2009年5月27日 世界的な不況と人材難の中にあって、卓越した指導者の発見は容易ではないように見える。そんな中にあって、竹岡誠治氏に対する場合は異なる。彼は状況が危機的であればあるほど、不思議な能力に依って周囲を巻き込んで明るく、それを克服する人であるからだ。 私は一昨年『人間主義経済学序説』という経済革命の書を出版し、神田一ツ橋の如水会館に於いて出版記念パーティを行った。私が長年研究に取り組んできた成果を本にするにあたって、すべてをコーディネイトしてくれたのが竹岡氏であり、なおかつ出版パーティの司会まで引き受けてくれた。その司会を立派にこなし、多数の出席者を理解させ、納得させ、そして感動させたのは、彼の人格と才能に依るところが大きかった、と思う。 この書の論理は、世界を支配せんとする米国や中国という経済大国を相手に、理論的にも筋の通った新学説であり、先行き不透明と混迷の中にある日本経済学説を真っ向から批判し、道を拓くものであった。しかし、そこに当然の理があったとしても、現実には簡単に新しい理論を是認させることは難しかったと言える。 北は北海道から南は九州に至る、全国から集まった出席者を、竹岡氏は感動のうちに統合したのである。これは彼の磨かれた人格と洗練された才能に負うところが大であったことを証明して余りあると思う。 思い起こせば、昭和45年、創価学会は言論出版問題で大荒れになった。創価学会として、どう社会と関わっていくのか。そしてその組織の要である壮年部も、もっと社会に開いていかなければいけない。そのような背景から、昭和46年に新社会研究所という創価学会の外郭団体としての研究機関を発足し、私が所長に就任し、壮年向けの啓蒙理論誌、情報誌として、月刊誌「新社会情報パック」を創刊した。そこの編集部に、大学を卒業したての竹岡誠治氏が北林芳典氏(現、報恩社社長)とともに配属されてきた。 以来2年間、これからの社会がどうあるべきか、大所高所の理念と共に、その時々の話題やトピックスも入れた、新しいタイプの誌面作りに竹岡君は挑戦していった。竹岡君が奔走、努力して執筆陣に加わってもらった方々は、評論家、扇谷正造氏など数多くいた。彼は当時、創価学会の学生部機関誌局に所属し、戦後の学生運動の歴史を研究、新しい学生運動の構築もやっていた。創価学会そのものを取り巻く環境は、昭和47年になって風雲急を告げてきた。時の妙信講や幹部の裏切りなど、きな臭い動きがあった。そのため、彼はこわれて創価学会本部の方に移って、私の元を離れた。 その2年間でわかったことは、竹岡誠治氏の人となりとは、決して逃げないで、困難な問題が起こると、真っ正面から取り組んでいく。自分のことと言うよりも、所属する団体とか、特に池田大作第三代会長のために、どう行動するかを最優先する人間であった。私はその後、東洋哲学研究所の仕事に専念し、哲学的に社会を問う研究に入った。竹岡君の方は、その後、創価学会の青年部の幹部として旗を振り、また後輩の育成にも力を入れていった。彼は持ち前の正義感で、どんな諸問題にも、率先して飛び込み、泥まみれになった。それは、ある時は泥をかぶったり、床を踏み抜いたりがあったけれども、彼は一言も愚痴や文句を言わないで、表面上の役職とか立場がどうなっても、黙々とやっていた。 近年、彼が田渕隆三画伯をバックアップしている。田渕隆三画伯の本も出していると聞き、自分としても「ライフワーク」としての「人間主義経済学序説」を世に出したいことを彼に相談したところ、彼の奮闘努力によって、前述した一昨年の出版記念パーティになった。 ずっと彼を見てきたが、彼はXYZと、何処に行くかわからないところがあった。でも田渕隆三画伯の人格と芸術が一枚加わることによって、その方向性が決まり、彼の本来の良さが表に出て来たようだ。これからも、竹岡誠治氏の持っている問題意識、持ち前の明るさ、正義感で、新しい時代を創造していくことを期待したい。 |