 張さんに、人々の多さを話したら「何年か前の世界遺産の記念日には、混み具合は、こんなものではありませんでした。1日で30万人を記録しました」とのこと。 龍門石窟は、2000年に世界遺産に登録されたのを契機に、全中国の注目を一層浴びるようになったのである。 ミケランジェロを凌駕する彫刻群 奉先寺石窟には、高さ17mの仏坐像を中心に、横幅(南北)約35m、奥行き(東西)約40mほどの広場の北、西、南の三方を囲む壁面に、十大弟子の迦葉・阿難、両脇侍菩薩、多聞天・持国天、金剛力士(仁王)の立像が彫られて、巨大な九尊像が刻まれている。 そばにあった説明板によると、唐の 672年に3代皇帝高宗が建立を始め、則天武后が化粧品代の2万貫の金を寄進して、675年に完成した。これこそが中国・唐時代仏教彫刻の芸術的傑作と、あった。 その現場を見るにつけ、その技術力といい、費やされた労力といい、当時の唐の国力が、いかに桁外れであったかがわかる。 イタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロは、山全体を彫刻したいとの願望を抱いていたというが、まさにそれを実現したと思える。 奉先寺を彫刻した人物の記録は残されていないようであるが、ミケランジェロを凌駕する彫刻家が、そこに存在したということを、これらの諸像が物語っている。 一人は宇宙大と示す盧遮那仏像 その中心の仏坐像は、盧遮那仏で、華厳経の教主である。 華厳経は、インドのブッダガヤで釈尊が覚りを開いた直後に、その覚りをそのまま説いたものとされており、難解な経典とされる。 「一即多、多即一」という言葉に代表されるが、一つの現象・事象は多くの因縁によって成り立ち、多くの現象・事象も一つの中に含まれているという、いわゆる縁起の法が説かれている。 また「心は工(たくみ)なる畫師(えし)の如し」と、一心から世の中のあらゆる現象を造りだしていけること、 「心仏及び衆生、是の三、差別無し」と、仏と衆生といっても別のものではないと説かれて、突き詰めると、一人ひとりの心に全宇宙が入り、その故に、一人ひとりが仏のごとく宇宙大の完全な存在であると教えている。これらは、法華経の生命観に通じる考え方といえるであろう。 主尊の盧遮那仏が高さ17mほどの大仏として作られたのも、当時の則天武后の偉大さを示すためとの理由もあったであろうが、教義的には、一人は宇宙大の存在であるとの華厳経の教えを具現化するためであったと捉えるべきである。 なお、日本の奈良、天平時代、752年開眼の東大寺の大仏は、この奉先寺の大仏に倣って造られ、同じ盧遮那仏である。 また、毘盧舎那仏の名は「広く照らす」という意味のサンスクリット、ヴァイローチャナの漢字表記で、太陽の光を指しており、光明遍照とも呼ばれ、真言宗の大日経では大日如来となった。 写実美術の最盛期作品 唐代の美術は、写実が最高潮となった時期といわれるが、奉先寺の盧遮那仏の顔も、誰かモデルがいただろうと思えるほど人間的で個性的。則天武后をモデルにしたともいわれるが、ともかく、凛々しく、いい顔をしている。 金剛力士などは、ただ強いというだけだなく、ユーモラスでもあり、魅力的である。 田渕画伯は、その盧遮那仏の顔を2点と金剛力士を1点、ハガキ大の紙にスケッチされた。 そばに紅い牡丹の花が咲いていた。 富貴の花といわれる絢爛に咲くさまは、仏教美術が最高潮に達したこの現場に相応しい取り合わせである。 対岸から全貌を見る 11時50分、見学を終えて、来た時とは反対にある南門から出て、伊水に架かる橋を渡り、香山側から電動カートに乗って、われわれの車の待つ駐車場に。 伊水の対岸からは、龍門石窟の全貌が見えた。 白馬寺の由来 12時20分、車に乗って洛陽市内に向かい、12時50分、旧市街(老城区)にある宴天下というレストランにて昼食。 午後1時半、レストランを出発。 2時、旧市街から東に12km、白馬寺に到着。 道中、張さんが、昨夜に続いて、白馬寺と仏教伝来にまつわる伝説を、更に詳しく説明してくれた。 西暦64年のある夜、南宮で寝ていた後漢の明帝が、頭から光を放った金人が西方より飛来して、宮殿の庭を飛ぶ夢を見た。翌日、明帝が「これは一体、何だ」と、近臣に尋ねると、博士の傅毅が「西方の天竺には、仏という道を得た者がいると聞いたことがあります。夢に見られたのは、その仏のことです」と答えた。 そこで、その教えを求めようと、帝は、蔡音と秦景という2人の将軍を含む10余人で編成した使節団を西域に派遣する。 65年、葱嶺(パミール)までたどり着いたところで、2人の人物と出会った。2人は天竺の摂摩騰と竺法蘭という高僧で、仏教経典と仏像を伴って「これから中国へ、仏法を広めに行くところです」という。 それで、使節団は、その2人を護衛して、経典と仏像を白馬に載せて戻り、67年、洛陽の都へ帰還する。 明帝は大変喜んで、2人を自ら接待し、当時、外国からの賓客の謁見等を受け持つ庁舎として使われていた鴻臚寺というところにしばらく住まわせることとした。 鴻臚寺の鴻は大声、臚は伝達の意で「賓客の名前を大声で呼んで到着を告げる」といった意味。寺は、本来、宮中の役所を指す言葉であった。 翌68年になって、明帝は勅令を出して、洛陽の西雍門外に2人の僧のために僧院を建てさせた。僧院は、経典と仏像を運んできた白馬と、2人の僧を始めに住まわせた鴻臚寺の寺にちなみ、白馬寺と呼ばれるようになった。また、以来、仏教施設は、寺を付けて呼ばれることとなった。 これが、中国初の仏教寺院、白馬寺の由来である。 なお、当時の洛陽の都は今よりずっと東にあって、当時の漢代の都城は、白馬寺の東に隣接してあったとのことである。 華夏首刹 入口は、中国仏教協会会長や中日友好協会副会長を務めた趙樸初氏による扁額の掛かる朱塗りの山門で、その広場には白馬の石像があった。 門を入って、左手に白馬寺の由来の石碑、竺法蘭の墓などを確認した(摂摩騰の墓は門を入って右側)。 主要建築は、天王殿、大仏殿、大雄殿、接引殿、毘盧閣といった建物で、それらは山門から北に伸ばした線を中心軸として、それに揃えて建てられている。 それらの建築のなかには、華夏首刹(中国で一番)との扁額が掛かるなどしていた。華夏とは「文明の大きく開けた」という意味であるが、中国のことを自ら誇った美称である。 