2013年11月12日 (1/8)
2010年12月、還暦を迎え『サンロータスの旅人』を出版して後半生へのスタートを切った私の最初の大きな出来事は、翌年1月の南極への旅であった。 これは、世界各地への冒険旅行の企画会社グローバル・ユースビューローによるチャーター・クルーズで、アメリカのウッズホール海洋研究所の名誉教授で理学博士の本庄丕(ほんじょう すすむ)氏をはじめ、海洋生物学者、鳥類研究家などの学者が同行する、学術探求要素をもった南極大陸上陸と南極圏到達を目指す冒険旅行であった。 その旅の目的地、南極大陸のブラウン・ブラフ(南極半島先端)に上陸して小高い雪山に登ったときのことであった。隊長の雄一郎さんから「私は80歳で3度目のエベレスト挑戦を考えている。ついては、その高所訓練の一環として、メラピーク(標高6476m)というネパールの山に登る計画があるのだが、竹岡さん、一緒に行きませんか」と誘われたのだった。 つねづね雄一郎さんの何ともいえない温かい人柄と、常に希望と目標を持ち続けるその生き方に感銘を受けていた私は、山の魅力もさることながら、何日間も雄一郎さんや子息の豪太さんと一緒に生活して直にその人格に触れられる、願ってもない提案に二つ返事で同行を決めた。 当初、その春に行われる予定が、東日本大震災への対応で延期され、秋、11月11日からの18日間に実現した。私は標高5700mのハイキャンプまで同行することができた。
(*南極の旅とメラピーク遠征については、竹岡誠治公式ウェブサイト『サン・ロータスドットコム』sun-lotus.com をご覧ください) 本隊出発の日に 3月28日、私は支援隊の一人であるピー・パートナーズ会長、牧野頴一さんと連れだって、低酸素トレーニングを受けるために、代々木にある雄一郎さんの拠点である「ミウラ・ドルフィンズ」に赴いた。牧野さんは、豪太さんを隊長として活動する大人の探検倶楽部『豪太会』の会長を務めておられ、これまでも標高5545mのカラパタールへのトレッキングなど、さまざまの機会にご一緒してきた仲である。 「ミウラ・ドルフィンズ」には、雄一郎さんが自らの冒険のために作った標高6000m相当まで設定できる日本で唯一の常圧低酸素室があり、ここで段階的に設定を高めながら高所順応をする訓練を、4度に渡って行うことになっていた。この日は最初の訓練日であった。 ふたりが到着したとき、雄一郎さんが、まさに出発されるところであった。ちょうどこの日、三浦本隊が日本を出発する日であった。 雄一郎さんは、私の姿を見るなり、
「竹岡さん、マスコミが『80歳になっても、いつも元気ですね』と言うけれど、それは違う。私も体は傷んでぼろぼろなんだ。だが、あの素晴らしいヒマラヤの山々とエベレストの頂にまた行けると思うと、ワクワクしてきて、元気が出るんだ」と、その胸中を語られ、
「『年寄り、半日仕事』という言葉がる。全部を、今までの半分にして、体調管理をしながら今回の行程を組んでいるんですよ。キャンプも増やして、結果的にはヒラリーの初登頂のときと同じ行程になった。様子を見ながら、ゆったりとした計画にしているから、安心してください。ベースキャンプで待っていますよ」と、言葉をかけていただいた。 支援隊出発 4月24日、タクシーにて牧野さん宅に向かう。午後7時45分、牧野さんと私は池袋のサンシャイン・プリンスホテル着。午後8時15分発のリムジンバスで羽田空港へ。妻・茂子が見送ってくれた。9時30分、空港に到着し、支援隊のメンバーと合流する。 支援隊は、牧野さんのほかは、NPO法人東京コミュニティスクールの理事長で子どもの教育問題に取り組む久保一之さん、南極の探検旅行にもご一緒した原書房の原秀昇さん、2005年と2007年に雄一郎さんのチョモランマ・アドバンスベースキャンプ(チベット側、標高6400m)への遠征経験をもつ、福岡から参加の宮原美恵子さん、それに、旅行社ウェック・トレックの女性スタッフ、稲村道子さんと秋本博子さんの2名が付いて、総勢7名、タイ、バンコクにて合流する稲村さんを除く6名がここで集合した。原夫人が見送りにみえられた。 チャンティング・ルームにて 午前5時、乗り継ぎまでの待ち時間を利用して朝の勤行をしようと思い、私は航空会社のラウンジを捜した。タイ航空は、私がマイレージ会員となっている全日空と同じグループ(スター・アライアンス)で提携関係にあり、そのラウンジが使えるのである。ところが、行ってみると早朝のため閉まっていた。そこで主にイスラムの人々が利用するその隣にあるチャンティング・ルームが空いていたので、入って法華経の方便品、寿量品の自我偈を読誦し、南無妙法蓮華経の題目を唱えて、勤行をした。その間、イスラムの旅行客もやってきたが、別段妨げられもせず、かたわらでイスラムの祈りも始まった。日常の祈りは、日本においては奇異に見られるかもしれないが、世界では、むしろ自然な行為なのである。 私は、雄一郎さん、豪太さんをはじめ、全員の無事と大成功を一心に祈った。 ガートの煙 空港待機の後、午前10時15分発タイ航空319便にてネパールの首都カトマンズへ。12時25分(現地時間、日本との時差3時間15分)トリブバン空港に到着し、わたしたちの宿舎ラディソンホテルへ向かう。 途中、空港の西に流れるバグマティ川を渡るとき、煙が上がっているのが見えた。そこには、パシュパティナートというネパール最大のヒンズーの大寺院があって、川沿いに作られたガートと呼ばれる火葬場があるとのこと。煙は、その火葬によるものであった。そして、川は聖なるガンジスへ注いでおり、遺灰はその川に流されるのである。 厳粛なるガートの煙は、私に親しい人々に対する愛惜の情を呼び覚まさせた。 エベレスト街道へ 一夜明けて、4月26日、エベレストへの玄関口であるルクラへ向かう。 6時発の予定が、ルクラの天候が悪いとのことで、天候回復を待つこととなった。ルクラへは、ローカル航空会社の12~3人乗りの小型機での有視界飛行である。目的地の飛行場は標高2827mの山の斜面に造られている。飛べるかどうかは天候次第ということになる。悪天候の場合、回復を待って何日も待たされることもある。いささか心配だったが、7時半には出発、8時に到着した。 ルクラからは、エベレスト街道といわれる車が通れないトッレキング路になる。トレッキングに入る前に、エベレスト登頂経験をもつ有名なシェルパ、ナワヨンデンさんのロッジ兼土産物屋、ハッピー・ロッジでティータイムとし、そこで種々、アドバイスを受ける。 とにかく水分を取ることが大事で、1日に5リットル程度は取るようにすること。また高所に行くと、小水が出にくくなるが、努めて出すようにすること等の心構えを聞いた。 9時15分、歩き始める。緩やかな下り道を2時間半ほど進み、11時45分、タダコシという村落で1時間のランチタイムとなる。 日本に昨夜来、私を悩ませる出来事があり、少々イライラしていたが、ランチのとき、それを見透かすように旅行社の稲村さんが「山に来たら何も考えずに、ただ歩いて食べて寝るだけですよ。余計なことは考えない方がいいですよ」と助言してくれた。 おかげで午後からは、スッキリした気持ちで歩くことができた。 午後2時半、トレッキング1日目の宿泊地、標高2652mのパクディンに到着、サンライズ・ロッジ・アンド・レストランに入る。 |