2013年11月12日 (2/8) 「開三顕一今にあり」2 方便品を読む パクディンの宿にて、夕方の勤行の後、洗顔して自室にて法華経の方便品を読んだ。方便品は、法華経全28品のうちの第2番目で、実質的にここから説法が始まっている。迹門といわれる前半部分において最重要の法理が展開される部分である。ちなみに後半部分の本門でのそれは、寿量品(如来寿量品第16)にあり、この両品の核心部分を、私は朝晩の勤行で読誦している。 方便品は、普段の勤行ではその冒頭部分だけを読誦するが、その後に続く同品の経文のなかに「誰であれ、信心ある者であれば御本尊を造立してもよい」といえる依文があるとの示唆を、私は旅の前に受けていた。 それは、3月26日のこと、広野輝夫さんの紹介で知遇を得た山中講一郎氏を大阪に訪ねた際のことであった。氏は、法華経ならびに日蓮関連の市井の研究者で、その妥協のない真摯な姿勢は尊敬に値する人物である。 氏の言説を特に注目したのは、私が師と仰ぐ創価学会の池田大作会長(現名誉会長)の元、男子青年部の人材育成機関である創価班全国委員長という立場で組織の中枢にいた1978年~80年(昭和53年から55年)当時、日蓮正宗総本山大石寺との間で発生したいわゆる宗門問題において、鍵となって、池田会長の勇退へと追い込まれたのが「謹刻問題」であったからである。 「謹刻問題」とは、尊崇の対象たる御本尊を永遠たらしめる意図から紙幅であった学会常住の御本尊ほか8体を板曼荼羅として学会が謹刻したことを、宗門側は「無許可で行なった」と非難し謗法行為であると決めつけたことをいう。(*詳しくは別項を参照ください) そもそも謹刻とは、御本尊を授与された信徒が信心から始めた行為であり、許可の有無など問われる筋合いのものではなかったことは歴史的にも明らかであるが、ここで、根本経典である法華経にそのことをよしとする内容があったとすれば、ますます当時の問題が言いがかりであり、宗門こそ非であったと、学会の正義をここに決着させるものとなるのではないか。そのように考えて、今回の旅には法華経(『妙法蓮華経並開結』)を持参し、機中であろうと宿舎であろうと、時間があれば特に方便品を選んで何度も読んだのである。 皆已に仏道を成じたり 山中氏が指摘した方便品の経文は、「比丘偈」と呼ばれる品中最後の偈文の「又諸の大聖主は 一切世間の 天人群生類の 深心の欲する所を知しめして 更に異の方便を以て 第一義を助顕したまいき」以下の「若しくは……、皆已に仏道を成じたり」との表現が10回にわたって繰り返されているくだりである。 これを、日蓮大聖人の立場から読めば「第一義」とは「南無妙法蓮華経」であり、御本尊にかかわることを示しており、「御本尊の讃仰のあり方、化儀についての明文」とみることができるという。 過去世の仏たちが、それぞれ方便を用いて第一義を顕す手立てとしてきたが、その各時代の衆生はいかにして成仏できたか、その事例が10項目あげられているが、その第2項「諸仏の滅度し已(おわ)るも 若しくは人に善軟の心あらんに 是くの如き諸の衆生は 皆已に仏道を成じたり」において、「信心」が成仏の因であると示した後、第3項以降で、供養・讃仰のあり方、化儀についての記述となる。 第3項では「舎利(=御本尊)を供養する者は 万億種の塔を起てて 金・銀」などあらゆる宝物をもって飾り立てて供養するのも、「童子の戯れに 沙を聚めて仏塔を為(つく)らんも」、その功徳は等しく成仏の因となるとして、信心、真心の行為こそが重要であると説く。 そして第4項「若しくは人あって仏を為(も)っての故に 諸の形像を建立し 刻彫して衆相を成さんも 皆已に仏道を成じたり」は、信仰の対象となる本尊の建立や謹刻は「仏を為(も)っての故に」、つまり「仏を尊崇するため、法の宣揚のため」という「信心」の行為であるかぎり許され、成仏の因となると説かれるのである。 第5項「或いは七宝を以て成し 鍮石・赤白銅 白鑞及び鉛錫 鉄木及び泥 或いは膠・漆布を以て 厳飾して仏像を作れる 是くの如き諸人等は 皆已に仏道を成じたり」と第6項「綵画して仏像の 百福荘厳の相を作すこと 自らも作し、若しくは人をしてなさしめんに 皆已に仏道を成じたり」も、その材料を問わず、つまり今日の技術をもって復刻するなどして本尊流布に努めることは、成仏の因となると、一貫している。 