残念ながら、これらの建築はどれも明代以降のもので、当時のものはない。後漢当時のものとしては、基礎のみが確認出来る場所があった。 最盛期の残り香、十八羅漢像 白馬寺の建築のなかで、一番の見所は大雄殿で、そこには、国宝に指定されている十八羅漢像があった。 張さんによると、金代に造られた乾漆像とのこと。 金は、後の清朝と同じ女真族が建てた王朝で、1127年に宋を追いやって、1215年までの88年間、中国の北半分を支配し、1215年以降は次第にモンゴルに圧迫され、1234年に滅亡している。 十八羅漢像を見ると、写実的で、日本の同時代の運慶らの鎌倉時代の彫刻を想起させる。 どれも穏やかで上品な顔をしている。 しかし、龍門の奉先寺の彫刻群を見た眼には、強さに欠けて見える。 鎌倉時代の彫刻が、日本の仏教彫刻の黄金期である奈良・天平時代を手本として造られ、天平の残り香と位置付けられるのに相似して、この十八羅漢像は、中国の仏教彫刻の黄金時代であった唐代の残り香であるといえるであろう。 図書室に法華経を確認 主要建築を巡った後、西側にある図書室を見た。 そこには、開架の本棚が部屋の周囲に設置されて、自由に閲覧できるようになっており、出版された種々の法華経(妙法蓮華経)が多数並べられていた。 五味さんが、そのいくつかを手にとって見たが、そこには元の時代以降に作られた2種類のみしか確認できなかったとのことであった。南北朝や隋、唐など、中国で仏教が盛んなりし頃の経典は、いつしか失われて、現在、見られるものは、朝鮮半島や日本など周辺国からの逆輸入であると推測される。 さらに西側に出て、タイ、ミャンマー、そしてインド、それぞれの様式の寺院が隣接して建てられているのを見ながら、出口へ向かう。 山門近くで、2カ所の風景をハガキ大の紙にスケッチしていた田渕画伯と合流して、午後3時過ぎ、出発。 洛陽龍門駅で高鉄に乗車 途中、三国志で知られる関羽の首が埋葬されているという関林堂を通過して、3時半、洛陽龍門駅に到着。 洛陽龍門駅は、洛陽の中心からは南方約8kmに位置し、龍門石窟に近い。高鉄専用の新駅で、入場時に空港と同じセキュリティ検査があった。 チェックを経て駅構内に入ると、人影はまばらで閑散としていた。 高鉄は、指定席のみのようで、乗車券を有する人のみが列車の発着時間に合わせてやってくるとのことであった。改札口も列車が到着する時刻になるまでは、係員はおらず、ホームに入ることはできない。 コーヒショップで、一服した後、列車に乗り込み西安に向かう。列車は、調和を意味する和諧号で8両編成。午後4時4分、定刻通りに発車。 「伝神」最高の評価 西安に着くまでに車中で田渕画伯が、廣野さん、吉永さん、吉﨑さんの顔を、次々と描く。 最初の廣野さんの絵ができたところで、張さんが感激して「伝神です」と言った。どういう意味か尋ねると、「素晴らしい絵を、中国ではこう言います。絵を評価する最高の言葉です。神様のすべてを伝えられるほどの立派な出来栄えを言います。生きているようですし、肉まで動いているようです」と。 伝神とは、後で調べると「写実によってその人物の姿形のみならず精神までもとらえること」をいい、南北朝時代、東晋の顧愷之が肖像画について言及したなかにある言葉であった。 西岳華山を見る 途中、進行方向左側(南側)に山脈が見えてきた。 五岳の一つ西岳華山で、秦嶺山脈の東の端にある山である。標高2000mほどだが、岩が切り立っていて険しい山である。 張さんによると、噴火によってできた山で、年月を経て柔らかい部分が崩壊して、硬い部分が残って、現在の険しい山容になったとのこと。 100年先を見越して作られた西安北駅 途中、渭南北駅に停車。比較的小さい街であるが、車窓からは、こちらも新しい高層ビルが目立つ。 午後5時40分、定刻通り西安北駅に到着。 駅は西安の中心部からは12kmほど離れていて、渭水を渡る手前の農村部にあり、中心部まで地下鉄で30分ほどかかるようである。洛陽龍門駅と同様に新しく、洛陽龍門駅よりもはるかに大きい。駅の大きいのは、100年先の西安を考えて造られたからとのこと。 まだ送迎車の待機施設が整備されていないとのことで、駅を出て、しばらく歩いて専用車の待つ駐車場に向かう。 西安の昔と今 6時15分、専用車に乗り込み、西安南部の大雁塔へ向かう。高速道路が整備され、高層ビル群が林立し、発展ぶりに驚かされる。 高速道路は、車線の増設などが、さらに計画されているそうである。 西安は、人口3000万人の陝西省にある。 華山の近く、河南省の中の1つの州に陝州があって、そこに黄土が分厚く堆積した陝原というところがある。その陝原の西の省ということで、陝西省となったとのことであった。 西安市の人口は、800万人になる。張さんに言わせれば、この人口では、中国では少ない方とのこと。 西安は、かつての長安で、前漢や唐の時代は、いわば全世界の中心であった。 この街の呼び名は、秦の咸陽に始まり、長安となって、明代以降、都が東に移ってからは、西方の安定を願うという意味から西安となった。 ただし、その位置は、洛陽と同様に、王朝が替わるたびに移動している。新しい王朝の皇帝が、前王朝と同じ宮殿に住むことを嫌ったためである。 市の中心部が近づくに従って、バイクが目立つようになる。よく見ると、それらのナンバープレートには、数字が入っていない。尋ねると、それはバイクではなく、電動自転車だという。 排ガス汚染対策からバイクを使わないことが推奨されていて、それで、電動自転車に乗ることになったのであるが、いつしかバイクに似せた電動自転車に乗るのが流行るようになったらしい。 弱く見られたくない、カッコよく力強く見られたいという願望が、人々にそうさせるのであった。車も大きい方が好まれ、日本円で2000万円以上もするような高級外車が、よく売れているそうである。 かつて、中国といえば、自転車のイメージがあった。今やそれは、遊びや競技の中だけだという。 街中にゴミは落ちていないし、女性の化粧や服装も、美しい。あらゆる事象が、中国が大きく発展していることを示している。 発展に伴って、当然ながら新しい問題も生まれている。駐車場は、圧倒的に足りなく、ほとんどが路上駐車。