2011年11月23日〜24日:メラピーク激闘記録 三浦父子が明日、頂上からスキーで滑降する際の目印となる赤い旗が、竹竿に括り付けられ、遥か遠くで翻っている。よし、あの旗まで登ろう。そう思い、前に進んだつもりでも一向に近付いてこない。もう上を見るのはやめよう、下を見よう。自分はここまで上がって来られたではないか。 途中で何度も手袋と汗で濡れた下着を取り替えながら、ポカリスエットと熱いお湯を交互に飲む。足は思うように進まない。それほどキツイとは感じなかった緩やかな坂が、白い鵺が住む化け物の巣のように思えてくる。 そのうち急激な睡魔が襲ってきた。昨夜も今朝も食事は殆ど摂っていない。頭の中で、行くと決めたのだから行くぞと叱咤するも身体は動かない。すると「おい竹岡、少しでここで休んでいると楽になる。そんなに無理することはないぞ」との声が聞こえてきた。と同時に、孫の香織が「ジッコ、ジッコ」と私を呼ぶ声も聞こえてきたのだった。 あと1時間歩けば…というところに来て、様々な妄想が目の前に現れては消えた。自分がいま、どこにいるかも分からない。ふと我に返ると失禁してしまったことに気づき、慌てて始末をした。隣でエスコートしてくれるアリタ氏がいなければ、精神的にもどうにかなってしまいそうだった。 ―――東京に戻った翌日には、ゴルフがあるぞ。ここで倒れてしまったら、もう素晴らしい仲間に会えなくなるぞ。 何よりもこれからは人生の師である池田先生への恩返しとなる人生を歩むのだ、と誓ったのではないか――、そんな幾重もの想いが無意識のうちに増幅されて、背中を押してくれる。とにかくあそこまで行こう。あそこまで行ってみよう。あの丘まで行けば、何か違うものが見えてくるかもしれない。 そんなことを考えているうちに「台家は妙法蓮華経に南無し、当家は南無妙法蓮華経に南無する」という新しく西山本門寺に伝わった御義口伝の一節が頭の中に弾けた。そうだ、私は南無妙法蓮華経を南無する人生を誓ったのだ。ここで死んでもいいから、南無南無妙法蓮華経と唱えて死のう。こうして私は南無妙法蓮華経を三度唱えた。 すると丘の上にサーダーの姿が現れた。 それでもなかなか前には進まなかった。いつもの半分ほどの歩幅で、とにかく足を前に出すしかない、と丘を目指し、ようやくそこに辿り着くことが出来た。岩山の右手に三つのテントが見える。やっと着いたぞ、と心は躍るがもう足は動かない。 「竹岡さん、よく頑張りましたね」という豪太氏の声にも反応できず、私はそのテントに転がり込んだ。ひどく眠い。頭が痛い。寒い。話しをする気も起きない。 「ここまでこれたらもう大満足です。三浦隊の成功を祈っています。私は明日、ここから下山します。ここまで来られたのも、雄一郎さん、豪太さん、貫田さん、アリタさん、皆さんのおかげです」 貫田さんは私の荷物を整理しながら、ピッケルとかスティックはテントが破れるかもしれないから、外に出しておくんだよ。運動靴は枕代わりに頭に置いて、時計とかライトとはすぐ取れるように頭の横の袋に入れる。寝袋には出来るだけ薄着でいい。しっかり先まで足を入れて…、と手取り足取りのアドバイスをくれる。 2人用のテントには、私と貫田さん、三浦父子、シェルパ達が分かれて休んでいた。 |