2010年8月 今回のメンバーはイズミールの地に招待された。イズミールはトルコ第3の都市で、地中海に面した観光の拠点ともなる土地である。イズミールの歓迎団の会長は、われわれをとても温かく迎えてくれた。その応対、振る舞いに、素晴らしく感動した。 フェスティバルでは歌と踊りを各国5分ずつ披露した。受入先のトルコの子供や親がアリーナ席に座った。中央の舞台、アリーナ席を挟んで、両側の席に、招待された国の子供や親が座るという会場設定になっていた。この設定も、交流を深めるのにとてもいい雰囲気を作っていた。 トルコにいる間、ずっと感じていたことだが、トルコの子供たちは、われわれ日本のメンバーに対して、とても好意的で紳士的だった。その要因のひとつに、明治時代にトルコの親善使節船エルトゥールル号が日本からトルコへ帰る途中、台風にあって和歌山の沖で沈没し、遭難したトルコ人たちを地元の人たちが必死に助けたことが挙げられる。この出来事は、代々トルコの人々に語り継がれ、小学校の教科書にも掲載されている。今もその恩義を、伝え教えているのだ。このエルトゥールル号の遭難で、地元の人たちが助けた行為がイラン・イラク戦争のときに、トルコ空軍が助けにきたエピソードにも繋がっている。 このような歴史を考えても、私はかねてから世界の平和にとってアジアが要であると考えてきた。そのアジアの極西と極東が友好を結ぶことは、地政学的にも大変意義あるものと考えていた。トルコと日本の友好は、両国の発展のみならず世界にとって大きな意義と価値を生ずる貴いものなのである。イギリス、フランス、ドイツに代表される中世・近世のリーダーなるヨーロッパ、そして二十世紀のリーダーなるアメリカ合衆国、その後にインド、中国、日本のアジアがある。 私は青木満先生にお願いをして、日本の教科書にもトルコのことを掲載していただいた。 「エルトゥールル号遭難事故」 1890年9月、トルコという国の皇帝が日本に送ったエルトゥールル号が、トルコへ帰る途中、台風にあって和歌山県串本町の沖で遭難しました。たくさんの人が死亡しましたが、なんとか69名だけが生き残ることができました。地元の人は、自分たちの食べ物も満足になかったにもかかわらず、遭難したトルコ人たちを助け、最後の食料として残しておいたニワトリまで食べさせ、一生懸命に世話をしました。そのおかげで元気になったトルコ人たちは故国へ帰ることができました。 それから100年近くたった1985年、イランとイラクという国のあいだで戦争が始まりました。イラクのサダム・フセインは「48時間後にイラク上空を飛ぶ飛行機はすべて撃ち落とす」と宣言しました。それを聞いて驚いたのが、イランに住んでいた日本人たちでした。みんな、あわてて空港へ行き、脱出しようとしました。ところが、飛行機はすべて満員で、どうしても乗ることができません。いったい、どうすればいいかわからず、空港で足止めされた日本人は追いつめられてしまいました。 そのとき、トルコの飛行機がやってきました。トルコの飛行機は日本人全員を乗せて飛び立ち、日本人はみんな命が救われました。トルコの飛行機がどうしてやってきてくれたのか、日本政府もわかりませんでした。あとになって、トルコの大使は「私たちは、エルトゥールル号が遭難したときのことを忘れていません」と言いました。 |