2011年4月
今回の探検旅行の特筆すべきことに、三浦雄一郎氏と北大で机を並べていた本庄夫妻が同行した。本庄氏と三浦氏についてのエピソードは下記にてご紹介する。
また、南極大陸に関する基本的な情報も合わせて記す。
●科学者と父の約束/三浦豪太
今週、スウェーデンでノーベル賞授賞式が開かれた。化学賞に輝いた下村脩さんを見て、ある人のことを思い出した。下村さんと米プリンストン大で交流のあった、米ウッズホール海洋研究所の本庄丕(すすむ)名誉教授だ。
1971年秋、僕の父の雄一郎は大学の同級生の本庄さんが米国に研究者として旅立つのを羽田空港で見送った。37年後の今年、くしくも父が75歳でエベレスト登頂を果たしたのと前後して、本庄さんの研究結果が海洋学会で世界的な関心を集めた。
水深の深い海には「生物ポンプ」とでも呼ぶべき特殊な生態系が存在する。その生態系は、地球温暖化の一因になる空気中の余剰炭酸ガスをポンプのようにして間断なく深海層に運んでおり、地球の気温上昇を抑えるのに役立っている。本庄さんは20年前から立てていたこんな仮説をついに数値で実証しました。この発見が学会でも画期的なもので、地球温暖化の将来予測にも影響を与えるだろう、といわれているそうだ。
50年前、本庄さんと父は北海道大学のスキー部の合宿所でいつも大きな夢を語っていた。夢が大きすぎて、周囲から"どうしようもないはみ出し奇人"と見られることもあったようだ。本庄さんは父に「だまされて入った」というスキー部でマネージャーも経験。「資金調達をやらされたのが一番役に立った」と言う。研究に必要な資金を政府や企業から引き出してくるのも教授の大事な役目だからだ。
今年、父がエベレスト山頂へ向かう前夜、本庄さんから励ましのメールが届いた。「科学は人類の想像力を宇宙の限界にまで広げ、技術の進歩は電子の動きをてっちてきに制御して、今や人類の計算能力はテラフロップ(毎秒1兆回の浮動小数点演算=筆者補足)単位になりました。しかしながら加齢に伴う精神的、肉体的な低下を克服することは、人類の可能性の限界を広げようとする数々の努力、例えば100メートルの移動を10秒以下で行う試みと同様、あるいはそれ以上に人類の進化によって大きな意義があります」
米国に旅立つ本庄さんと父は羽田空港でこんな約束を交わした。
「人類の可能性の限界を1ミリでも広げよう」。
父は今でも色紙にサインをする時は必ず「夢、いつまでも」と記す。親友同士は今でも身をもってそのときの約束を貫いている。
(探検学校 2008年12月13日 日経新聞(夕刊)より抜粋 転載)
●南極大陸、南極探検隊、について、日本の南極観基地について
【南極点】
地球の回転軸が地表と交わる二つの点のうちの一つで、毎年、地軸の移動とともに南極点も移動します。
【南磁極】
磁石が南を指す地点。1年に10kmほど北に移動しています。
【南磁軸極】
磁極とは別に、地球表面の地場の分布図から地球を貫く1本の棒磁石を想定し、その軸が地表と交わる点。その他に、すべての海岸線から最も遠い「到達困難極」があり、このあたりの環境はとても厳しいです。
【南極大陸の発見】
15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパ人にとって未知の海域であった南半球への航海が、活発に行われるようになりましたが、南極大陸の発見までには200年以上の時間がかかりました。南極は1820年に発見されましたが、発見者については確定していません。ロシア海軍のベリングスハウゼン、海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ猟師のナサニエル・パーマー等の名前があげられていますが、彼等による発見時期は同じ1820年で、数日程度しか離れていません。パーマーはは1月27日、ベリングスハウゼンは1月28日、ブランスフィールドは1月30日に発見したとされています。
【南極の探検家】
1831年に北磁極の位置が確定すると、南磁極の位置に科学界の感心が持たれるようになりました。ベルギーやドイツ、スウェーデンが南極に探検隊を派遣し、越冬を行いました。1901年から1904年にかけては、イギリス探検隊が南極に上陸しました。ロバート・スコット率いるイギリス探検隊が基地を設営し、内陸部の探査を行いました。
南極点に初めて到達したのはノルウェーの極地探検家 ロアール・アムンセンで、1911年12月に到達しました。
1912年1月、前述のイギリス海軍士官であるロバート・ファルコン・スコットが南極点に到達しましたが、残念ながら帰路に全員死亡してしまいました。