駐車違反は、罰金4000円ほど取られるが、駐車場そのものが少ないのだから、路上駐車は無くならない。当局は、駐車場付きでなら、優先して建築許可を下すといった対策に乗り出しているとのことであった。 大雁塔の見えるところで 午後7時6分、ホテル大雁塔和頤酒店に到着し、ホテル内の大雁塔の見えるレストランにて夕食。 西安では、夕食のレストランは、是非、大雁塔の見えるところでとリクエストしていて、このレストランとなった。確かにレストランの窓から大雁塔が見える。この場所を見つけるのに、現地旅行代理店のスタッフは、大変苦労されたと聞き、感謝する。 私が大雁塔にこだわったのは、かつての長安の象徴であり、私自身、以前これを見て、その美しさに感嘆したからであった。みんなにも、あれを見ていただきたい、率直にそう願ったのである。 大雁塔は、唐の皇帝高宗が母の冥福を祈って建立した大慈恩寺内に建てられた七層、高さ64.5mの塔。『大唐西域記』で知られる玄奘三蔵が、天竺から持ち帰った膨大な経典や仏舎利を収めるために玄奘自らが設計・施工して652年に完成した。 塔には当時も今も登ることができ、最上階から周囲を眺めることができる。遣唐使で唐朝に仕えた阿倍仲麻呂も、ここに登って長安を眺めたかもしれないと思うと、感慨深い。 美は人を利益するもの 夕食の席で以下のような話が巡らされた。 竹岡 漢字というのは、面白いですね。その字が作られたときの、中国の人の考えが、その字形に残されています。 張 その通りです。例えば、漢字の美の字を羊が大きいと書くのは、羊が大きくなること、それが美しいと考えたからです。 竹岡 田渕先生も、そのことを言われていました。羊が大きいと、多くの人を利益する。それが美であると。美は、本来、人を利益するものだと。 美の道、シルクロード 張 美といえば、シルクロードというのは、美の道でもあります。クチャ、クムトラ、敦煌、そして龍門など、シルクロード上の各地に石窟が造られて、彫刻や絵が残されました。 それらの絵に使う青い色で、コバルトがありますが、これは今のトルコ方面からシルクロードを通って運ばれました。シルクロードはコバルトの道ともいえます。 この次には、美の道であるシルクロードを描く旅をされたらいいでしょう。 五味 日本の金沢に、群青の間を造る習慣があるけれど、それも、これにつながっているのだろうか。 竹岡 どういう経緯か、関係があるのかわかりませんが、コバルトでつながるとすれば面白い。 景徳鎮も、コバルトでできたといえるし、この次は是非、シルクロードを行きましょう。 標高3800mでの茶会と田渕画伯の絵 竹岡 ところで、青で思い出したのが、先日(5月1日)行った、標高3800mのホテル・エベレスト・ビューでの茶会です。 2年後に85歳でのチョーオユー(8201m)からのスキー滑降を目指して訓練でヒマラヤに入られていた三浦雄一郎さん一行と、私が組んだトレッキング・ツアーが現地で合流できて、雄一郎さんをおもてなしする主旨で、私が提案したものです(*詳細は、本HPの「ホテル・エベレスト・ビューでの茶会」の項を参照ください)。 それで、雄一郎さんがお好きな色が、青でしたから、京都・一保堂の「青雲」というお茶を用意しました。 その茶席には、田渕先生の絵を、茶室の床に見立てた食堂の大岩に立てかけて飾らせていただきました。 昨年12月、田渕先生が、エベレスト・ビューの近くの丘からホテルとヒマラヤの山々を望む大パノラマを描かれ、それを大きなパネルに複製して、ホテルを作った宮原巍(たかし)さんに贈呈されて、ホテルに届けられていたのを、利用させていただきました。 本物のエベレストは、その日は遠慮して、雲の中から姿を見せませんでした。 それが、かえって良かった。絵が茶会の席で引き立ちました。 それにしても、美の力はすごいと、その時、改めて思いました。 田渕先生の絵は、まさに伝紳の美ですね。そう表現した張さんも素晴らしい。 廣野 神とは、魂のことです。 田渕 魂、つまり生命をとどめるようになるためには、目に見える形を、平らな形に写すことができるかどうかです。 竹岡 なるほど。あの絵に感動するということは、平面にエベレストの命をとどめているということですね。今回の絵も、全部、発表してください。 ライトアップされた大雁塔と鐘楼 9時前、夕食を終え、外の広場に出て、ライトアップされた大雁塔を見る。広場には噴水があって、その噴水が音楽に連動して動くショーが行われていた。大変な人出で、物売りも出ていた。 空には半月が浮かんでいた。 10時、車に乗り込み、10時20分、西安での宿舎、鐘楼飯店に到着。 その名の通り、西安の城壁内のランドマークの一つである鐘楼に隣接するホテルで、部屋からライトアップされた鐘楼が見えた。 気候変動にさらされる西安 5月17日(火)この日も晴天に恵まれるなか、朝食を済ませて、朝8時過ぎ、車で鳩摩羅什が法華経を漢訳した地である草堂寺に向かう。 西安の郊外に向かうということで、張さんに加えて、郭さんというアシスタントが付いた。 車中、西安の気候や歴史などを話題に、張さんが滔々と語った。 西安は、内陸にあることから、四季ははっきりしている。雨は、年間降水量は600mmで、7月から9月の主に夏に降る。例年春は水は不足気味で、しばしば干ばつに見舞われる。 それで、黄河に三門峡ダムが作られたが、下流に水が流れなくなって、海水が入ってくることによる新たな災難が発生した。このため、夏はせき止めたままにするが、冬にかけては少しずつ流すようにしている。 雪は、昔はよく降って、積もることもしばしばだったが、最近は正月に1、2回ほどしか降らない。それも半日程度で、積もっても5~10cmまでだそうである。 最初は7000年前 西安の歴史は、7000年前にまで遡る。最初に登場するのは、河南省の発掘された村の名が付けられた仰韶文化で、赤い土に黒い線の模様の彩陶が作られた。この文化が今の西安周辺にまで広まった。 5000年前には、奴隷制の時代に入る。神話の時代で、堯、舜、禹といった三皇五帝が活躍した。 3500年前の禹王は、リーダーとして黄河の治水を成し遂げて、夏王朝を嵩山の麓に建国した。実際に、嵩山の周辺には、宮殿跡が何箇所か発見されている。 『史記』では、夏が王朝の始まりとなっている。しかし他の文献には、夏の言及は少ない。