2010年10月21日
元内閣官房長官 野中 広務
竹岡誠治氏に初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。
仲介者は佐々木ベジ氏。当時、若手の新進気鋭の経営者で、東京都青ケ島出身。財団法人日本人形美術協会の会長も兼務しておられた。
総務局というのは、党本部で選挙を仕切る部門で、ちょうどそのころ山梨では、金丸信氏のスキャンダルで、知事選で金丸系が落選し、次いで参議院の選挙区も厳しい状況であった。
そのころ佐々木ベジ氏と竹岡氏は大変懇意で、竹岡氏の要請でいつも佐々木氏は日本人形美術協会の組織を公明党の支援に振り向けているころだったと記憶している。
山梨の現状を佐々木氏に伝えたところ、「山梨は公明党は立候補しておらないから、竹岡氏に聞いてみましょう」との返事であった。それで、山梨でお会いすることになったのである。
「私の政治の師匠は金丸信です。その金丸が苦境に立っています。知事選と今回の参院選と、続けて負ける訳にはまいりません。どうか、みなさんの力を貸していただけませんか」と、私は有り体に現状をお話しし、頭を下げた。
竹岡氏は、すでに現地と話し合いをされていた様で、現地の県会議員の方も同席されていた。また、東京の豊島区で建設業を営む和栗弘直氏も同席されていた。
「わかりました。私の人生の師匠は池田大作先生です。できる限りの応援をさせていただきますので、どうか野中先生、生涯、創価学会と池田先生をお守りください」
テンポのいい、率直な、何のてらいもない返答であった。おかげで選挙は、勝利することができた。
しばらくして、自民党は野党に落ちた。私は衆議院予算委員会の理事として、当時の連立与党を激しく攻撃した。一連の攻防の中で、予算委員会で、反創価学会の質問を行なうことになり、越智通雄氏が質問に立つことになった。
質問主意書を見て、「これは困った。こんなに露骨に創価学会を攻撃しては、私が質問しないまでも、予算委員会の理事をしている以上、責任を取らざるを得ない」と思った。
そして悩んだ末に、「俺がやる」と、越智氏から一任を取り付け、代わって私が質問に立ったのである。
すると、予算委員会が終わるやいなや、竹岡氏が飛び込んできた。
「野中先生、あなたは何という人ですか。自分の師匠である金丸先生が窮地に立っておるから助けてほしいと応援を頼んでおきながら、『宗教団体が、そもそも政治に関与するとはげしからん』とは、どの面下げて発言されたのですか」
私は、一言も反論しなかった。彼は、「こんな三流の政治家に会ったのは、人生の恥辱だ。二度と顔も見たくない」と、机をひっくり返して帰っていった。
しばらくして、再度、竹岡氏は現れた。
「いや、野中先生、申し訳ないことをいたしました。帰って予算委員会の与党の理事・草川昭三氏に、かくかくしかじかと、話をしたところ、『いやいや竹岡さん、それでわかった。予算委員会の質問主意書を見て、私は肝がつぶれた。こんな質問をテレビの映る時間帯に『時間もやられたら、私ら辞表を書こうと思っていたところですよ。それを、野中先生が横からひつさらって、換骨奪胎して、テレビの映らない時間に変更して十五分で終わらせてくれたんですよ。今、やれやれと胸をなで下ろしているところなんですよ。竹岡さん、もう一度、野中先生のところに引き返して、御礼を言ってきてくれませんか』と。こういうことで、再び参りました。先程は、誠に申し訳ない暴言をいたしました。お許し下さい」
いや、怒る時も一直線だが、謝る時もすっきり、あっけらかんとしていて、好青年だなと思った。
私は、「今も京都の知事や市長から、『野中さん、何をやってはるんですか。ご承知のように、京都は公明党さんの応援なしでは共産党に選挙で勝てしまへんで。何をとち狂っておられるんですか』と、お叱りを受けたところです。男が一たん口から出したら、それは取り消しがきかんのです。だから、竹岡さん、あなたの言うことが正しいのですよ。でも、三流の政治家と言われたのは、この野中広務、初めてですよ」と、答えた。
以来、親子程の年の違いはあるが、急速に友誼を深めていった。
ある時、竹岡氏が、
「野中先生、今、公明党は新進党として、自民党と対立していますが、私は公明党は自民党と組むべきだと思っているのです。戦後五十数年、外国からも侵略されず、国内の内戦がなかった日本は、希有の国です。それは、保守たる自由民主党のおかげです。でも現在、自民党は制度疲労をおこしています。公明党というより、支援母体の創価学会には、池田先生が手塩にかけて育てた青年部がおります。また、何よりも平和を願う健全な婦人部がおります。この創価学会の青年部・婦人部と手を組んで、政局を安定させ、難局を乗り越えようではありませんか」と、やって来た。
自公連携を、私に呼びかけたのであった。
当時、竹岡氏は創価学会内では役職もなく、聞くところによると、まったくの手弁当で私とも付合い、行動をしているとのことであった。もちろん、創価学会上層部の指示ではなかった。
竹岡氏は、まず手始めに、先の草川昭三氏との面談をセットした。草川氏は、もともと石川島播磨重工の労組の支部委員長であったが、さる縁で、公明党・国民会議に所属していた。歴戦の闘士である草川氏は、さすがに分析力にすぐれ、先を見る目もしっかりしていた。この会談が一つのきっかけとなって、潮目が変わっていったように思う。
その後、多くの方々にお引き合わせいただいた。実に勘どころのいい人選であった。以来、紆余曲折はあったものの、自白連立を経て、自自公連立へ、そして近年までの自公連立へと進んで行ったことは、公知の事実である。
自公連立を見届けるかのように竹岡氏は、具体的な交渉の場から引いていったが、ことあるごとに持論を述べに私のところにやって来た。
今、私も政治の現職を離れ、自由な立場でものを言っているが、保守中道の自公連立の果たした功績は、日本の将来にとって大なるものがあったと確信している。
この度、『サンロータスの旅人』との本を上梓されるにあたって一文を寄せたが、旅人とは、言い得て妙であり、竹岡氏はいったいいつ自分の席におられるのかと不思議に思っていた。
ある時はカンボジア、ある時はエジプト、ある時はネパールと、とどまるところを知らない挑戦に、敬意を表するものであります。
これからも、お互いいかなる立場にあれ、大所高所の意見が忌憚なく言い合える忘年の友でありたいと念じております。
「サンロータスの旅人」発刊に寄せて―――より
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