1914年にアーネスト・シャクルトン率いる南極大陸横断を目的とするイギリス探検隊が結成されました。しかしながら、探検隊の船・エンデュランス号は南極到達前に氷に閉じ込められ、漂流することとなりました。9ヶ月後に船が氷に破砕、沈没されたため、ボートにより脱出し、サウスジョージア島に助けを求め、長期の遭難にも拘わらず、全員生還したことは世界的に有名です。
日本は1956年〜1957年 第一次日本南極地域観測隊を派遣して、昭和基地を建設しました。その後、1957年〜1958年に実施した第二次観測隊は、日本初代観測船「宗谷」が南極大陸に接岸できず、越冬を断念しましたが、第三次隊(1958年〜1959年)が昭和基地を再開し、タロとジロの生存を確認したことは大きな話題になりました。
【日本の観測基地】
日本の南極観測は1957年にスタートしました。昭和基地をベースに、オーロラ観測や氷床の掘削、鉱物の調査や隕石の発見、動物の調査など、幅広い活動をしています。観測隊は毎年11月、砕氷船「しらせ」でオーストラリアを出発。12月に南極の越冬隊との交代式を行い、越冬を終えた隊員と、夏のみの隊員を乗せた「しらせ」は2月10日ごろ帰路につきます。
(みずほ基地)
1970年にみずほ観測拠点として開設、1978年に「みずほ基地」に改称されました。現在は、積雪により基地全体が埋没し、観測基地としては使用されていません。現在は主に昭和基地からドームふじ基地へ行く際の中継基地として使用されています。
(ドームふじ基地)
1995年にドームふじ観測拠点として開設、2004年に「ドームふじ基地」に改称されました。氷床深層掘削計画が実施されています。これは氷床を深さ3000m以上掘削して氷床コアを採取し、分析することで過去約100万年間の気候変動が判明するものと期待されています。
(昭和基地)
1957年に昭和基地を開設。天体、気象、地球科学、生物学の観測を行う施設です。施設は53の棟から成、3階建ての管理棟ほか、居住棟、発電棟、汚水処理棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、焼却炉棟、電離層棟、地学棟、ラジオゾンデ(観測機器)を打ち上げる放球棟があり、このほか、大型受信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、太陽電池パネルがあります。また、貯水用のダムもあります。
観測隊は、気象のほか、地磁気、オーロラ、隕石、生物など様々な分野にわたる観測を行っています。最近では、大陸の内部の氷を調べて、過去数十万年の気候を明らかにする研究も行っています。現在は、5人の越冬隊を毎年派遣して、昭和基地では次のような観測を行っています。
・地上気象観測―――1日に8回の観測。0、3、6、9、12、15、18、21時。主に気圧、気温、相対湿度、風向、風速、雲、視程、大気現象などを観測します。
・高層気象観測―――1日2回の観測。0、12時。主に気圧、高度、気温、相対湿度、風向、風速を観測します。
人間の活動の活発化などにより、地球の大気はどんどん変化しています。観測棟では、二酸化炭素、一酸化炭素、メタン、地上オゾン濃度などを観測。その結果は、地球温暖化など、地球環境を監視する重要なデータとなっています。
・オゾン観測―――オゾン全量、垂直分布、地上オゾンの観測をします。
・日射・放射観測―――直達・散乱日射量、下向き放射量、大気混濁度、紫外線日射量などを観測します。
※世界各地で起こっている地震を地震計で観測し、震源や地球内部構造を知るためのデータを集めています。
※地球の大気の上には、電波を反射する電離層があり、この層は太陽の活動によって刻々と変化しています。昭和基地は、電離層の電波の吸収の程度などを調べ、データを日本国内に伝えています。そのデータは宇宙天気予報にも利用されます。
※隊員の協力の下で、人間の体が寒冷地にしだいに慣れ、適応していく過程も研究しています。
※極地の夜空に美しく舞うオーロラ。あの不思議な自然現象は、高さ100〜500キロメートルの上空(超高層)で起きます。ここではレーダーや全天を撮影するTVカメラなどを使い、オーロラをはじめ、超高層で起きるさまざまな物理現象を観測しています。
南極昭和基地で気象観測資料は観測隊の行動家計閣を進めるために利用されるほか、衛星回線を経由して気象庁や世界各地の気象機関に送られ、数値予報や各種研究等に利用されています。
出典:環境省地球環境局、国立極地研究所、Wikipedia
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