どこに、どのくらいの規模であったのか、今後の研究課題である。 商と周 東の勢力が強くなって夏王朝が滅び、次の王朝は、商。 商の人は、初めて商取引をしたことから、それが商人といった言葉になった。河南省の東側に商丘という遺跡がある。 商の時代は、同じく奴隷制で、王が変わると遷都して、河南省周辺に5回遷都したので、6つの都を数えることができる。 商と殷とは、同じ王朝といってよく、商の最後の紂王の都が殷墟だったことから、この王朝を殷ともいうのである。 殷墟は、後世、廃墟となって場所が不明となった。20世紀になって、発掘された安陽市の小屯から甲骨文字が出土して、そこが殷墟であると明らかにされた。 商の後は、周で、西安の西から起こった王朝。 元は周は、商に封じられていた諸侯の1つだった。 周は岐山に始まって、豊京、そして鎬京へと都を移して、関東の国々を統一した。 都のある場所が関中で、関中を中心に四方に関所が作られ、東の函谷関より東が関東。 豊京と鎬京は、今の西安の南西部にあったと見られている。 陽の地を求めて 中国で都は、北に山、南に川が流れている地が、陽の地として選ばれる。 洛陽は、洛河の北にあって陽の地なので、洛陽という。 洛陽は、夏の時代に前身が造られ、周の時代の最後に都になり、その後の王朝の都になった。 西安も13の王朝の都といわれる古都であり、昔の名前は咸陽であった。 咸陽の咸は、すべてという意味。 九そう山が北にあるのが1つめ、川(渭水)が南に流れているので2つめで、陽の条件の2つすべて満たしているので、咸陽というのである。 川が南に流れているのが陽というのは、その川の北の土地は陽がよくあたり、雪が早く融けるから、人が住むのに都合の良い土地といえるからであった。 中国では、何でも陰と陽に分ける。太陽が陽で月が陰、男は陽で女は陰というふうに。 そして、陰と陽は親密な関係にあって、陰があってこそ陽が成立する。また、陽も陰も同じ太極から生じるとして、根源なるものを想定している。 さらに、独特な中国の考え方には、大地は四角、天は丸という概念がある。丸い天下に四角い大地があって、その一番豊かで幸せなところを「中」と呼んだ。 冗談が招いた周の滅亡 周の後は、春秋戦国時代になる。周は西安の地に都を置いた西周と、洛陽に移った東周に区分され、東周となってからは春秋時代と呼ぶのである。 西周が終わるきっかけは、思いもよらないことからだった。 前771年、周の第12代幽王が妃を笑わせるために、麗山に狼煙を上げさせた。 のろしを狼の煙と書くのは、狼の糞を燃やしたからである。狼の糞を燃やすと、煙はまっすぐに昇っていく。狼煙は戦いのしるしであった。 狼煙の上がるのを見た諸侯は、都を守ろうと急いで駆けつけた。到着したら、冗談だという。 諸侯たちは、拍子抜けして、バカバカしい思いを抱いて、自領に帰っていった。 まもなく、本当に都が攻められた。 狼煙が上げられたが、誰も本気にせず、誰も都に馳せ参じなかった。 幽王は、敵に捕まって、それで終わった。 1年後の前770年、幽王の息子が平王に即位して、都を洛陽へ移し東周が成立するが、周の力は弱まって、春秋戦国の時代になったのである。 秦の統一と滅亡 戦国の世を統一したのは、秦で、紀元前221年のこと。その都が咸陽である。 秦は戦国七雄といわれたうちの1国で、函谷関を越えて、魏、韓、趙、楚、燕、斉の6国を平らげて中国を統一した。そして、統一を果たした秦の王は、皇帝の称号を用いて、最初の皇帝ということで始皇帝と名乗った。 紀元前210年、山東省の泰山に遊んだ始皇帝は、そこで病死する。 予期せぬ皇帝の死に、国の統一は崩れてバラバラとなる。 後を継ぐはずの長男扶蘇は、有能な将軍であったが、匈奴との戦いのためモンゴルに出陣中で、不在。宦官の趙高が権力を弄び、始皇帝とともに巡幸していた次男の胡亥を皇帝に就けようと画策して、扶蘇を自害に追いやって、前209年、胡亥を二世皇帝に就任させた。二世皇帝は、すべて趙高の言うがままに従った。 ほどなく、安徽省で農民蜂起が勃発する。そのリーダーは陳勝と呉広という将軍で、北京郊外の長城を造る命を受けて、農民の一団を率いて現場に急行していた。途中、大雨となり、道は川のようになって、進むに進めなくなる。 秦の法律では、期日に遅れると、死刑とされていた。このままでは、死は免れないと悟った陳勝と呉広は、農民とともに蜂起したのであった。そして、これを契機に、あちこちで反乱が発生する。 劉邦と樊かい そのなかで、徐州出身の項羽と劉邦が頭角を現わす。ちなみに、徐州は中国の九州の1つで、皇帝を2人輩出している。 項羽は、立派な将軍で、1回も戦いに負けたことがない。 劉邦は、いわゆるチンピラで、盟友の樊(はん)かいとともに殺し屋のようなことをしていた。 劉邦は、もともと犬などを殺して料理して、それを売って生活していた。 樊かいは、その頃、料理屋をやっていて、劉邦がその店に毎日のように食べにいく。 劉邦はお金がないので「後で払う」と言っては、お金を払わずに食べていく。 腹を立てた樊かいは、ついに黙って店を遠くに移転した。 しかし、劉邦は、それを探し当てて姿を現わす。 「なぜ、来られたのか」と、樊かいが尋ねると「大きい湖が目の前にあって、困ったなと思案していたら、大きな亀が現れた。その亀に乗って来た」という。 樊かいは、その話に呆れて、何をやってもかなわないと思って、劉邦と一緒に行動するようになるのであった。 勝利した項羽に先んじた劉邦 反乱に立ち向かった秦の将軍は、20万を率いた章邯。項羽はなかなか勝負がつけられない。 ある時、立ちはだかる川(黄河)を前に項羽は、自ら川を渡って背水の陣として決死の戦いを挑み、勝利を収め、最終的には、函谷関で決着をつけるべく向かった。 函谷関は道幅が狭く、一度に戦車1台と兵士3、4人ほどしか通れない。関所で待つ敵を堂々と破るつもりだった。 ところが、その前に、劉邦が函谷関とは別の武関及び嶢関を陥して関中に入り、咸陽を落としていた。 前206年、功績を取られて怒った項羽は、劉邦を殺害しようと手紙を送り、咸陽郊外の鴻門で宴会を開いて劉邦を迎えた。この時、項羽の兵が10万人、劉邦は1万人で、力の差は歴然としている。 