山中氏の論説を頼りに方便品を読むにつれて、私は、信心の上から仏法を永遠ならしめようと行った謹刻は何ら非のない行為であり、それどころか成仏の因であるとの確信を深めるにいたった。 少智は小法を楽って自ら作仏せんことを信ぜず さらに続く第7項では「乃至童子の戯れに 若しくは草木及び筆 或いは指の爪甲を以て 画いて仏像を作さんに 是くの如き諸人等は 漸漸に功徳を積み 大悲心を具足して 皆已に仏道を成じたり」とあり、第3項に続いてまたしても「童子の戯れに」と出てくる。 今更ながらに、1976年(昭和51年)の4月に発表された池田会長の「生死一大事血脈抄」の講義において、「血脈」とは、秘密めいたものではなく、信心の血脈であり、広宣流布を推進する学会員の中にこそ流れるものとの趣旨が展開されたことが思い出された。 「童子」に代表される弱者であれ、信心ある者こそ、つまり、学会員こそが仏といえるのである。 「是の法」とは、「自ら作仏せんこと」である。宗門をはじめ、当時としては、これはかなり踏み込んだ内容と受け止められ、「猊下(法主)をないがしろにする」等と、会長への批判が強められていった。各寺院に詣で、塔婆供養等を頻繁にして僧侶に拝んでもらわなくてはならないとの観念が、当時は広く支配していたのである。事実、1978年(昭和53年)6月30日には、双方の和合の観点から、聖教新聞紙上に「教学上の基本問題について」と題して学会側としてかなり譲歩して宗門側の指摘を受入れざるをえない局面もあった。 だが、「今正しく是れ其の時なり」「今我れは喜んで畏(おそれ)無し 諸の菩薩の中に於いて 正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とある。 1977年(昭和52年)元旦の池田会長による「寺院は儀式の場、学会は広宣流布の団体」との定義付け、1978年(昭和53年)の私が創価班委員長を拝命した7月18日の「恐るるな 創価の道は 信の途(みち)」とのお歌と、「信心とは、会員を守ることだ」「創価班は、徹して会員を守れ」とのご指導など、それらは一貫していたのだと、方便品を読み進めるうちに、その本意がはっきりと見えてきた。 これまでは、本当のことを言えば、あるいは「当来世の悪人は 仏の一乗を説きたまうを聞いて 迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん」とあるとおり、会員は迷って退転してしまうのではないかと心配したが、「今正しく是れ其の時なり」と、釈尊の如く「正直に方便を捨てて」、池田先生は方便品を実践されたのではないかと思えてくるのであった。 是の法は法位に住して世間の相は常住なり 10項目の「皆已に仏道を成じたり」のすぐ後にある「是の法は法位に住して 世間の相は常住なり」の文言は、私には唐突で、その意味を図りかねていたが、ここにきて、その真意が鮮明に浮かび上がってきた。 「是の法」とは「池田先生の示された道」であり、それは「法位に住して」、つまり「最高の位」であって、「世間の相」=「俗世で懸命に励む会員」は「常住なり」、「もともと仏である」と。 このように感じられて、同偈文中の「喜んで南無仏と称す」や、最後の「汝等は既已(すで)に 諸仏世之師の 随宜方便の事を知りぬれば 復た諸の疑惑無く 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」との釈尊の声が、自然に受入れられるように思えてくるのであった。 そして同時に、当時「寺は関係ないよ。会員が仏様なんだよ。自分で成仏できるんだよ。僧侶によらなくてもいいんだよ」と話しかけられていた池田先生の声が脳裏に蘇って、あれは先生の大宣言だったのだと気がついた私は、何ともいえない歓びに包まれるのであった。 方便品の主題は、「開三顕一」といって、声聞、縁覚、菩薩の三乗の法を説く立場をはらって、仏の真意である一切衆生皆成仏道の一仏乗の法を顕すことにあった。一連の宗門問題は、池田先生自身によって呼び起こされた、先生の「開三顕一」だったのではないかとさえ思えてくる。 |