「竹岡さん、見渡す限りのハスの花を見に行きましょう」 コンノインターナショナル代表の江蘇萍女史から提案を頂いたのは、2005年のことだった。江女史は、中国・上海生まれ。文化大革命の渦中に激動の青春時代を過ごし、日本留学の後、アメリカに渡って米中全国貿易委員会やニクソンセンター(いずれもワシントン)に勤めるなど、いわば中米日の全ての国に通じた方である。彼女は私に笑顔で語って下さった。 こうして日程調整と行程調整に苦労しながら、足掛け四年、オリンピックの開催を間近にひかえ、ピリピリと緊張感のはしる中国に集合し、武漢、西安の旅を開始したのは7月19日のことであった。 それぞれの場所から上海に集合した一行は、その日のうちに武漢に飛び、更にバスで4時間かけて、中国7大名湖の一つ洪湖にたどり着いた。そこから高速ボート2台に分乗して、20分走り、湖にある島の宿舎に着いたのは、夜8時をまわっていたが、そこは、停電で真っ暗であった。次の日は、朝早く起きて洪湖の島を散策。行けども行けども聞いていた通り、地平線までハスの花が左右に広がる。田渕先生は、朝食もとらずにホテルを出た直ぐ前のハスの花を描き始め、何と他の一行がさまざまな施設の視察を終え、船に乗る直前まで一歩もそこを動かずに、1枚の油絵を仕上げた。 全世界の美術館や博物館でもそうなのだが、田渕先生は、ここぞと思ったらただちに紙と筆を取り出し、その場で納得のいくまで対象を描き尽くす。中途半端にして、次には決して行かれない方なのだ。「たった1枚のハスの絵」は、見る人をして中国内陸の7月の空と雲と楼閣とハスのかぐわしさに酔いしらさせるに違いない。 武漢市内に戻った私達は、本年6月に来日された際に親交を結んでいた華中科技大学の理事と教授の方々を表敬訪問した。中国で五指に入るといわれるこの大学でも、特に同済医学院は、もとドイツ人の作った医学大学で、中国の現代医学発展に大きく貢献した名門である。医学部棟のサロンで私達は、ハスの花の天ぷら、ハスの実の酢漬け、ベビーロータスの炒め物など、ハスづくしのごちそうを堪能した。(※1) 翌21日には、その長江を見おろす、李白の詩「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」(※2)で有名な黄鶴楼を、華中科技大学の黄肇榮先生の案内でたずねた。黄先生は、宋の時代の書の大家黄庭堅の子孫にあたる人で、日本語が堪能で人柄のすばらしい方である。 黄先生の説明で、黄鶴楼にまつわる仙人と黄色い鶴の言い伝えがあり(※3)、黄鶴楼は、美と芸術と真心と感謝の象徴であったことを知った。以来、中国を代表する歴代の文人・芸術家がこの楼に登って詩を作り、あるいは友を送るために酒を酌み交わすのであった。田渕先生は、限られた時間の中で、わずかなハガキサイズの紙に、鶴が天に昇るかのごとき、この壮大な楼閣を描き出した。 黄鶴楼をあとにした私達のために、同行者と親しい武漢市の副市長の岳勇氏がわざわざ会食歓迎会をもってくれた。これも、正式な、真心あふれる歓迎会で、長江の流れを借景にした思いがけない大歓迎に、心からの感謝を込めて、私が主賓の席でお話をさせていただいた。 そうこうするうちに、田渕先生は紙と筆を出して副市長の顔を描き始め、実に生き生きと誠実で温厚な岳勇氏の人格を写し取った肖像画を作り上げ、その場で贈呈した。すると、初対面どうしで緊張していた席が、まるでハスの花が一度に咲いたように、温かく和やかな場に一変し、副市長は満面の笑みと感嘆の声をもらした。これからも、武漢市が中国の要として益々発展し、日本との交流が更に深まることを祈って、この紙面をかりて心から御礼申し上げたい。 武漢市をあとにした田渕先生と私達は、次の目的地、西安に向かった。西安は、唐の時代は、ゆったりとした大雁塔(※4)に代表される国際都市、長安。現在では、理数系の教育機関が集積する科学技術の一大発信地である。ここでは、田渕先生にとっては、陝西歴史博物館で、世界の至宝をスケッチするのが最大の目的であった。7月22日、宿舎を出て、朝の大雁塔をスケッチして博物館に着いた。8時30分には、中国各地の小中学生や外国人の行列ができていた。驚いたのは、入場料が無料であったことである。オリンピック期間だけなのか定かではないが、「アッパレ」と声を上げたくなるではないか。 田渕先生は、午前9時から午後五時まで、休むことなく筆を走らせ、30枚近くの絵を制作した。5000年前の壺が、2000年前の人形が、1500年前の馬が、次から次へと新しい生命を吹き込まれて私達の前に出てくる。一枚一枚の絵には、中国5千年の美の結晶が凝縮されている。 最後にラクダに乗った楽人の唐三彩の前で時間切れとなったが、ここでも一つの素晴らしい出来事が起こった。口うるさいことが仕事のような博物館の係官が、「もう時間だ、時間だ、早く出ろ」と参観者を追い出しにかかったのだが、田渕先生とそのまわりの数人だけは、何と見のがしたのだ。離れていた私は、「あの田渕先生の連れだ」とアピールしたが、追い出されてしまった。田渕先生の美に対する挑戦と執念は、オランダのゴッホ美術館やエジプトのルクソール博物館と同じように(※5)、長安の博物館でも関係者の心を打った。 (※1)華中科技大学同済医学院での料理メニューは以下。大学側への感謝の意から、そのまま掲載する。メニューを表示する (※2)李白の詩「黄鶴樓送孟浩然之廣陵(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る)」の全文は以下。 (※3)黄鶴楼の伝説は、以下。 (※4)大雁塔は、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像を蔵するために、652年に唐の第3代皇帝高宗によって建立された。当初、5層であったが、のちに10層に増築され、さらに現在の7層、高さ64メートルの姿となった。 (※5)ゴッホ美術館でのエピソードは、2003年6月1日のこと。田渕先生と陶芸家の渡辺節夫氏、松下雄介氏、そして私とでギリシャ、イタリア美術の旅の帰途、機中で病人がでて、オランダのアムステルダムに緊急着陸。その待機時間の数時間を利用して、皆で国立ゴッホ美術館に行き、田渕先生は、有名な『馬鈴薯を食べる人々』をメモをし始めた。すると、警備員や職員がやって来る。当然、止めるように注意されると思っていたら、彼らは、ずっと目を細めてうれしそうにできあがっていくのを見守ってくれた。そして、帰り際に、「この人を大事にしなさい」と言うのであった。 |