義理の兄弟である張良から、宴会で殺されようとされていることを知った劉邦は、隙を見てトイレに行くふりをして逃げた。 対峙する項羽と劉邦 その後、項羽は劉邦を蜀の国、今の四川省に封じた。 鳥も通わないという蜀の国に入るには、険しい桟道を行かなくてはならない。劉邦は、蜀に入った後、その桟道を燃やして、関中に戻らない意思を示して、項羽を安心させる。 それを知った項羽は、関中を章邯をはじめ秦王朝に仕えていた3人の将軍に任せて、徐州に戻った。 項羽を安心させておいた劉邦は、旧道を使って関中に現れ、旧秦の3将軍を片付けて、項羽を打つべく軍を進め、前204年、秦の穀物貯蔵所であった敖倉(ごうそう)をめぐって鄭州付近のけい陽で項羽軍と対峙する。 両軍のこう着状態が続き、項羽は、焦りを募らせ様々な策を弄する。 捕虜にした劉邦の父を、劉邦の見えるところに引き出して「降伏しなければ、父親を釜茹でにする。父を見殺しにすれば、不孝の罪を負うことになるぞ」と、迫るのであった。 卑怯な策に出た項羽に対し、劉邦は、かつて2人は義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「わが父は、あなたの父でもある。私の父を殺すことは、あなたの父を殺すことでもある。それでも殺すなら、どうぞ殺してくれ」と、責め返す。 項羽は、自らの非を悟って、思いとどまった。 悔しい項羽は、一騎打ちの提案をする。 劉邦は、取り合わない。 断った劉邦に対して項羽は、ついに、狙撃を命ずる。 弓の名手の放った矢は、狙い通りに劉邦の胸に命中した。 劉邦の陣営に、動揺が広がる。 劉邦の傷は、深かった。しかし、それを悟らせないために、平静を装って、気力を振り絞り、陣中を巡回して動揺を鎮めるのであった。 何としても決着がつかない。ついに、両者は和睦し、いったんは、天下を二分することなった。 その後、前202年、劉邦は項羽を安徽省の垓下に追い詰め、項羽は敗北。少数で逃げるなか、項羽は自害して果て、劉邦の勝利が確定。漢王朝が、ここに始まる。 自然豊かな草堂寺 話が漢代に入ったところで、草堂寺が近づいてくる。洛陽の白馬寺で見たように、仏教は、漢代の後半、後漢に伝来し、南北朝時代に興隆した。 草堂寺は、南北朝時代の始まりの五胡十六国時代、後秦の401年に、鳩摩羅什を当地に迎えて創建。羅什が訳経をした建物が、粗末な草葺き屋根だったことから、その名が付けられたとされる。 そこは西安中心部から南西に40km弱の位置にあり、中心部を抜けて郊外を走るなか、道沿いに果物の店が並ぶところ、電子科学技術大学の広大な建築現場などを見て、山が迫る緑豊かなところに、それはあった。 山は、終南山といい、当時の皇帝が遊んだ庭園があったところ。今でも周囲にぶどう園などの果樹園があり、ゴルフ場や水の遊園地などがあるとのこと。 山の緑は植林によるもので、飛行機から種を蒔いて大規模に育てたという。植林された木には、桜もあるそうである。 また、終南山は、東西に長く続く秦嶺山脈の一部。秦嶺山脈の主峰は、富士山より10m低い、標高3767mの太白山で、山脈の南と北で気候は大きく分かれ、トキやパンダ、キンシコウ(ゴールデンモンキー)など、珍しい動物が生息する。 9時半、草堂寺に到着。林のなかにある寺院で、鳥のさえずりが聞こえ、清浄な空気に包まれている。 羅什への感謝を込めて勤行・唱題 最初に、羅什の舎利塔が収められているお堂の前で、鳩摩羅什への感謝を込めて、皆で法華経の方便品・寿量品の自我偈を読経、唱題した。 その直後、建物の向かいにある羅什の生涯を展示している建物の前で、釋理仁という僧侶に出会う。挨拶し、記念にわれわれの使っている法華経の勤行要典を贈呈した。 住職にSGIの法華経を謹呈 塔頭を進んだ法堂の前で、1人の僧侶に呼び止められた。 「日本から来た、法華経を研究するグループです」と言うと、 「日本からですか。歓迎します、日蓮宗の方ですか」と、尋ねられた。 「私たちは、サンロータス研究所という法華経を研究しているグループです。私たちは、創価学会の会員でもあります」と答えると、 「創価学会の会長は、池田大作先生ですね。西安の名誉市民です」と、ご存知の様子であった。 そこで、われわれが使っている勤行要典を差し上げて、 「これは、世界192カ国で読まれている法華経です。羅什三蔵が訳された法華経が、今、世界中に広まっています。これは、羅什三蔵への感謝のしるしです」と、説明をした。 このわれわれが出会った僧侶は、釋諦性という方で、名刺をいただき、草堂寺の方丈、県の仏教会会長とわかった。 方丈とは、住職のことである。 私は、草堂寺にわれわれの校訂した法華経を奉納することを願っていた。 それは、かなわなかったが、せめて、この勤行要典を納めてきたいと思ってきた。 期せずして、羅什の活躍した寺のトップに、それを謹呈することができた。感激ひとしおであった。 住職は、さらに続けて、 「池田先生は、写真がお上手ですね」と、話しかけてこられる。 「中国のことを、仏教を伝えてくださった大恩ある国と、池田先生は言われています」と、それに答えると、微笑みを返されて、 「ご案内しましょう」と、自ら先導して、説明しながら寺内を案内してくださった。 住職の説明によると、羅什が法華経を訳したとき、3000人ほどの弟子が集っていたそうである。 今は、寺にいる僧侶は、20から30人ほどであるとのことであった。 宗教局局長一行と交流 日本の日蓮宗によって最近建立されたという蔵経楼のところで、共産党の宗教局の揚局長という男性と女性の部長の一行と出会った。この日、ちょうど寺で会議があるようで、党側の幹部が集まっておられたようであった。 局長は「歓迎します。西安は美しく歴史のあるところで、日本とも縁の深いところです」と、われわれに話し、公式のカメラマンを呼んで、撮影をしてくださった。 局長にも「中国は仏教を伝えた大恩の国と、池田先生から常に教えられています」と、お話しすると、 「仏教には国境はありません。いいものは、いいと評価しています」との答えだった。 女性の部長も、嬉しそうにされていた。 煙霧泉にて 次に、漢中八景に数えられた煙霧泉という常に煙を出している井戸を案内された。 言い伝えによると、その煙は遠く西安の城内にも流れてきたという。 煙霧泉から出ているのは、煙ではなく、蒸気とのことであった。地熱が高いところに水脈が流れていて、それが熱しられて蒸気を発し続けているらしい。 羅什舎利塔を見る その後、最初に訪れた舎利塔の収められたお堂に出た。 住職は、普段は鍵がかけられているお堂の扉を開いて、われわれを中に案内してくださった。 それを見て、すぐに周囲にいた観光客が集まってきて、手を合わせながら舎利塔を巡る。 唐末から宋代の建立とされる舎利塔は、高さ2m余りの大理石製の八角塔で、西域各所から集められた8色の石がはめ込まれているとのことで「八色玉石」といわれているとのことであった。 塔の裏側に「姚秦三蔵法師鳩摩羅什舎利塔」と、文字が刻まれていた。 なお、羅什が西安に来る前に滞在した、河西回廊の武威にも、羅什の舎利を収めた唐代建立の舎利塔があって、そちらは高さ23mであるとのことであった。 田渕画伯、住職の顔を描く 最後に、住職のお顔を田渕画伯に描いていただこうと思い、画伯が絵を描いているところに住職をお連れする。 田渕画伯は、皆が見学をしている間に、遠景に見える山と寺の建物の一部を入れた水彩画を描いておられた。遠景の山は、圭峰山という。 画伯は、すぐに引き受けて、多くの人が見守るなか、ハガキ大の紙に短時間で、簡潔でありながら人柄を的確に捉えた絵が出来上がった。 住職に絵を贈呈し、お別れした。 門を出たところで、田渕画伯は、ハガキ大の紙に2点のスケッチをされた。 それを待って、11時40分、草堂寺を後にし、西安城内のレストランへ向かう。 羅什の故郷に思いを馳せる 張さんに、羅什の故郷であるクチャなど、西域の話を聞き、思いを馳せつつ来た道を戻る。 北京を経由して空路、敦煌かウルムチに入り、そこからはトルファンまで高鉄、そして、トルファンからコルラ、コルラからクチャ、クチャからアクスは、それぞれ砂漠の道をバスで1日ずつといった行程で、各都市の滞在日数を入れて計算すると12日の旅になる。また、西の端のカシュガルやタシュクルガンまで入れると、さらに日数がかかるが、カシュガルなどは、女性の民族衣装が魅力的で、行けば、皆、帰りたくなくなるほどとのことであった。 西安でお茶会 12時半、西安の南西部、電子科技大学の近くにある蓮花餐飲に到着。 食事を終えて、午後1時半、皆に、羽田空港で購入していた抹茶と羊羹を使ってお茶を振る舞う。 茶碗は、レストランに白磁の碗を人数分用意してもらって、それに代えた。こちらの要件を理解して、賢く応えてくださった女性の服務員さんに感謝である。 一服の茶は、気分をスッキリさせる。張さんも含め、皆に喜んでいただけた。 抹茶は、現在では日本の誇るべき文化であるが、始まりは中国にある。この両国にまたがるお茶を、龍井(ろんじん)茶のある中国の浙江省と交流を深めてきた静岡の川勝平太知事が、両国の力を合わせて世界遺産にしようと提案している。このことは、中国でも話題になっているとのことであった。 陝西省博物館で見る民族の造形力 2時前、レストランを出て、2時20分過ぎ、昨日訪れた大雁塔の西に位置する陝西省博物館に到着。館に入ってすぐのホール、則天武后の母楊夫人の唐順陵にあった大きな獅子像のところで分かれて、各自の興味に合わせて、閉館時間まで見学する。 先史時代の土器、王朝時代に入って仏教伝来以前の青銅器や陵墓に副葬された俑(土製の人形)といったものを見ると、漢民族には本来、比類なき造形力が備わっていることを知らされる。 法華経の浸透を感じさせる作品群 仏教伝来してからは、仏像が刻まれるわけであるが、館内には各時代の仏像彫刻が展示されている。なかでも『釈迦石像』(北魏、城固県出土)、『漢白玉釈迦造像』(北周、西安市北草灘出土)といったものに清新ないのちが感じられた。 また、仏教寺院の屋根を飾ったと思われる瓦の展示があり、蓮華をかたどったものが多いのには、法華経の浸透が感じられ、特に注目した。 何度もこの博物館を訪れている田渕画伯に見どころを尋ねると「仏教伝来の前後の違いを、見て欲しい。具体的には、六朝(南北朝)に入った時の、劇的な変化を見るべきです」とのことであった。 たしかに、南北朝に入ってからの東晋の焼き物には、素晴らしいハリと明るさが認められる。さらに、唐代の白瓷の数々には、はち切れんばかりの膨らみがあって、その生命力に惚れ惚れする。 絵にとどめた時代ごとの生命 田渕画伯は、時間の限り次々と、ハガキ大の紙にメモを取っていく。 はじめに先史時代の彩文土器類のうち、次の3点。『獣面細首壺』『人面魚紋盆』『幾何学紋彩陶鉢』(3点とも新石器時代、前5000~3000、西安市臨潼区姜寨出土)。 続いて青銅器の4点。『饕餮紋方柱か』(商代晩期、前13~11c、漢中市洋県馬暢鎮出土、温酒器)、『五祀衛鼎』(西周中期、前10c半ば~9c半ば、宝鶏市岐山県董家村銅器窖蔵出土)、『ふゆう』(西周早期、前11~10c、陝西省涅陽県高家堡出土、盛酒器)、『它か』(西周晩期、前9c半ば~771、陝西省扶風県齊家村銅器窖蔵出土、注酒器)。 漢代に入って、陵墓に副葬された明器、3点。『彩絵跪坐女俑』(前漢、前206~後08、西安市竇〔とう〕太后陵随葬坑出土)、『彩絵男立俑』(前漢、前206~後08、咸陽市渭城区韓家湾郷狼家溝村出土)、『彩絵歩兵俑』(前漢、前206~後08、咸陽市長陵陪葬墓出土)。 仏教が伝来し、文化・芸術面に仏教思想が反映し始めた南北朝時代の作品『青瓷鶏首壺』(東晋、317~420、安康市四河郷晋墓出土)。 仏教文化の最盛期となる唐代の作品『彩絵陶器駱駝』(唐、西安市東郊堡出土)、『白瓷双龍柄執壺』(唐、館蔵)。 四川会館にて最後の夕食 5時半、閉館時間が迫ってきて、係員の追い出しが始まる。丁寧だが、断固とした係員の態度に、名残惜しいが、退散した。 5時45分、博物館を出発し、6時10分、南門から西安城内に入ってすぐのところにある四川会館に到着、今回の中国旅、最後となる夕食をとる。その名の通り、辛いことで知られる四川料理である。四川省は、昔、蜀といった。「蜀犬、太陽に吠ゆ」という言葉があって、四川の天気はいつも曇っていて太陽が出ることは珍しい。稀に太陽が出ると、犬が驚いて吠えるのだという。それぐらい太陽は出ず、特に冬は極度に冷える。そのため、四川では、唐辛子を料理に多く入れるようになったという。 食事をとりながら、旅の感想をそれぞれに語っていただいた。 仏教が生んだ天鶏壺 田渕 学者の先生方の中に入れていただいて、来させていただきました。大変な勉強になりました。側面から法華経の本の完成のお役に立てればと思っています。 しかし、今日は、午前中で力を使い果たしてしまい、午後の博物館では今ひとつでした。 竹岡 でも、天鶏壺(『青瓷鶏首壺』東晋)の絵などは、力作でした。 田渕 仏教が入ったときに、どんなすごいものが生まれたか、それを描き残しておきたかったのです。それは、力と気力がみなぎっていないとできない仕事です。 それにしても、中国の大発展には、驚きました。大変なエネルギーです。 声色、形色の利益 廣野 今日、田渕先生と、草堂寺でお話しをしました。 田渕先生は「音は消えていく。そのときに、経典と形として残すことが重要になる。絵を描いたり彫刻をするのも、そのためにしている」と、話されました。 私は「その話の裏付けが、法華経にあります」と、お話ししました。 実は今、西山から出てきた御義口伝を世に出すことを目指して、一つひとつ校訂しているところなのですが、このお話は、ちょうどそれに出てきたばかりのことでしたから、いささか驚きました。 それは、法華経の寿量品のところですが、天台・妙楽が、声色、形色の利益を説いているのです。声と形の重要性から、声が経典になり、形が仏像・本尊になったというのです。 しっかり、まとめてみたいと思っています。 西山の御義口伝とは 竹岡 その西山の御義口伝というのは、大石寺に伝わったものに欠けている内容が含まれています。 日蓮大聖人を継いだ日興上人は、大石寺におられた期間は短く、今の北山本門寺である重須談所に30年間過ごされました。 御義口伝は、日蓮大聖人が身延で講義されたものを日興上人が書き残されたものですが、西山のものは、日興上人がそれをもとに重須で講義されたのを、日興上人の甥にあたる日代が書きとめて伝えたもののようです。 北山でのものが西山にあったというのは、北山の地頭とうまくいかなくなった日代が、西山に移ったからのようです。 大石寺に伝わるものは、京都の要法寺から逆輸入されたもので、そのために内容に不足を生じている。 西山のものには、法華経の涌出品を含め全品が揃っており「台家は妙法蓮華経に南無し、当家は南無妙法蓮華経に南無し奉る」「曼荼羅は修行の対境」といった、日蓮教学の根幹を左右すると思われる注目すべき内容が含まれています。 廣野さんは、人脈の中でその存在を知って、その重要性に気づいて、世に出そうと努力をされているところです。サンロータス研究所としても、重要なプロジェクトの柱の1つとして協力しているところです。 形に魂を入れたのは法華経の力 田渕 廣野さんとの話は、思想を後世に伝えるための急所だと思いました。1000年、2000年のスパンでの話です。 レオナルド、ミケランジェロがイタリアで大ルネサンスを成し遂げたことが、それまで1地域の宗教であったカトリックを全世界8億人のものにする導火線となりました。 そのルネサンスのルーツは、古代ギリシアです。 ところで、その古代ギリシアが越えられないものがありました。ギリシアは、形体を捉えるのには長けていたのですが、その形がいっこうに動かない。 それが動くようになったのが、ガンダーラでした。 アレキサンダー大王の東方遠征によって彼の地にギリシア文化が伝えられていました。 その地で大乗仏教、なかんずく法華経が編纂され、その思想とギリシアの技術が合体して、初めて動く彫刻、仏像が生まれました。 ギリシアの形体に魂を入れたのは、法華経の力です。 そして、見えるものになって、その偉大さが後世のわれわれにもわかるのです。 法華経は久遠元初に生命を戻す 田渕 先史時代、前5000年~3000年の彩文土器を博物館で描き、その後、東晋や唐の壺を描きました。両者は何千年も離れており、片方は原始のエネルギーに満ち、もう片方は法華経のエネルギーの反映といえるでしょうが、両者には同じエネルギーを感じました。 そのとき、法華経とは、久遠元初に生命を戻してくれるものだとわかりました。 それが、今回の旅の一番の成果です。 知らずにいた中国の文化力 吉﨑 今回、旅の話を聞いたとき、参加していいかどうか、参加する資格があるだろうかと悩みました。そして、その日が近づくに従って、ワクワクしてきました。 実際に現地に立って、私は69歳になりますが、今日まで洛陽や西安を知らずに過ごしてきたことを後悔しています。アジアの文化発祥の地、中国発祥の地という中核に触れられたことに、非常に感謝しております。今後、ますます何か、お役に立ちたいという気持ちでいっぱいです。 張さんの説明で、大変な中国通になった気がしています。練馬で一番の中国通になったように思います。 吉永 私は、新座市片山で一番になった気がしています。 旅のなかでは、つまらない質問ばかりしました。笑いが一番と心がけて、やってきたからです。ずっと楽しい旅でした。 五味 20代、30代のとき、何度も中国やインドの旅に誘われましたが、仕事があまりにも忙しく、3日も取れない生活をして、とうとう旅ができずに、20数年間を過ごしてきました。 もう無理と諦めていたところに、思いがけず中原の洛陽、西安に立つことができました。 中原を取った者が王朝を開く。それが異国の人であってもというところが、中国文化のすごさだと思いました。 どんな民族も、中原を治めたら、必ず漢字を使わないとやっていけない。それが中国文化の強さであるし、文化というものには何かがあるということを示していると思いました。 鄭州の空港に降りるとき、どこまでも広く平らであることに感動しました。高鉄に乗ってもそうでした。中国は、1国で存在できるところだと思いました。同時に、その中国から見れば、日本は東の果ての小国であることは間違いないと思いました。 法華経有縁の日本 五味 その日本は、法華経有縁の地と教えられてきました。古事記は、妙法蓮華経の影響が多大で、用語のみならず内容にも影響が認められます。 また、神武天皇は、法華経に出てくる竜女の子孫に位置付けられてもいます。 天照大神の後、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)がいて、その後に海幸彦・山幸彦で、山幸彦は豊玉姫と結婚する。 その豊玉姫は竜女の姉さんとされています。 豊玉姫の父が海の神で、豊玉姫が子供を産むとき、その正体である竜(=鮫)の姿に戻ります。豊玉姫の産んだ子は、神武天皇の父になります。 ところで、豊玉姫は正体を見られて、どこかに出て行きます。 それで、その子は妹が育てます。 これは、実の母が産後7日で亡くなって、その妹に育てられるという釈迦の話と同じです。 このように、神話も含め、日本は、仏教、なかんずく法華経に影響を受けている。 その影響が、どれほどのものか、いつかきちんと辿ってみたいと思っています。 こだわって進める 五味 その前提として、今、取り掛かっている法華経の編纂があります。 竹岡 五味さんは、使う文字の一つひとつにまでこだわって、校訂作業をされています。 五味 これまでのものは、私の見る限り、どなたもそれほどこだわってこなかったように見えます。私は、元来、校正者だから、その性癖から、気になったら見過ごせないのです。 竹岡 五味さんは、校正の分野では日本の第一人者です。尊敬しています。 亀田 私は、その法華経のルビ打ちをさせていただいていますが、作業がもたもたして、大変申し訳ありません。吉永さんからは、私が全然気づかない観点から指摘されて、助かっています。 それで、私も、その法華経の作業をしながら、まだまだ理解が進んでいないことが残されていると痛感しています。 例えば、多宝塔や大白牛車の描写で、金・銀・シャコ・瑪瑙等々出てきますが、実物を見ていないと、イメージできません。言葉だけで、わかっているつもりでいるだけです。そこに今までとは違う視点で見る必要性を感じています。 とにかく、明日はもう日本に帰らないといけないのが残念です。 日中の友好関係を軸に 小倉 昨年秋の伊豆での合宿でご一緒した流れから、参加させていただきました。 実は私の父は、創価学会の青年訪中団の第一陣に参加した一人です。 その父は、いつも、日本は今に中国に抜かれると言っていました。その意味を、実際に現地でわかったような気がします。 どういうわけか、サンロータスの皆さんと関わるようになりましたが、若い私の役目は、この行く末をじっと見守ることだと思います。今回は、通信部長として、写真の記録も含めて全うしてまいります。 川北 若い頃から、日中友好が世界平和の要だと教えられてきました。両国に、様々な問題が起こっても、日中友好を大前提として両国が対するなら、切り抜けられるという考え方です。 そのためにも、文化交流は大切で、法華経も両国の大切な文化として守られていくことだと、改めて思いました。 かなえた5つの喜び 竹岡 今回の旅には、5つ、喜ばしいことがありました。 18歳で広島から東京に出てきたとき、池田先生をはじめ大切なことを初めて教えてくださったのが、先輩の廣野さんでした。廣野さんは、池田先生から直接、昭和42年の御義口伝講義を受けた一人で、その内容をいつも教えていただきました。その廣野さんと一緒に旅ができるとは、大変な喜びでした。 田渕先生は、息子が通った創価高校の美術の先生で、あるとき、その息子が「おやじ、頼みがある。創価高校に田渕先生という素晴らしい絵を描く先生がいる。お酒に使う金があるのなら、その絵の応援をしてくれないか」と。それで、先生に会ったら、私の方が惚れ込んで「先生の目で選んだ世界の美を、いつか案内してください」と頼みました。 田渕 ヨーロッパのギリシア、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、イギリス、そして、中東のエジプトと、専門家でもなくて、喜んで一緒に旅をするなんて、こんな人いません。竹岡さんもすごいが、息子もすごい。 竹岡 その田渕先生と、また一緒に旅ができた。これが2つ目の喜びです。 3つ目は、会いたかった張さんと再会できて、ガイドをしてもらえたこと。そのガイドの素晴らしさは、皆さんも旅の中で、よくわかったと思います。 4つ目は、これはずっと祈っていたことです。 当初は、3月でサンロータスの法華経ができると思っていたから、これを羅什ゆかりの草堂寺に奉納しようと思っていました。 それが間に合わないとなって、せめて192カ国に広まっていることを、寺のしかるべき人に報告してこようと思ってきました。 そうしたら向こうから住職がやってこられた。SGIの勤行要典を差し上げることができて、その上、羅什の舎利塔の建物を開けて案内までしていただくことができた。党の局長や部長とも交流ができ、田渕先生に住職の顔まで描いていただいて、言うことなしの成果でした。 田渕 あれは、瞬間の勝負でした。相手の魂を絵にちゃんと入れないといけないから、3分に最大限のエネルギーを使いました。それで、午前中でエネルギーを使い果たしたんです。 竹岡 絵を見た住職の顔がほころんで、あれには驚きました。感謝いたします。 最後、5つ目は、参加された皆さんが、旅中、元気で喜んでもらえたこと。ここまで全員無事故で、これで、願っていたことが全部かないました。 張 それを聞いて、嬉しいです。はるばる日本から来られた方々だし、10年前からの友だちを迎えるし、私にとっても大事な旅でした。 竹岡 次は、法華経を完成して、御義口伝も完成して、お世話になった先生方も一緒に、記念の旅をしましょう。 田渕 そのときは、敦煌に行きましょう。 張 敦煌なら、蘭州から入ります。次の旅については、3つの案を考えています。 竹岡 最後は、もう一度、西安に戻って、草堂寺に法華経を奉納しましょう。 張 では、羅什のもう1つの舎利塔のある武威にも行きませんか。 とにかく、日本人も中国人も、違いはありません。どちらが先か後かはありますが、同じ人間です。10年、20年とお付き合いしていけば、お客様も親戚と同じになっていきます。また、お会いできることを楽しみにしています。 午後8時、夕食会を終了し、徒歩にてホテル(鐘楼飯店)へ。9時、ホテルに到着。 5月18日(水)晴れ、雲が多い。朝6時前、ホテルを出発し、市の北西部にある西安咸陽国際空港に、6時40分、到着。 中国東方航空MU521便にて、8時、離陸。上海浦東経由(10時7分着、11時50分発)で、午後3時46分、定刻より10分早く成田空港に無事帰着。 今後の健闘を約してお開きとした。 |